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今更ながら、いち男性の宇崎ちゃん騒動をめぐる見解

この文章は「フェミニストはお気持ちだけで論理的主張がない」という事象オタクの振りかざす誤った言説を正すために描いた。かなり急いで描いたので、誤字脱字、構成上の問題はまだまだ残っていると思う。時間のあるときに修正する予定だ。

宇崎ちゃんの献血コラボを巡っては未だに「お気持ち」「好き嫌い」というレベルでしか理解していない自称オタクが多い。
ネット論客を自称する青識亜論氏ですら、本気か、フォロワーサービスかわからないが、そう言っている有様だ。

意見が異なるのはしょうがないし、時には異なった意見がぶつかることで生まれるものもあるからそれは全然構わないと思う。オイラが許しがたいと思うのは対立する相手の意見を、論理性も何もなく「お気持ち」と言って切り捨てるその論理性の欠如というまあほぼ「セビリヤの理髪師」的なトートロジーだ。

この「お気持ち」についてはこれで1本文章がかけるくらいだと思うが、今回はそれが主眼ではないのでそれは別な機会に譲るとして、この「フェミニストの意見はお気持ち」という悪い決めつけへのカウンターとしてこの文章を描いている。正直に言えば通じる自称オタクは1000人に一人もいないだろうけれど。

閑話休題・・・。

僕個人の見解はフェミニストのメインストリームのそれと大筋を共有していると思うが、同時に彼らの見解とは異なる独自の考えも結構ある。できる範囲でそこは区別していきたい。
逆に言えば、少数派の極論は双方に色々あるがそれをほじくり始めるときりがないので、最大公約数的なメインストリームの見解と私個人の見解の説明に主眼を置きたい。

そもそも、ああいうやつもいた、こういうやつもいたと言い出すときりがない。自称オタク側にだって女性に「お前達は我々にとって『等身大の絵にくっついた素材不明の出っ張り以下』だ。」と言い切った輩もいたが、流石に自称オタクを問題視しているオイラでも、これが自称オタクのメインストリームの考えだとは思わない。

何れにせよ、総花的に言えば自称オタクは2つの点で大きな勘違いをしていると思う。

まず1つ目は今回のフェミニストの批判が「宇崎ちゃん」の作品自体になされたものだと思っていることだ。もちろん、作品自体にも疑問を持っている人は多いと思う。オイラ自信もそうだ。「宇崎ちゃん」はオタクにおもねった男性ご都合主義の作品だし、色々問題点はあるだろうが、フェミニストたちのメインストリーム(面倒なので以下FMSと略)が問題にしているのは赤十字の献血キャンペーンとのコラボであって、作品自体を発禁にしろとか書店から撤去しろと言うことではない。
端的に言えば「宇崎ちゃんは公益性の高い献血のコラボ作品としては適切ではない」という1点に尽きると思う。
そして2点目が「規制派」という言葉に象徴されるようにフェミニストが何かを「規制しよう」としているという認識だ。

上でも述べたように今回の批判はコラボへの批判であり、個別の感情は抜きにしてFMSにおいては作品自体をどうこうしろという要求がなされているとはオイラは認識していない。書店の作品まで撤去しろ!というようないわゆる「規制派」はいないとは言わないが、決して多数派ではない。

FMSの言っていることは、やや極端な例えをすれば、小島よしおのオッパッピーや、アキラ100%のネタはお笑いとしては面白いが、オリンピックの開会式で見せる日本を代表する芸能としてはどうなんだろう、というそういうTPOの問題ということだ。

それは小島よしおやあきら100%当人への評価とは別個のものだ。

両者の大ファンでも、彼らがオリンピックの開会式に出るとか、天皇皇后陛下の前であのネタを披露するとかが極めて適切だと思う人は少ないのではないだろうか?

