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食事前の「いただきます」という動作について

おはようございます、ひろです。
朝食を食べる時にふと「いただきます」について思ったことがあるのでここに記します。


日本特有の食事のあいさつの教育

日本人は基本的に幼い頃から食事をする際に「いただきます」と挨拶することを教わってきたと思います。海外ではその風習は無いため、これは日本特有のものですよね。大人になるまではよく「手を合わせましょう〜。いただきますの挨拶をしましょう〜。い・た・だ・き・ま・す!」と号令してきた記憶があるでしょう。

そして主に外食の場面になりますが、大人になってから毎度声を出して「いただきます!」と言っている大人はむしろ希少だと思われているのではないでしょうか。(自宅では手を合わせてるひとは多いかもね)

手を合わせて唱えることだけが果たして正しいのか

もちろん私は毎回声に出して号令しているわけでもなく、たまに手を合わせていただきますをしているひとを見ると、「わ〜。素敵だな〜。きっと育ちがいいんだろうな〜。」と思ってしまいます。そして今回伝えたいことは、必ずしも表面上の行いだけで判断するべきではないということ。

極端な例を出します。
一見、手を合わせていただきますをしているが全く心がこもっていない場合と、手は合わせていないが心の中では食事に感謝している場合があったとします。
果たして、どちらのほうが本来の風習として正しいものに近いのでしょうか。

「いただきます」の本質を考える

正確に概念や由来を調べたわけではないですが、こどもに教育する目的として「食事に感謝すること」を身につけさせることなのではないでしょうか。原材料の生産者、食事を作ってくれたひと、食事ができること、いろんなことに感謝できるこどもに育ってほしいと願って”食育”をしていくのではないですか。そう考えたときに「手を合わせて発声すること」自体にはあまり意味はなくて、感謝を念じることに意味があると思うんですよね。
食事自体に感謝できていれば十分というか。
もちろん、きちんと気持ちを込めて動作までしているひとが最高に素晴らしいとは思います!そして流れのように動作をしているひとが悪いわけでもなく。

日頃から物事の本質を考える

このように、いただきますひとつとっても、深く思考すればさまざまな角度から物事を見ることができるわけです。これはビジネスにもプライベートにも応用できます。すぐにできることでもないと思いますが、日頃から意識すれば自然とできるようになると思います。

今日はここまで。

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