選択的夫婦別姓制度に対するある批判への反論

以前から選択的夫婦別姓制度に批判的な人の理論には疑問があった。

合理性の欠如と根拠、そしえ知識の欠如だ。

そこに批判をまとめている人がいて、意見を広く求めるというので反論させていただく。

https://twitter.com/mukaituru/status/1319941612504379393

率直に言えば全般的に、まあ、どこかで見たなと言う感じのもののよせあつめだ。


まずは最初の箇条書きになっているあたりから。


海外で言えば、それがいいか悪いかはともかく、親の性をミドルネーム的に入れたり、完全に新しい姓を作ることもかなり自由な国もある。
翻って、いまそもそも選択肢が無いのが日本だ。
大前提としてここで疑問なのは、そこから選択肢が2つになる、というのははたして「多すぎる」のだろうか?ということだ。

2つの選択肢からの選択を否定するということはこの人は選択というものを頭から完全否定していることになる。

1項目ずつ反論していく。
まずは1の「多すぎる」だが、言い出した人は、1つ2つたくさんになるくらい数が数えられない人なのだろうか?
確かに、選択肢が10ある100あるというなら多すぎることによる弊害はあるだろう。
しかし、2つが多すぎるというのはこれは流石に日本人を馬鹿にし過ぎではないだろうか?
その人はファミレスでランチを食べるときにライスにするかパンにするかが多すぎる選択として困難を抱えるのだろうか?

次の2の選ばなかった選択肢云々は、それを言うのなら現状、まさに「別姓」を選択できなかった人の満足度が下がっているわけだ。
そもそも、「選ばなかった選択肢が満足度を下げる」というのは何を根拠に言っているのだろうか?
例えば海外で別姓を選んだ人が同棲にすればよかった(逆でも可)ということを後悔しているというデータでもあるんだろうか?おそらくはないだろう。

3.の期待感が上がるだが、これもこの状況に当てはめられる適切な根拠があるんだろうか?

例えば、上記ファミレスで、パンとご飯に加えて、クスクスとウガリとトルティーヤが選べます、となったらたしかにワクワク感は上がるだろう。でもそれはその選択が生きるための糧としての食料というレベルを超えて、嗜好を満たすものとして働くからではないか?
しかし同姓か別姓かはそういうものではない。生き方とまえ言うと大仰かもしれないが、人生に対する一つの姿勢で選ぶものだ。どちらにするかの決定は上記の例とは全く違うプロセスで行われるだろうし、多くの人にとって選択肢は明確だろう。もちろん悩む人もいるだろうし、カップルで相談、議論にあることもあるだろう。だがそれはパン、ご飯、クスクス、ウガリ、トルティーヤからどれを食べようか、というワクワクとは全く異なったシリアスな選択だ。
おそらくこの人は、「期待感が上がる」というのを全く根拠なく想像で言っているか、上記のファミレスでの選択のような今日はパンだけど、明日はウガリ、というようなライトな選択についての調査結果を元に過剰な援用を行っているのではないだろうか?

4は1と左程変わらない。そもそも2つの選択が多いのか?ということはすでに疑問として投げたが、この言説を由とするなら。ファミレスでよくあるワンコインで5,6種類のメニューから選ぶことができるランチをよく食べるような人は今日選ばなかった4つか5つのメニューのために後悔しっぱなしの人生を送ることになる。
そもそも、これも今回の状況に当てはめて、果たして根拠となるようなデータが有るのだろうか?

つまりこの1-4まではよく言っても根拠がない感情論。悪くえ言えば、選択的夫婦別姓を否定するために作り出した戯言としか言いようがない。

これに賛成できるのは賛成したいという思いが最初からあるからだろう。
意見の異なる人間を説得するには客観性も論理性も完全に欠如している。議論の論にもなっていない。

そして、有り体に言えば、あまりにも国民を馬鹿にしすぎている。いい年をした大人は自らの選択肢について上記で挙げられたような繰り言は言わないだろう。一体、この人は国民をなんだと思っていrのだろうか?

次の
>日本人同士の結婚による家族の姓を外形上国際結婚家庭と同じにすること
だが、これはまず意味がわからない。なぜ国際結婚を持ち出してくるのか?
そしてそこからこの視座を深めるでもなくインデックスの話に行く。つまり、国際結婚カップルはインデックス機能を書いたまま生活を送っているというのだろうか?
ならば、全国の国際結婚カップルに聞いてみてほしい。おそらくほぼ全員が「????あなたバカか?」で終わりだと思う。

広島カープの例を持ち出すのなら、ではカープの選手はみんな名字を広島にするのか?

一般家庭で言えば、それはそのばその場でインデックス的なものは出てくるだろう。
いまだって、子供がいれば「〇〇くんのうち」だろうし、いなくたって、夫婦でより関係の深い方を以て「〇〇のうち」で済む話だ。

そもそも、それを言うのなら、庶民に名字の使用が求められるようになった明治以前は家族に一体感がなかったのか?インデックスできずに家族ごとの見分けがつかなかったのか?