フェミニストと自称オタクの見解が分かれるのはこの先だ。

自称オタクは「いや、小島よしおやアキラ100%の裸芸(とする)と違って、宇崎ちゃんは服も着ているし、水着でもない。何が不適切なのか?」ということだろう。

たしかに宇崎ちゃんは着衣だ。水着ですらない。じゃあ、宇崎ちゃんがエロじゃないのか、といえばオイラはそうではないと思う。
彼女が設定されているJカップという旨のサイズは巨乳としても尋常じゃないレベルの巨乳だ。
トリンプの調査を見ると、巨乳の女性が増えてきた現代でも、Gカップまでの販売で100%になってしまう、比率で言えば誤差レベルというかなり極端な巨乳だ。
https://www.nbf.or.jp/pinkrabbit/img/blog/20190814/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%9A%E4%B8%8B%E7%9D%80%E7%99%BD%E6%9B%B8190814-1.pdf

もちろん、現実世界にもJカップ、なんならKカップのグラビアアイドルを聞いたことはある。もっと巨乳な人もいるかも知れない。

ただ、このクラスの巨乳になると、ある意味その1点だけでほかは平均的でもグラビアアイドルになれる、というクラスの巨乳と言っていいのではないかと思う。

それを創作物のキャラクターとして設定する意図はどこにあるのか?そこがオイラやFMSの投げかけている、そして自称オタクが決して答えない疑問だ。

曰く「それは作者に聞かないとわからない」曰く「著者の趣味では?」

仮にも「表現物」のオタクを標榜するなら、著者の意図は意図として受け手としての解釈を語れと思うが、それができないのが「表現の自由戦士」である自称オタクの皆様。

そして後者は・・・まあ、著者の趣味ならいいっちゃいい。自己の創作物に趣味が入るのはそれ自体は別になんの問題もない。意地悪く言えば「著者の趣味」ってお気持ちじゃんとは思うが(笑)

ところが、この爆乳と言っても過言ではないであろう宇崎ちゃんの胸のサイズの設定について「エロだ」「性的なものだ」ということをはっきりといった自称オタクはオイラがやり取りしたおそらく100人近い中では1人だけしかいない。残りは殆どが上記の2つとその類例に回収されていく。

「エロじゃないの?」とこちらから振ると、「どこがエロなんだ!」と逆ぎれされる。どうもやっぱり「エロ」ということになるとまずいという認識はあるようだ。

では、問題は、その著者の趣味とはなんぞや?ということだ。その点で言えば作者はこのキャラクターを明らかにエロティックな視線で眼差している。
https://twitter.com/syokumutaiman/status/929892745149161473

それは

この流れへ著者の反応を見ても明らかだろう。

まあエロはいい。オイラもエロは好きだ。そのエロのあり方の是非には様々な議論があろうとは思うが。

ただ、ここで問題なのは議論の焦点は宇崎ちゃんの献血コラボとの親和性だ。献血という、老若男女ができるするような場にポスターとして掲出する際のコラボ先の是非だ。それがエロというのはどうなんだ、ということだ。

ちなみに「胸≒エロなのか」的なことを言う人もいたが

こちらの論文でも中世後期以降、乳房に性的なニュアンスが付加されていったことが論じられている。

男性が上半身裸でもさほど問題視されない一方、女性はそうではないことなどを見ても、社会が「女性の乳房」を何らかの、おそらくは性的なシンボルとみなしていることは明白だ。


さらに、キャンペーンで使われたコミック表紙の絵柄は実際の衣服ではありえないような胸の形を強調するような自称オタクが「乳袋」と呼ぶデザインであった。

これに関してはこれはイラストのマジックだとするフェミニスト側と、そういう服も実際にある、というオタク側での論争に、胸の大きな女性向きの服を作っている企業が巻き込まれ

https://twitter.com/for_overe/status/1186489353045860352

こんな苦しい配慮にみちた見解を表明する羽目になっている。

何れにせよ、宇崎ちゃん的乳袋服が存在してもそれはあくまでもかなり特殊なものだという事実に変わりはない。
これはかなり無理があるのではないか?

