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[安心社会から信頼社会へ] 他人を信頼できるアメリカ人と信頼できない日本人

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1. 総務省の2018年の調査結果

この本の出版は1998年、SNSの普及前の日本人の社会的形質について研究したものですが、現在においても同じ様な状況であることを確認するため、まずは2018年の総務省の調査結果を見てみましょう。

平成30年版 情報通信白書より抜粋

これだけを見ても「なるほど」という感じですが、日本とアメリカ(欧米諸国)との間では、現代においても他人に対する信頼において非常に大きな開きがある、ということを覚えておいてください。その意味についてはこれから説明していきます。

2. 集団主義の日本?

さて、日本は一般的に個人主義の欧米諸国に比べて集団主義的な性質が強いと言われています。「日本人は周りと合わせて集団で協力的な行動ができる。」この通説について疑問を呈する日本人は少ないでしょう。しかし、この通説は、先ほどの調査結果と矛盾する内容ではないでしょうか。

社会的ジレンマの例を使って考えてみます。社会的ジレンマとは、「お互いに協力すれば皆の利益が最大化するが、それぞれが自分の利益だけを追求すると、結果的に皆が不利益を被ってしまう状況」のことです。

例えば複数人で牧草地を持ち合い、羊を遊牧している時、個人としては放牧する羊の数を増やせば増やすほど、羊毛や羊肉の収穫など自分の利益を最大化できますが、全員が自分の利益を追求し、その限られた農地の中で羊の数を増やし過ぎてしまうと、牧草は全て食べ尽くされ、羊は栄養不足、結果的に低質な畜産物しか得ることができず、全員が損をしてしまうことになります。

社会的ジレンマ下において他人の協力に関して信頼ができない時、ほとんどの人が全体の利益への協力的な行動を取らないことは、数々の実験研究で明らかになっています。

集団主義を、個々の利益より全体の利益を優先すること、と定義するのなら、確かに「日本人の他人に対する信頼感が低いこと」と「日本人が集団主義的である」ことは矛盾しているように見えるでしょう。

しかし、総務省の結果はアンケート調査によるものであるため「口ではそう言っていても実際には他人を信頼して協力行動をしている」という反論も考えられます。

よって、通説である「日本人は周りと合わせて集団で協力的な行動ができること」を正しいとするなら、実際に社会的ジレンマがある状態でも、日本人の方が、自己の利益を犠牲にしてでも周りとの協力行動を取り、全体の利益を最大化するはずであり、逆に個人主義のアメリカ人は、個々の利益の最大化を追求するので、結果として全体の利益は低下するはずだ、という仮説がここで立てられます。

3. 全体の利益に対する協力度の違い

前述の仮説を確かめるため、山岸氏は日本人とアメリカ人の集団をそれぞれ社会的ジレンマ下において、どの程度の協力度合いが見られるか実験を行いました。尚、実験の参加者等は見知らぬ人同士であり、実験後も顔を合わせることはありません。結果は、日米での協力率はそれぞれ44%と56%、アメリカ人の方が日本人より30%程度も協力率が高いという、仮説に反したものになりました。

また、山岸氏は上記の実験に非協力者を罰するための制裁制度を加えた場合でも実験を行いました。当然のことながら、日米どちらにおいても平均寄付額が増えたのですが、日本人の場合の協力率は75%(約70%増)、アメリカ人の場合は76%(約40%増)、その罰金の効果には大きな違いが見られました。

上述の実験の様な、見知らぬ人&今後も顔を合わせることはない人との間での協力率は、他者一般に対する信頼度を反映していると考えられます。そして、その一般的信頼度に関してはアメリカ人に軍配が上がることが分かった一方で、非協力が自身に被害を及ぼす場合においては、協力率に日米で差が見られませんでした

この結果は、個々人の性格としては、日本人は他人に対する信頼度が低いことを意味する一方で、非協力に対して何らかのデメリットを与える仕組みが社会に組み込まれている場合においては、日本人は集団主義的であることも意味します。

4. 信頼の分類

信頼という言葉は非常にざっくりとした概念であり、上記の実験の様に非協力に対してデメリットがある場合とない場合とでの協力性を同じ信頼という言葉で一括りに表現していると、これからの議論が分かりにくくなるので、ここで信頼という概念の分類を行います。

信頼の分類

一般的に相手を信頼するという言葉は、相手の行動如何によっては自己利益が危険に晒されるが、それでも相手が自分に危害を加えることはないだろう、という相手の意図への期待として使われます。

