[読書メモ] 古き友人:日本海軍創設におけるオランダの役割、1850-1870年 "Oude vrienden: De Nederlandse rol bij de opbouw van de Japanse marine, 1850-1870"
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1. はじめに
【ジャンル】近代日蘭交流史(論文)
航海法やVOCの研究をしたくてオランダ語の勉強を始めましたが、最初は馴染みのある分野且つ比較的簡単な文章で勉強するのが良いだろう、ということで、最近のオランダ人の歴史学者は英語で執筆することも多いものの、2018年執筆と比較的新しい蘭語の論文です。本論文が寄稿された号では日蘭の友好・敵対関係の歴史をテーマにしており、当該分野を専門としていない方々を対象とした緩めの論文でしたので、浅学の身ながら何とか読み進めることができました。
日本海軍というと、教師団を招聘したり¹⁾、日本からも東郷平八郎など著名な海軍士官が留学していた²⁾、当時世界最大の海軍国であるイギリスの影響が大きいと認識している方もいらっしゃるかと思いますが³⁾、本論文は明治政府海軍の基礎を形成していたとも言える⁴⁾、江戸幕府の近代海軍の創設においてオランダが果たした役割を論じています⁵⁾。
焦点は海軍に当てていますが、海軍技術を西洋から学ぶことは数理・工学的素養を備えることを意味し、又、その過程において西洋言語のみならず西洋の法制度や外交制度を学ぶ機会も多かったため、例えば榎本武揚など、海軍術を学んだ者が後の文明開花に大きな役割を果たした場合も多くありました⁶⁾。明治維新後に日本が他国とも関わりを持つ様になったことで段々と疎遠になるも、幕末期には未だ強く影響力を残していたオランダと日本の外交関係史の一節としても興味深かったので記事にしてみました。
1) 新津『長崎海軍伝習』230.
2) 福川秀樹編『日本海軍将官辞典』(東京: 芙蓉書房, 2000), 256.
3) Kennedy, British Naval Mastery, Chapter 6.
4) 明治政府の海軍の初期段階は「薩摩の海軍」と称されるほど、上層部や司令官レベルは薩摩出身者によって占められていましたが、佐官・尉官など実務レベルにおいては旧幕臣が三分の一以上を占めており、施設や装備なども幕府から引き継がれたものが多くありました(金澤『幕府海軍の興亡』237-8.)。
5) 日本海軍の建設過程に関する研究は概ね明治期以降、つまり大日本帝国海軍時代のものが多くを占めますが、幕末期における日本の海軍創設に関する日本語の研究としては、金澤裕之氏の『幕府海軍の興亡』を紹介しておきます。氏は慶應義塾大学で修士課程を修めた後に海上自衛官に転向、更にその後に防衛大学校で安全保障学の博士号を取得し、防衛省防衛研究所所員などを歴任、現在は防衛大学校の教授を務めている方で、同書は氏が博士論文として提出したものを加筆・修正したものです。
6) 新津『長崎海軍伝習』251-6.