で、再度論点に戻るが、今回の論争はそういう描き方、位置づけがされたキャラクターを献血のキャンペーンに使う、ということへの批判だ。

このキャンペーンを正当化する目的で書かれたすもも氏のnote
https://note.com/sumomodane/n/n6ae12e45a8d3
に於いて、このポスターについて「献血のポスターとして不適切』という意見がかなり多いこともそれを如実に示している。男性でも、40代以上では6割以上が、女性では20第でも7割近く、50代では8割近くが「献血のポスターとして不適切」と回答している。

正直、このデータはどう考えても正当化になっていないので出しちゃっていいのかと思おうのだが、まあ、そこは彼の正直さ、誠実さの現れだと評価していいのかもしれない。

個人的には彼の統計を恋愛に取り入れる手法は全く評価していないし、それで大規模に成果が上がることもないだろうとは思うけれど。

何れにせよ、FMSの主張は決して「お気持ち」ではない。

これまでに挙げてきたような事象に加えて、以下でも触れたように女性がコンスタントに性的な被害を受けてきたこと

https://note.com/hiro_cc/n/nfc9520add0d7

も踏まえた危機意識の表れでもあることへの理解が極めて浅い事象オタク側有り様はこの彼らが大好きな剽窃の如き巨大ブーメランとかしている。
https://pbs.twimg.com/media/EHQR-1IUwAAbKvk?format=jpg&name=small

と、ここまでがメインストリームのフェミニストの最大公約数的な見解といっていいと思う。

つまり「献血に不適切だから、キャンペーンを中止しろ」という抗議だ。

これを「お気持ち」と切り捨てる自称オタクは、ではそもそも「お気持ち」とはなにか?そしてなぜ「お気持ち」が問題なのかを、この上なく論理的に論じてほしいものだ。

オイラ個人としては「全てはお気持ちから始まる」と思っているし、「世の中にお気持ちの介在しないものなんて早々ない」と思っている。

もしあるというのなら、ぜひチャレンジしてきてほしい。一部の例外を除いて、特に社会の有り様や制度に関するものでお気持ちフリーで、徹頭徹尾客観的事実に基づいた論理的なものなんてほぼ皆無であるから。

で、そうなると自称オタクが持ち出してくるのが「表現の自由( ー`дー´)キリッ」だけれど、これもおかしい。この批判・抗議自体一つの「表現」にほかならないわけで、宇崎ちゃんのコラボキャンペーンは表現の自由だけれど、批判はそうじゃないという主張はそれ自体矛盾している。

別にこれは「表現規制」でも「表現の自由の危機」でもなんでもなく、私人間での利害の相克にすぎない。


そうすると「行き過ぎたくクレーム」とか「業務に支障をきたすような」とか言い出すのが出てくるのだが、では「クレーム」とは何かを客観的に定義し、いかなる客観的基準を持ってそれを「クレーム」とするかをこれまたこの上なく理論的に論じていただきたい。もちろんお気持ちフリーで。

オイラ的にはそれは刑法が適用されるかどうか、という基準しか思い浮かばない。

そして事実として今回の批判、抗議で「業務に支障をきたした」ということは私の知る限り表には出ていない。それがあるのなら、これまたぜひ示してほしい。

ちなみにヒトシンカ氏(@hitoshinka)が電凸したりしているが、「話を聞いた」はずが、後半プロパガンダになっているのはお笑いだ。しかも当人は通じたと思っているようだが、むしろ「ファンだけど変な人だなぁまあ。でもせっかく電話してくれたんだし黙って聞いてあげよう」がいいところだろう。彼の電話のほうがよっぽど迷惑じゃないのか(笑)

https://twitter.com/hitoshinka/status/1229248606416171010


ちなみにいまや「表現の自由戦士」という言葉にまでなった「表現の自由( ー`дー´)キリッ」だが、「表現の自由」が絶対的なものという前提がおかしい。

「表現の自由」という概念の成り立ちを考えると、本来、公権力による介入や規制がその「自由」を主張する対象であり、私人同士の利害、意見の相克に過ぎないものに「表現の自由」を持ち込むことが間違っている。