自己利益とは金銭的利益のみならず、身体的、物質的、精神的なものなどに広い概念での自己利益を指し、この自己利益が危険に晒される可能性が高い状態、つまり相手が実際に自分の利益に危害を及ぼすかどうかについて判断するための情報が不足している状態社会的不確実性が高い状態と呼ぶことにします。そしてその社会的不確実性がある中で、それでも相手に自分の利益を脅かす意図はない、と判断できるパターンには相手の人間性に基づく期待(信頼)相手の利害に基づく期待(安心)の2種類があります。

例えば、友人があなたに無担保で借金をする時、相手がどんなに時間がかかったとしても必ず返済してくれる様な誠実な人だと判断すれば、あなたは貸出しを行うでしょう。これは相手の人間性に基づいた期待をして主観的に社会的不確実性を低下させる「信頼」行為です。

2つ目のパターンは、例えば、マフィアのボスは「裏切れば即処刑」というルールをファミリーの中で徹底していれば、部下がどれだけ不義理で卑劣な人間性を持っていたとしても、基本的には裏切りを心配せずに大事な仕事も任せられるわけです。こちらは相手の(生命的な)利害に基づいた期待をして客観的に社会的不確実性を低下させる「安心」行為だと言えます。

5. 安心型の日本社会

さて、前々節の最後に「非協力に対して何らかのデメリットを与える仕組みが社会に組み込まれている場合においては、日本人は集団主義的である」としました。これは、実際の人間関係から隔絶された実験の様な環境ではない限り、つまり実社会においては、日本人は社会的ジレンマに対して集団主義的に協力して動く、ということです。

社会的ジレンマ下においては、自分と同じ様に他人が全体への協力行動をとるかどうかについて社会的不確実性があるわけですから、これに信頼の分類を組み合わせて日本社会を定義すると、利害に基づいた相手の意図への期待が持てる様な仕組みが社会に組み込まれていることによって社会的不確実性を低下させている「安心型社会」であると言えます。

反対にアメリカの様な社会は、個々人が他人を信頼することによって社会的不確実性を(主観的に)低下させる「信頼型社会」だと言えますが、この社会的不確実性に対するアプローチの違いを、飲食店の例と「取引費用」「機会費用」「コミットメント関係」の3つの観点を使って説明していきます。

取引費用:その取引によって得られた利益に対する全体の費用。

機会費用:ある行動をするのに費やしたお金や時間を、別のことに費やしていた場合に得られる利益のこと。つまり取り逃した利益のことを逆説的に「費用」と呼んでいる。

コミットメント関係:社会的不確実性を低下させるには互いの利害に何かしらの担保を提供する、というのが安心型社会のあり方であるが、その社会の中の特定の人との人間関係そのものが、互いの利害への担保となった状態のこと。具体例は次節にて。

6. ビジネスにおける社会的不確実性

例えば、一回限りの来店が前提の観光客相手の飲食店は信頼型社会的なビジネスと言えるでしょう。観光客にどれだけ安くて美味しい料理を提供しても、リピートをしてくれるわけではありませんから、店側にとっては価格以上の味やサービスを提供するメリットがありません。

その結果、観光地にある飲食店はどの店で食べようと大差がなくなってしまい、価格以上のサービスやものなどを期待するとしたら、店主自身の人格への信頼をするしかなくなってしまいます。

この様な信頼型社会においては、取引費用は高くなり、機会費用は低くなる傾向があります。即ち、客視点で捉えるのであれば、一回しか来店しない分、その一回の取引費用が高くなりはするものの、どの店も値段や味に大差がないため、一般的には機会費用が低くなる、ということです。

そして、観光客相手ではなく、地元の馴染み客を相手にしているような飲食店は安心型社会的ビジネスだと言えます。ある程度固定された客が継続的に来店することによって利益を上げるビジネスモデルであるため、価格以上の味やサービスをすることは、常連の確保という点において長期に渡ってメリットがあります。

この様な安心型社会においては、取引費用は低くなり、機会費用は高くなる傾向があります。即ち、常連客の視点で捉えるのであれば、店側の様々なサービスにより相対的に取引費用は低くなる一方、その店に費やした時間やお金を他の店探しに使っていれば、もっと好みで安い店を見つけることができた可能性があり、その分に応じて機会費用も高くなる可能性がある、ということです。