2. 開国と海軍戦力保持までの流れ
江戸時代を通してオランダは、その活動は出島内に限定されていたものの、西洋国の中で唯一日本との交易を認められた特権国であったことは周知の事でしょう。しかし、江戸時代初期には欧州でも随一の繁栄を享受していたオランダも度重なるイギリスとの覇権競争に加えて大陸での戦争にも巻き込まれていったことから、かつての地位は相対的に落ちぶれ、フランス革命・ナポレオン戦争期に本国がフランスの支配下に落ちたことでその凋落は決定的なものとなります。
南下政策を始めたロシアや独立後に西方に進出を始めたアメリカなどの船舶が日本近海に頻繁に出没する様になった18世紀後半頃から日本でも海軍戦力に関する議論が盛んに行われ始め、有名なものだと林子平の「海国兵談」などがありますが、これらの議論は決して在野の先鋭的な知識人層によるものだけではなく、幕府官僚の間でもしきりに行われていたものでした⁷⁾。しかし、これらは海からの侵略を防衛するための、砲台の設置などを伴う「グリーン・ウォーター」の海軍戦力に限定された「中国型の大陸観」によるものであり、未だマハンの定義した、海外との交易・海運上の必要性からのみ健全に発生するシーパワー⁸⁾、つまり近代的な「ブルー・ウォーター」の海軍戦力を想定したものではなかったと言えます。
この時期の日蘭関係について少し触れておくと、1828年のシーボルト事件によって日蘭関係が悪化し、貿易量も減少していたものの、米国など他の西洋国との書簡のやり取りを仲介していたことから、出島商館は商業上の役割より外交上の役割を果たすことが多くなっていました。日本の開国はどの道避けられないだろうと判断されたことから、オランダは少しでも自国の影響力を保っておくため、1844年には日本に幾つかの港の開放を勧告する友好的な書簡を送り、1852年には日本が海外から攻撃された場合に味方となることの提案やアメリカ船来航の警告などを行っていますが、前者の忠告は直接的には効果がほとんどなく、後者に関してもペリー来航(1853)と将軍徳川家慶の死亡などが重なったことによる混乱の中で幕府はほとんど対応できませんでした。
当時の技術では、威力・射程・設置台数などの都合上から海岸砲台の軍艦に対する影響力は限定的であったため、江戸後期・幕末期の海防論は次第に洋式軍艦の導入を想定したものとなっていましたが⁹⁾、結果的に洋式軍艦の購入が具体的に検討され始めるのは、1853年夏に黒船来航によって日本の海防戦力が洋式の装甲軍艦に対して全くの無力であることが証明されてからのことでした。同年秋には長崎奉行が出島商館長であるドンケル・クルティウス(Donker Curtius)に軍艦の値段やオランダ政府の日本の洋式海軍創設への協力の意向を質問するなどの動きが見られ、幕府中枢においても幕臣勝海舟の提言などによって海軍創設の動きが本格化、幕府はオランダに軍艦の調達を依頼することとなります。
軍艦の調達はそれまでの日蘭交易の範囲を大きく超えており、又、幕府の要求する隻数をオランダが早急に用意することは困難であったため、クルティウスは時間稼ぎとして、幕府が船員の教育もオランダに依頼するならば、まずオランダ語の教育をする必要があることや、出島内では教育のための人員や設備を収容しきれないため他の場所にオランダ人が立ち入ることを許可する必要があることなどを提示し、本国の指示を仰ぎます。オランダ本国としては、先述の様に日本での立場を向上する必要があったことや、他の西洋国が日本と友好関係を樹立しつつあったことなどを受け、1854年の春には出島に東インド艦隊より軍艦を一隻派遣することを決定します。
同年夏に外輪式蒸気船スンビン号(Zr.Ms. Soembing、後の観光丸)が、電信機や列車と蒸気機関の模型などの贈呈品と共に、ヘルハルドゥス・ファビウス中佐(KLTZ Gerhardus Fabius)を艦長として出島に到着、その5日後にはファビウスは長崎奉行によって選抜された生徒達に、未だ通訳を介しながらでしたが、蒸気機関や造船技術、砲術、航海術などの講義を始めます。尚、この時点ではスンビン号は幕府に譲渡・売却されたわけではなく、来訪の目的は教育を施すと同時に今後のオランダの協力方針について交渉するためであり、ファビウスは帆船ではなく蒸気船への注力、造船所や乾ドックの建設¹⁰⁾、ジャワ島で新たに建造されるスクリュー船の購入、オランダ人顧問の雇用などの幕府に対する提言をクルティウスに伝えます。
一ヶ月と少しの滞在期間に、スンビン号やファビウスの下には開国派の大名などが多く訪れ、ファビウスは彼らの思慮深い数々の質問に感銘を受けたといいます。合計で約200名の日本人に講義を行った後、ファビウスとスンビン号は一度日本を離れることになりますが、この時にファビウスは将軍徳川家定より感謝の印として刀の一式を拝領しています。
7) 金澤『幕府海軍の興亡』19.
8) Mahan, Influence of Sea Power, 28.
9) 金澤『幕府海軍の興亡』19-20.