そして、極めて広範な概念である「表現」を完全に自由にすると、中朝誹謗や流言の流布までが「表現の自由( ー`дー´)キリッ」で保護されてしまう絶対の権利とかしてしまう。

だから、実際は「表現の自由」は極めて高い優先度で尊重されるものではあるが、絶対のものではないのだ。対公権力であっても。

おそらく自称オタクはその矛盾に無意識に気がついている。だからフェミニスト側の批判を「行き過ぎたクレーム」などとすり替えて「表現の自由( ー`дー´)キリッ」の範疇の外に置こうとするのだ。


総体としていえば、自称オタクに欠けているのはこういう「自分たちの世界以外にも様々なクラスタがある」という現実への実感だろう。

オイラはあくまでもオイラの考えやFMSの考えを述べただけだ。

それが絶対唯一の価値観だとは思っていない。しかし自称オタクはどうも違う。彼らにとって「表現の自由( ー`дー´)キリッ」は絶対の価値観日買い物として提示され、自らと違う考えは「お気持ち」という形で貶めて否定、無視する。

未だにそうだし、それがフェミニストと自称オタクがどこまで言っても噛み合わない理由だろう。


で、ここからは個人的に作品の内容について批判したいことがあるのでそこに多少踏み込んでみたい。

今回、批判について「宇崎ちゃんだけが槍玉に上がるのはおかしい」という意見も見たが、これには賛成だ。私もそう思う。

ただし私の見解は「宇崎ちゃんは問題ない」ではなく「宇崎ちゃんだけが問題というわけではない」ということだ。

90年代に私が一旦アニメの世界から離れた背後には当時勃興していた「萌え絵」や「むやみな巨乳」に辟易したことがあった。
萌え絵も巨乳も全体の中での1ジャンルとしてならわかる。フィクションであるアニメやマンガにデフォルメ表現がつきものだということも。

しかしこういうキャラクター描写は1ジャンルを超えてアニメ、マンガのメインストリームとも言えるくらいの勢力に拡大してきた。

その当時以降にアニメ、漫画の世界に入ってきた人にはこれが「当たり前」になってしまっているのかもしれないが、昔は違ったのだ。

この「当たり前」に潜む問題がおそらく自称オタクには一番理解できないところなのだろう。こうい言うと決めつけと言い出す輩もいるだろうが、事象オタクの多くはおそらく自称オタククラスタ外の人との関係が希薄な人も多いだろうから、自分たちと違い世界のことを理解するのが苦手なのだろう。

そして前述のように、極端に例外的な巨乳に設定されているアニメ、マンガのキャラクターはかなり多いと思われる中、それが当たり前だと思いこんでいる。そういうある種の「自称オタクの世界」に生きているんじゃないだろうか。

ちなみに先日、やり取りした自称オタクは件の宇崎ちゃんの表紙絵について「フリルやリボンの付いたメイド服じゃなくて、このデザインにしたのはすごい配慮している!」(意訳)と言っていて・・・「ああ、そういう見方もあるんだ。この人は小洒落たカフェとかしらないんだろうな。ってか、メイド服のカフェ店員なんか、オイラ見たことないぞ」とちょっとどう受け止めていいのかよくわからなかったんだけれど、「彼にとってはカフェ=メイドカフェなのか?あえていえばアンミラかなぁ」としか思えなかった。

いずれにしても、彼らが如何に実社会と乖離したクラスタで生きているのかがよく分かる。ちなみに念の為に「カフェスタッフ」でGoogle画像検索してみたが、メイド服は出てこなかった。(笑)
https://www.google.com/search?q=%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%95&sxsrf=ALeKk01TX8Hov5klVFJ2d1q-KmlbE0QSmA:1596760811134&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwi95sDH7YfrAhUB_GEKHQqoAoAQ_AUoAXoECBEQAw