さて、前節で言及したコミットメント関係の具体例ですが、まずはコミットメント関係がない場合の安心型社会のビジネスを考えてみましょう。例えば、中古車販売において購入者には、その車の価格が現在の車の状態を適切に反映しているかどうかについて、社会的不確実性があると言えます。

多くの場合は、保証金という担保を販売者が提供することによって互いの利害について安心ができるようになるわけですが、前述の馴染み客相手の飲食店はそのような担保を提供しておらず、また、ビジネス以外、特に人間関係などにおいて、安心を提供するための適切な担保というのものは見つからないことの方が多いでしょう。

そこで、特定の人との人間関係そのものが安心の担保となるコミットメント関係が、保証金などの担保に代わって社会的不確実性を低下させるわけです。

馴染み客相手の飲食店に戻ると、常連客と店主は、お互いの人間関係を深めることにより、常連客は長期に渡って店側からのサービスや美味しい料理などを期待できるようになり、店主も長期的・継続的な来店を期待できるようになります。このような、人間関係そのものが互いの利害に基づく期待、つまり安心を提供するための担保となっている状態をコミットメント関係と呼ぶのです。

コミットメント関係の形成は社会的不確実性が大きな状況において、被害のリスクを低下させるのに有効な手段であり、実際にその様な不確実性が大きい環境ではコミットメント関係の形成が促進されることも実験で分かっています。

その理由は幾つか考えられますが、1つは、長期的な協力的な関係性を結ぶことは、お互いにメリットがあり、将来の自己利益に対する社会的不確実性を低下させること。これは先ほどの飲食店の例が分かりやすいでしょう。

もう1つは、関係性構築によって相手の情報の蓄積が起こると、相手の行動の予測が容易になり、相手が自分に危害を加えるかどうか、という社会的不確実性を低下させることができる点にあります。

これは、各国が協力して開発した高性能偵察衛星が、お互いの国の軍事的行動の意図に対する社会的不確実性を低下させている様な状況にも似ています。ここでは深く触れませんが「情報があること」が社会的不確実性を低下させることは「9. 批判と感想」にて言及しますので、覚えておいてください。

この様に、コミットメント関係の形成には社会的不確実性を低下させるという点でメリットがありますが、それがいつでも有利に働くわけではありません。あくまで「取引費用の節約分を機会費用が上回らない限り」です。

7. 他人を信頼できない日本人

前節で説明した通り、信頼型社会であるか安心型社会であるかに、その社会で発生し得る取引費用と機会費用の関係性は強く関わっており、その費用の関係性が変化すると、社会の形態も変わってくるはずです。

しかしながら、実際には、費用の関係性が変化したことによる社会形態の変化の影響度合いについては、信頼型社会であるか安心型社会であるかによって大きな差があるとされています。

というのも、コミットメント関係を伴う安心型社会では、たとえ取引費用と機会費用の関係性が変化し、現状の社会が大きな損失を出す非合理的なものになったとしても、費用対効果に適応するための社会の変化には、強い惰性が働くからで、そのことは実験によっても確認されています。

山岸氏が行った実験では、部外者が良い人か悪い人か実際には分からない状況でも、社会的不確実性が存在するだけで、コミットメント関係にない部外者に対する信頼は低下すること、また、特定の相手とのコミットメント関係の程度が強いほど、部外者に対する信頼は低下することが確認されています。

もう少し詳しく説明すると、安い取引費用を提示する部外者の登場によって、現状のコミットメント関係による取引の機会費用が高くなり、部外者と新しい取引を始めた方が費用対効果として合理的になる状況であるにも関わらず、見知らぬ部外者のことを信頼できず、現状のコミットメント関係による安心の維持を選択する傾向が、日米の両方において見られたと言います。

山岸氏は、その社会における人々の考えや行動(安心的か信頼的)を決める要因は、必ずしもそれだけではない、と強調はしつつも、人々の考えや行動は環境への適応行動だとする、帰納的な社会決定論をメインに議論を展開しています。

そうであるにも関わらず、取引費用と機会費用の費用対効果に変化があった場合に、安心型社会における変化に惰性が見られるのは、コミットメント関係を伴う社会では、他者一般に対する信頼度が低下する性質があるからだ、ということは上述の通りです。