10) 船の速度などにも影響する船底へのフジツボの付着は、木製の船ならば傾けて除去することも可能ですが、鉄製の船では乾ドックが必要となります。
3. 海軍創設
これ以降の日蘭関係は新たなフェーズに入ったと言えるでしょう。オランダは幕府が2隻の大型軍艦を発注することと引き換えにスンビン号の譲渡を決定します¹¹⁾。1855年に再びファビウスと共にスンビン号が長崎に到着、日本が保有する初の蒸気船として正式に幕府に譲渡され、船員教育と引き換えにオランダ人は長年の悲願であった出島以外への立ち入りを許可されます。又、後にはオランダ本国で建造されたスクリュー式コルベットの朝陽丸と咸臨丸、レーダー船の電流丸が幕府に売却され、日本の海軍戦力は着実に増強されていきます。
船員教育に関しては、通訳を介して行うにもまず通訳に海事の専門用語を教えねばならず、また、工学的な教育を施すには基礎的な算数知識から教育する必要があったこと、船員の多くは下層階級であったものの下層階級が武器を扱うことは日本では長らく禁止されていたこと、反対に指揮官である上流階級の者は船員達と共に乗船して日常的な船舶業務を学ぼうとしなかったことなど、文化的な壁が大きく存在していたと言います。
この点に関して少し補足をしておくと、基礎的な算数知識を有せず、乗船も拒んでいた指揮官というのは、恐らく数学を苦手とし船酔いも酷かったとされる勝海舟が含まれると思われますが、実際彼の様に蘭学に最初から長けていたものは、その関心を航海術ではなく特定の分野に各々限定させていたため(勝の場合は砲術)、指揮官には軍艦運用に関わる分野を幅広く学ばせるという西洋式の海軍教育方針にそぐわず、その幕府の海軍士官らの学習姿勢を第二次教官団を率いたウィレム・カッテンディーケ中佐(KLTZ Willem Kattendijke)は随所で嘆いています¹²⁾。
その一方で、カッテンディーケの感心する点も幾つかあり、幕府海軍の航海能力は内海・沿岸航行に限れば十分な能力に達していたことや、機関科への差別がないこと¹³⁾、砲術の練度の高さなどに関しては高い評価を残しています。又、長崎での基礎教育の段階では術科ごとの能力のばらつきが顕著ではあるものの、日本人は自身の航海能力に強い自信を持っていたことなども記録に残しています¹⁴⁾。
訓練が施されるのと並行して日本には蒸気機関やボイラー、金属加工器具など様々な工学器具が持ち込まれ、工兵指揮官のヘンドリック・ハルデス(Hendrik Hardes)の指揮の下で長崎製鉄所が完成、同工場は以前にファビウスが提言した様な造船所としての機能も持っていたことで国内外の多くの蒸気船のメンテナンスを担うことになり、後には三菱造船所として発展を遂げます。
しかし、長崎はあまりに江戸から遠く、国内では攘夷派などの政情不安が高まる中、最新の軍事知識は幕府の目の届く場所で管理することが懸命だろうと判断されたことから、1857年に江戸の築地に操練所が設立、1859年までには全ての生徒が江戸に移動し、オランダによる正式な海軍教育プログラムは終了することになります。4年間に渡る幕府海軍の基礎教育は、勝海舟含め以降の幕府海軍の活動において中心的な役割を果たす人材を多く輩出し、日本の海軍建設史として非常に重要な意義を持つことになります¹⁵⁾。
また、教育プログラムが終了したとは言え、オランダの軍艦はその後も日本を訪れ続け、日本側は、長崎伝習で会得した基礎的な海軍術をより高度なものとするために留学生の派遣を考えていましたが、アメリカが南北戦争に突入したことなどを受け、留学先をオランダに決定し、1862年には榎本武揚や赤松則良ら後の日本海軍史に重要な役割を果たす人物が多く渡蘭し¹⁶⁾、また、この中には海軍関係だけでなく医学や法学などをオランダで修めることになる者も含まれていました。
以上の様に、日本の海軍創設初期段階におけるオランダの役割は大きく、著者は最後にオランダ語がそのまま日本の海事用語として使用されている例を幾つか挙げて本論文を締めていますので、そちらも引用しておきましょう。
11) この時のオランダ政府は、長年の日本との関係により、アジアには贈り物をすれば必ず返礼をする文化があるということを見越した上で譲渡を決定したともいいます(小暮『対日外交政策』114.)。
12) 金澤『幕府海軍の興亡』83-4.