話の焦点を巨乳に絞ると、フェミニストたちが宇崎ちゃんのような作品を問題視するのは、こういう巨乳が当たり前のように描かれている作品が市場に蔓延している状況は社会(もしくは読者の自称オタク)に「巨乳を良しとする、当たり前とする価値観を発信」しているという懸念からだ。

表現物に影響を受けたりしないと主張する人も多いが、本当にそうだろうか?
こんな事例があるし
https://togetter.com/li/1421979

久しぶりに規制したら高齢の親がYoutubeの影響でネトウヨ化していてorzみたいな話は聞いたことがないだろうか?

まあ、ボケているほどではなくても老化で判断力が低下し、より影響を受けやすくなる側面はあるだろうが、Youtubeの極論に影響を受け信じ込んでしまう人がいることを考えた上で、表現物に影響なんか受けないと断定できるのだろうか?

そもそも「表現の自由」が尊重されるのは「表現」に人に影響を及ぼす力があるからだ。
もし「表現」に何の影響もないのなら、そんなどうでもいいものは尊重しなくてもいいだろう。

「表現の自由」が尊重される事実は取りも直さず「表現の影響力」を如実に示しているのだ。

現実社会で女性たちは職場の上司のセクハラ発言に苦しんだり、お尻を触られたり、女性は家庭的であるべきという偏見にさらされたりストーカーや痴漢、に遭ったり、時にはレイプをされたりしている。
その原因がすべてマンガやアニメだとは思わないし、フェミニストもそう思ってはいない。
でも、自称オタクと違うのは、女性を性の対象として恥じることなく貪欲に消費し続ける表現物の影響が女性の被害を拡大しているのではないかという危機感をもっていることだ。だからこそ、自称オタクにとっては些末な日常に思える安易なラッキスケベや無意味なエロ、巨乳に疑問が挟まれるのだ。

ただ、先にも申し上げたようにこれが宇崎ちゃんだけの問題だとは思わない。アニメでもマンガでも、何ならドラマでも、には様々な偏見が潜んでいる。

そのすべてを排除し始めると、たしかに無味乾燥になる。

ではどうするのか?当たり前すぎることだけれど、それを考えないといけないということだ。考え続けないといけないということだ。
それがわかっているからこそ、実はフェミニストも「規制」を声高に叫ぶ人はあまり多くない。
多くの場合、彼らが規制を語るのは、自称オタクがそういう論点をあまりにも理解しないので苛立ちでそう言っているか、もともと極端な人だけだ。

私個人は一つの答えに近いものは、その作品の中で価値観上の回収をすることだと思っている。

例えば、ドラえもんではのび太が度々入浴中のしずかちゃんのところに入り込んでしまい、しずかちゃんの怒りを買う。つまり、ここでは風呂場に入り込んだり、覗いたりすることは悪であるという価値が提示されている。

そもそもそれがどうなのか?という疑問はあえて於くとして、少なくともドラえもんの作者である藤子不二雄は覗いて終わりにしない感性を昭和40年代にすでにもっていた。

悪漢が主人公になることもある犯罪小説やピカレスクロマンでも、その話の中で、悪は悪として描かれるからこそ、悪漢小説の悪漢は輝くのだ。

ポリコレが作品をつまらなくすると主張する自称オタクは多いが、

愚劣な悪党ばかりの北斗の拳の世界でも、ケンシロウがその悪を駆逐していくことで、それが悪であると示されるのだ。

これがベストなのか正しいのかはわからない。あくまでも一つの考えだ。

むしろ、おそらく正解はないし、価値観も時代で変わってくる。だから考え、論じ続けないといけない。

そしてだからこそ法律で規制することには向かないしすべきでもないし、FMSもそれを主張しない。

宇崎ちゃん騒動でも、第二弾は第一弾のように巨乳を強調したものでもなければ、宇崎ちゃんの作品製の枠内で、献血という事業への周知も含めて成立した作品になっていたと思うし、フェミニストからの批判も殆どなかった。