これはもうわけのわからない理屈で、要は今と違うやり方になるとわからなくなると言っているのに等しい。
そういえば、数十年前、職場にパソコンが導入され始めた時期、「こんな機会で仕事ができるか!」と喚いていた老害なおっさんたちがいた事を思い出す。
彼らは今でもそう言っているのだろうか?
まあ、森喜朗のOSがおそらく昭和、それも中期くらいから更新されていなさそうなところを見ると、今でもそうなんだろうし、そういうアップデート機能が欠如した人にとっては家族制度が変わることは恐怖なのかもしれない。
だが、そんな頭の古い人に合わせ続けてきたから日本は未だにバブル崩壊の余波から脱却しきれていないのではないだろうか。

そういえば、同姓を家族の絆に結びつけがちな政治家には自らが離婚している人もいる。彼らの同姓は家族を結びつける絆足り得なかったのだろうか。
そのことについて彼らが語ったことも、誰かが聞いたことも見たことがない。日本のメディアは優しい。僕なら即時突っ込むのだが。

そして、お約束の子供のことだ。
そりゃ、新しいものは異質だろう。そこに軋轢があるかもしれないことは事実だ。じゃあ、前述のPCの例で、わからないおっさんがいるからパソコンは導入しないと決めた会社があったとしたらどうなっただろう?
もちろん、ユニコーンなワンアンドオンリーの強みを持つ会社なら生き残れるかもしれない。でもレッドオーシャンな業界の会社なら、間違いなく業績が悪化して倒産して終わりだろう。

社会がアップデートされるときには軋轢や摩擦が生じることは避けられない。それは事実だろう。

社会のすべきことは軋轢や摩擦を理由にアップデートを否定することではなく、迅速にアップデート後の世界がニューノーマルになるような施策を行っていくことだろう。

今の子供は20年後の大人だ。
子供を理由に選択的夫婦別姓を否定することは、結局はその子どもたちが20年後に、自分の姓についての電卓ができないことも意味するのだ。

そして有り体に言えば、これは時間が解決するであろう問題だ。3,40年前なら、親が離婚している家庭はまだまだ少なく子供が偏見にさらされる事もあっただろう。でもこれだけ離婚家庭が増えると、偏見も和らいできているだろう。実際、今どきの子供に聞くと偏見は殆どない。むしろ「あ、微妙なこと聞いちゃったね」と気を使う子もいるくらいらしい。

センシティブだが珍しくない問題になるのだ。別姓も時間とともに間違いなくそうなっていくことは間違いないだろう。

人間は大抵のことに慣れる生き物なのだ。

そして、
>多様化・異文化共生が叫ばれる中、日本語を解せず日本文化に馴染もうとしない人達が日本国内にまるで本国の飛び地のようなエリアを設けているケースがある

この下りは何が一体のかさっぱりわからない。なにか選択的夫婦別姓と関係がある話題なのだろうか?僕にはどうもそうは思えないのだが。

そして逆にお伺いしたいのだが、選択的夫婦別姓制度の導入で、この制度を支持ない人になにか直接的かつ実質的な不利益はあるのだろうか?

僕自身は導入を支持する理由として、その制度を求めている人がいるという現実と、さらに、それが現在から未来に渡って同姓を実践する人にとって、感情面は於くとして、実質的になんのデメリットもない制度だと思っていることがある。

導入によって同姓の人が不利益を被るのなら、制度の導入に一定の配慮や身長差も求められるだろうが、そういう不利益があるとは思えない。

今回上で反論した反対する理由にもそれが全く出てこないことはその証左だろう。

これまで選択的夫婦別姓制度に反対する人に何度もこれを問うてきたのだが、これまでただの一人もこの疑問に答えられた人はないのだ。

これは僕にとって大きな疑問だ。

そしてもう1つ。見逃してはいけないのが、選択的夫婦別姓制度には男女差別や偏見の是正という側面があることだ。

「平成28年度 人口動態統計特殊報告 『婚姻に関する統計』の概況」 によると平成27年に夫の姓を選んだ夫婦が96%と圧倒的に夫の氏が選ばれている実情がある。

つまり出生時の姓を維持できていないのは圧倒的に女性なわけだ。選択的夫婦別姓制度の推進はフェミニズム運動ともリンクしていくのは当然だろう。

そこで、いつも同姓支持側に疑問に思うのは、私にはもはやこじつけにしか思えない様々な理由を上げて、同姓制度を維持しようとするくせに、ここで男性側に、結婚時に夫婦の姓を女性の姓にすることを歌える人はただの一人も見たことがないことだ。

仮に現在の制度で、夫婦の姓が夫妻ほ半々の比率であれば、おそらくフェミニストサイドからの選択的夫婦別姓制度の推進力はかなり低下するだろう。うまく言えば、この議論自体が弱体化し、雲散霧消するかもしれない。

なのに絶対に同姓支持側からそういう意見は出ない。なぜなのだろう?

勘ぐって言えば、彼らの偏見はあまりにも深いために夫婦は同姓そして夫の姓という先入観に疑問を抱くことすら無いのだろう。

もしくは逆にそこには実は自覚的で、そうなると今度は男性側から当事者として別姓を求める声が高まり、むしろ現在より状況が悪くなる可能性があるという冷静な分析をして、この選択肢には見て見ぬ振りをしているかだろう。

何れにせよ、臥樹丸氏の知人の意見は率直に申し上げれば制度に対する批判としてはあまりにも枝葉で幹を外しているし、肝心の上記最後に上げたような幹としての批判が全く欠如していると思う。

それは取りも直さず制度の大枠としては反論ができないからだろう。


なぜなら、選択的夫婦別姓制度の根幹は極めてシンプルだからだ。

前提として、同姓を求める人も別姓を希望する人もいる。選択的な別姓の導入は同姓を選ぶ人になんの不利益ももたらさない中、それぞれの不満と満足を考えると、下の表のように、同姓別姓を希望する組み合わせでいえば、選択的夫婦別姓を導入すれば明らかに満足する人が増える、という一転を持って、民主国家における選択としては議論が終わってしまう。

             同姓の強制  選択的別姓
カップルが揃って同姓     満足    満足
カップルが揃って別姓     不満    満足
一方が同姓、他方が別姓    不満    不満

そして、彼らはこの根幹には反論できない。

だから、枝葉の批判を持ち出して選択的夫婦別姓制度を否定しようとするのだ。


そして最初に引用した主張も、結局はそのラインから何ら外れるものではないのだ。

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