13) 当時の西洋では機関士官は正規士官として扱われなかったのに対し、幕府海軍では同じ身分の生徒が航海・運用・砲術・機関に分かれていたため、機関士官が航海当直に立つなど、西洋諸国ではまず見られないことが日本では普通に行われていました(金澤『幕府海軍の興亡』84.)。
14) 金澤『幕府海軍の興亡』82-5.
15) 金澤『幕府海軍の興亡』73; 新津「長崎海軍伝習」229.
16) 新津「長崎海軍伝習」232-3.
4. おわりに
蘭領東インドを有することでかろうじて昔日の面子を保つオランダと、伏竜より東亜の大国へと転じようとする日本の関係史でしたが、字数の都合上、海軍関係などに話が偏ってしまい、貿易上の利権の絡み合いなど、政治経済史的な話をすることは本記事では叶いませんでした。興味のある方には小暮実徳氏の『幕末期のオランダ対日外交政策』を紹介しておきます。同書は氏がライデン大学に博士論文として提出したものを邦訳、加筆修正したもので、対日外交政策から当時のオランダの外交政策を分析する研究となっております。
話を日蘭関係に戻すと、そもそものオランダの衰退、明治政府側であった薩摩や長州はイギリスとの関わりが深かったことなどにより、次第にオランダの日本におけるプレゼンスは縮小していきますが、先述の様にオランダの教育を受けた海軍関係の者は後に明治政府側に合流することも多く、20世紀には東アジア最大の海軍国として西洋列強と覇権を争うことになる日本のシーパワーの基礎に少なからぬ貢献をしていたことでしょう。
オランダ語を勉強している身としての筆者の個人的な経験も踏まえますと、オランダ語は英語とドイツ語の中間的な位置にある言語であり、英語とドイツ語に多少心得があればそれなりに理解しやすい言語だと認識しています。反対に、オランダ語を心得る者は英語とドイツ語の習得も幾分か容易になるはずであり、明治維新後の日本は陸軍はドイツ、海軍はイギリスを参考にしたと言われていますが、ここに関しても幕末期にオランダ語を学びオランダ人から西洋の兵学などを学んだ者らの貢献があったのではないでしょうか。
参考文献リスト
[主要文献]
・Enthoven, Victor. “Oude vrienden: De Nederlandse rol bij de opbouw van de Japanse marine, 1850-1870.“ Leidschrift 33, nr. 2 (2018): 65-90. https://hdl.handle.net/1887/3180934.
※ 本記事における記述は全般的に同論文より引用・敷衍されたものですが、便宜上ページ番号等は示しておりません。悪しからずご了承下さい。
[その他]
・金澤裕之『幕府海軍の興亡:幕末期における日本の海軍建設』東京: 慶應義塾大学出版, 2017.
・小暮実徳『幕末期のオランダ対日外交政策:「国家的名声と実益」への挑戦』東京: 彩流社, 2015.
・竹本知行「第一章:幕末期における洋式兵学の位相」12-43.『幕末・維新の西洋兵学と近代軍制:大村益次郎とその継承者』東京: 思文閣出版, 2014.
・新津光彦「日本の「近代」という時代の基礎を築いた長崎海軍伝習の人々:人材育成を中心に」228-59.『日本海軍史の研究』海軍史研究会編, 東京: 吉川弘文館, 2014.
[その他欧語]
・Kennedy, Paul M. The Rise and Fall of British Naval Mastery. London: Penguin Books, 2017.
・Mahan, A. T. The Influence of Sea Power Upon History, 1660-1783. Boston: Little, Brown and Company, 1890.