そもそも、環境が少し変化したくらいで崩れてしまうような関係が安心の担保となるのは難しく、このコミットメント関係の性質は当然のものと言えるでしょう。

タイトルに「他人を信頼できるアメリカ人と信頼できない日本人」と大袈裟に書きましたが、それは個々の日本人の根源的な心理性質を指したものと言うよりかは、コミットメント関係を伴う安心型社会への適応行動の結果、日本人の他者一般への信頼度が低下してしまったものだ、と考えられます。

8. まとめ

ここまで本の前半部分の要約をしてきましたが、適応行動の具体例や日本社会への提言などを議論している中盤及び終盤については、山岸氏の議論が曖昧になってきており、その内容についても筆者は批判的であるため、次節「批判と感想」の部分で触れたいと思います。

さて、通説で言われる「日本人は集団主義的だ」ということに関しては、「集団主義」という言葉を「個々人の利益よりも全体の利益を考えて行動する傾向」と定義するのであれば、日本人の個々人の性格としては通説で言われる様な集団主義的ではないものの、社会を形成している時には集団主義的な行動を取るようになることが、実験結果から示唆されました。

個々人が全体の利益を優先するかどうかの場合においては、自分だけが協力をすると自分だけが損を被る、という社会的ジレンマがあり、その周りも同じ様に協力してくれるかどうか、について社会的不確実性がある、と言えます。

社会的不確実性がある状態でも社会を動かすために、潤滑油としての「信頼」という概念が存在しますが、その「信頼」は、信頼と安心の2つに分類されました。信頼とは、相手の人間性に基づいて安心とは、相手の利害に基づいて、社会的不確実性がある状態でも相手が自分に害を加えないことに期待することです。

安心型社会において、利害の担保が難しい場合は、特定の人間関係の強い結びつきそのものが将来の社会的不確実性を下げる担保のような役割を果たす、コミットメント関係の形成が促進されること、また、コミットメント関係にある人は、関係の結びつきが強ければ強いほど関係外の人間に対して信頼度が低下することも、実験によって分かりました。

つまり、日本人の他人に対する信頼度が低いことは、歴史的・地理的要因によって形成された安心社会への適応行動の結果だと言えますが、その集団内においては、たとえ他人に対する信頼度が低くても、全体への協力行動を取ることが可能であるため、社会的な問題は低い、ということは日米の社会的ジレンマの比較実験で確かめられています。

しかし、コミットメント関係はその関係性の変化に強い惰性を生むため、近年の情勢変化によって関係性維持にかかる機会費用が高くなっているにも関わらず、適応変化ができていないのではないか、そのことによって日本社会のあらゆる所に非効率性が生まれ始めているのではないか、という指摘がこの本の前半部分のあらましでした。

9. 批判と感想

まず最初に断っておくと、僕はこの本を購入したことには満足しています。山岸氏の著書は初めてでしたが、信頼という概念の分類を使った日本文化論は非常に興味深いものでした。

1998年出版であったので「SNSが発展した現代ではどうだろうか」ということを念頭に置いておいて読み進めましたが、20年以上経った今の日本社会に通ずる内容も沢山あったと思います。

しかし、SNSが発達した高度情報化社会で育った現代人だからこそ、はっきりと違和感を感じたのかもしれませんが、山岸氏の一般的信頼の分類「他者の人間性に基づく期待(信頼)」と「他者の利害に基づく期待(安心)」には「他者からの評価に基づく期待(認知)」という第3の視点が抜け落ちていると感じました。

「認知」というものがなんなのか、まずは貨幣の例を使って考えてみます。10,000円札の価値は10,000円だけの値打ちがあると皆が信頼していますが、これは「4. 信頼の分類」の図表のどこに分類されるものでしょうか。人間社会の中でのみ機能するものであるため、自然的秩序に対する期待ではないでしょう。

10,000円分だけの支払い能力があるから能力に対する期待だ、という指摘もできます。しかし、国が「これから新紙幣を使うので、古い紙幣は使えません」と決めたら今手元にある10,000円札は使えなくなります。果たして紙幣そのものに支払能力があると考えても良いのでしょうか。

人間性に対する期待、つまり信頼行為でもないでしょう。福沢諭吉が品物を譲ってくれるよう店員に必死に頼みこんでいるわけではありません。残るは安心ですが、一体誰に対する利害関係で僕らは10,000円札に10,000円の価値があると信じているのでしょうか。

MMTの租税貨幣論で考えるのであれば、政府と国民の間に利害関係がある、と言えなくもないですが、僕らが普段お金を使う時には、政府との関係を意識したりはしません。

ここに関して、僕は「大勢の他人が10,000円だと評価しているから、その10,000円には10,000円の価値があると、皆が認知する」という新たな軸を加えてしまった方がスッキリすると思うのです。