宇崎ちゃんという作品には一定の問題があるとしても、キャンペーンの枠内での対応で解消できる問題だったことを如実に表している。

第一弾の際には作者の体調などの関係で、描き下ろしができなかったという事象もあったとは聞いている。そのため表紙の絵をそのまま持ってきたことも騒動の大きな原因だろう。自称オタクが作品の内容には問題はない!と主張しても、新宿駅に掲出されたポスターを見る人が全員、内容を知っているわけではないのだから。

逆に言えば、第二弾のポスターの枠内で献血という事業に適切な物を提示すれば、むしろ作品自体に多少のエロ要素があろうと、興味のない人はそのポスターの枠内の今年変わらないので問題視される可能性も低いだろうから。

だが、今回事態が紛糾した理由はそういったことだけでなく、自称オタク側がフェミニスト側の主張を「お気持ち」と決めつけたり、一切聞く耳を持たなかった姿勢にも大きな原因があると思う。

自称オタクたちは「表現の自由( ー`дー´)キリッ」という自らの主張がユニバーサルに受け入れられると思っているようだが、これは大きな間違いだ。

確かに先鋭的なフェミニストに反感を覚える人はいるだろう。かつての田嶋陽子や上野千鶴子のように理論的に舌鋒鋭く声高にフェミニズムの理論を主張する、そういう当時の先進的なフェミニストに対してはそうだったと思う。

だが、今回、フェミニストたちの中に自らの違和感をうまく言語化できず自称オタクが「お気持ち」と言い出す遠因になった人がいたということはオイラも同意する。だがそれはむしろフェミニストやその考えに賛同する人が増えてきて、フェミニストの裾野が広がることで、むしろ「フェミニストのアマチュア」が増えたことが背景にあると私は思っている。

つまり、フェミニズムは静か、でも確実に広がっているのだ。

それはそうだ。男性であるオイラには想像しかできないが、それでも女性として生きることには「女性である」というだけで様々な困難が立ちはだかるだろうから。

自称オタクはおそらくは新規参入組に対して「ツイフェミ」という蔑称を発明して攻撃している。フェミニストに対する反感が世間にまだあるのは事実かもしれない一方、先のすもも氏の調査にもあったように自称オタクの評価するものが世間から白い目で見られていることも事実だ。
それも含めて、コミュ障が多い自称オタクに注がれる目はフェミニストに注がれるそれよりも極端に優しいということはないだろう。

むしろオタクにも厳しい目が注がれている。

ここ数日、女性の笛や飲みかけのドリンクを女性に見つからないで舐めるという意味不明のゲームが論争の火種になっているが、あんな物を肯定する子ことが世間にどう映るのか考えたほうがいいだろう。

自称オタク同士で固まっていれば、フェミニストへの批判に事欠かないだろう。世間がアンチフェミでまとまっているかのように感じることもあるだろう。だがそれは価値観の近い仲間内での確認行為に過ぎない。
実社会までを視野に入れると、むしろ世間の流れはフェミニスト側の価値観が浸透していっているのが現実だと私は思う。

そうした社会状況の認識を踏まえると、長い目で見ると出版社などメディアの自主的な規制によって商業作品では過剰な「女性の性の対象化」などに歯止めがかかる可能性は高いと思う。

制度や習慣として望ましくないものを押し付けられる前に自称オタクはフェミニストとの対話に乗り出して、多少なりとも都合のいい落とし所を見つけることは長い目で見ると自称オタクにとっても益が多いのではないか、と価値観は共有しないが、いち古手のオタクとしては自称オタクの皆さんに申し上げておきたい。

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