理屈をこね回せば、安心の部類に入れることも可能でしょう。実際に山岸氏は、僕の理屈で言う所の認知型社会に含めるべき「消費者が名前も知らないメーカーより有名メーカーの製品を選ぶ現象」を、有名なメーカーが粗悪品を出せば、その企業の評価が落ちて売り上げが低下するという利害に基づいた期待からくる安心行為だ、としています。

では、大手メーカーと消費者の関係性を、安心型社会の本質であるコミットメント関係の観点で見てましょう。馴染み客相手の飲食店などであれば、たとえ1人の客であっても、長期的な関係性で見れば大きな利害が絡んでおり、客と店の関係性は「1対1」の相互協力によってお互いにメリットのあるコミットメント関係となります。

しかし、大手メーカーと消費者の関係性は間違いなく「1対多」の関係性であり、消費者1人が製品を買わなかったくらいで企業の利益は全く変わりません。そこに安心型社会的な直接の相互協力などの関係性はないため、このような「1対多」の関係は別で区別すべき、というのが僕の主張なのです。

認知されることによって社会的不確実性を低下することができるものが、貨幣や大手メーカーの製品などの少数に限られていた昔と違い、現代はインターネット・SNSの発展によって、評価に基づいた期待が個々人単位にまでも広く落とし込まれています。

100万のいいねを稼ぐインフルエンサーは、その数字だけで発言に価値が生まれ、視聴者側の「誰の言うことが価値があるのか」という社会的不確実性を低下させています。

ちなみに、認知型社会はSNS社会ならではの発想だ、と述べましたが、出版当時にも貨幣や大手メーカー、インターネットは存在しており、認知型社会の発想材料は十分にあったはずです。

にも関わらず、山岸氏の議論において「皆が信じるから信じる」というような、他人との分散共有によって社会的不確実性を低下させるアプローチ方法が発想として出てこないのは、日米文化比較という対立軸に議論の端を発してしまったから、とも考えられるでしょう。

山岸氏は、日米の文化は安心型社会と信頼型社会である、と結論づけた際に、ルース・ベネディクト氏が「菊と刀」で指摘した「恥の文化」と「罪の文化」の件を引用してきました。

個人の行動規範が、周りからの蔑み・嘲笑などの意識という外的要因に由来する日本の「恥の文化」と、良心との葛藤という内的要因に由来する西欧の「罪の文化」の違いを指摘したベネディクト氏ですが、山岸氏の信頼型・安心型社会の発想もこれに影響を受けたものと考えられます。

このような対立軸が前提となってしまったからこそ、そのどちらでもない第三軸の発想が抜け落ち、その結果、本の中盤・終盤には、信頼行為と安心行為の二軸だけでは説明し切れていない、歯痒さを感じる様な箇所が多々あります。

例えば、中盤において山岸氏は、集団外と集団内での社会的不確実性を減らすための適応行動として、人間性検知と関係性検知というものを挙げています。

即ち、集団外においては、目の前の知らない人を信頼しなければならないため、その人の人間性を詳しく検知する必要があり、逆に集団内では、その人が誰と交友関係をもっているかなどの関係性の検知が、自分にとって安心を提供してくれる人を判断する上で重要になる、ということです。

信頼型社会と安心型社会の二軸に、人間性検知と関係性検知をどうにか落とし込もうとしていますが「誰が誰をどのように評価しているか」という関係性検知は、安心型社会における適応行動ではなく、他人の評価によって社会的不確実性を分散共有する、認知型社会における適応行動だと言えます。

この発想の有無が、関係性の検知と安心型社会とを結びつけられそうで結びつけられていないという、中盤の議論が釈然としない原因になっているのではないでしょうか。

もう一つ、終盤において山岸氏は以下の様な主旨の提言を行なっています。

「近年の社会情勢の変化により取引費用と機会費用の関係性が逆転、日本のコミットメント関係を伴う安心型社会が大きな損失を生み出す様になっている。しかし、そこから脱却しようにも、コミットメント関係にある人間が、いきなり他人を信用できないのは実験で確かめた通りである。なので、まずは政治や経済などにおいて情報開示や意思決定プロセスの透明化を進め、社会的不確実性を可視化、集団外に対しての安心を提供していくべきだ。」

現状が大きな損失を生み出している点、情報の透明化が社会的不確実性の解決手段になるという点に関しては同意しますが、その透明化すべき情報というのは、認知型社会における個々人の適応行動に必要な、集団内での人との関係性であり、政治や経済における意思決定プロセスの可視化も意義はありますが、相対的には薄いでしょう。

2023年に生きる僕と1998年当時の山岸氏を比べるのもずるい気がしますが、現状を脱却した後の社会の未来像に関して、僕と山岸氏との間に、それが信頼型社会か認知型社会か、という点で大きな違いがあります。

では、現代の日本の社会が認知型社会へ移り変わっていることの兆候を見てみましょう。例えば、関係性検知(社会的不確実性を低下させる認知型社会的な適応行動)に必要な情報「集団内での人との関係性」の可視化は既に実装されつつあると言えます。

インスタを開けば、その人がどのような人と交友関係がいるか、どのような人をフォローしているか、あるいはどのような投稿に良いねを押しているか/押されたか、という認知型社会での適応行動に必要な情報を手に入れることができるでしょう。

SNSが発達した認知型社会の良い所は、安心型社会におけるコミットメント関係の中で生活していたとしても、その集団内での関係性の構築(フォロワーからもらっているいいねの数など)が集団外部(フォロワーでない人)からも可視化されているため、その人のSNSを覗いて人となりを知ることで、集団外の人でも信頼感を持つことができるという、安心型社会との共存が可能な点にあります。

このようにして、コミットメント関係下にあっても集団外の人との交流が現状よりも増えていけば、現在の安心型社会の問題点であった機会費用と取引費用の問題は、日本人の安心型社会的な精神性に合わせたまま解決することができるため、個人の人格に立脚した信頼感で成り立っている西欧型個人主義的な信頼型社会を、わざわざ日本人が目指す必要性を僕は感じません。

現在は、まだ日本人の中にもこの様な集団内での関係性が可視化された認知型社会を受け入れがたい人も多いでしょう。しかし、今までの安心型社会では非効率性が非常に大きいままであり、そこは変革していかなければなりません。

日本人の安心型社会的な性質に、真っ向から反発する信頼型社会と共存可能な認知型社会、どちらの方が良いかと聞かれたら、僕は認知型社会の未来の方が日本人にとって明るいように思うのです。

最初の総務省の結果で示した様に、現在のSNS上での他人への信頼はまだインフルエンサーなどの一部に限られていますが、それでも、認知という観点で見ると、今まではテレビに出れる俳優などに独占されていたものが、社会に広く民主化されてきています。

今まで、自分の認知度を上げて社会的不確実性を減らすことを目指すのは、とてつもない機会費用を生んでしまっていたわけですが、その機会費用がSNSなどによって著しく低下し、その流れが今後も止まらないことは、YouTubeの広告収益がShortsにも付くようになって収益化の対象が更に広まったことなどにも見て取れるでしょう。

個人への評価が社会の潤滑油として至る所で使われていく、そのために関係性情報の可視化を更に進めるべきだと思いますが、これは人間関係を全て晒せ、と言っているわけではありません。

SNS上での呟きや人との交流、どんなものにいいねを押したか/押されたか、などという情報の積み重ねが、その人が(SNS上も含めて)周りとどのような関係を築いているかという認知に繋がり、将来的にはAIによるマッチングなどにもよって、一般の個人であっても、そのような認知度が社会的不確実性を減らすための潤滑油として機能していく、という、単に自分の人格としてSNS上での活動実績を残すことが潤滑油としての認知形成の材料になる未来のことを言っているのです。

さて、山岸氏が、認知型社会における適応行動である「関係性の検知」の存在を認識はしていたものの、その行動の適応先である「他人の評価に基づいた期待によって社会的不確実性を分散共有して低下させる」認知型社会の発想までに至らなかったのは、この研究の残念な所です。

しかし、本稿では割愛しましたが、信頼型社会と安心型社会の適応行動の実験結果や、それらの適応行動と相関関係を示す心理的性質などの様々な示唆に富む資料やその考察などは非常に楽しめ、11,500文字の解説を持ってしても語り切れないものが多くあったように思います。

興味を持った方は、是非ご自身で購入して確かめてみてください。ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

【誤字・脱字等、見つけ次第修正しています】
2023/12/8 細部修正
2023/12/11 細部修正、アマゾンリンク挿入
2023/12/15 細部修正
2024/02/01 表紙画像変更

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