手紙

 蹂躙された。詠子は帰宅しながら重い身体を引き摺りながらそう思った。確かに今日も職場は戦争のようで、忙しくドラマティックだった。傍観者だったら良かったのに・・、と心から思って苦笑する。詠子が働く総合病院の受付はギリギリの人員で回していて、例えば今日みたいに連休明けで急にスタッフが休んだ時(安田さんが子供の急な発熱で休んだ)なんかは、戦争のような忙しさになる。
 ひっきりなしに、患者のデータを確認して事務処理していく。今日の患者数は500名を超えていたらしい。

 さらに悪いことにこの日はレセプトの締め日で、残業して医療請求のチェックを血眼になってした。先月はチェック漏れが2件あって、上司から大目玉を食らった。そんならお前がやれよとか思うが、アラフィフの薄毛上司はいつも定時キッカリにお帰りになられやがる。
 都会の生活に憧れて、愛媛から東京の医療事務専門学校に入学し、資格も取得して意気揚々と就職した。華やかな東京の生活を謳歌できると思っていたが、当てが違った。生活のために忙殺されるような日々で、毎日生活に潤いを欠いていっているような気がした。
 20代後半ではあるが、もう30歳に近いいわゆるアラサーでなんとなく気持ちが焦る。このまま生活のために磨り減っていく人生で良いのか・・・。 

「とぅとぅとぅっとぅるとぅとぅっとぅぅとぅー♪」沈んでいる気持ちを蔑ろにするようにスマホの着信音が賑やかに鳴った。22時。飲み会の誘いの電話にはいささか遅すぎる時間だし、実家からの電話はこんな遅くにはかかってこない。
 スマホの着信画面を見ると登録していない電話の番号からだった。固定電話からの8ケタの番号で、郷里の089の市外局番からの電話だった。詠子は怪訝に思いながらも通話のボタンをフリックした。

「ああー、もしもしエイコ?私だよ。元気にやっとるか?」
「えっ、ああうん。ぼちぼち」
誰だろう?訝しげに思いながら、もしかしたら親戚かと思うと無下にもできずになんとなく話を合わせるように話していた。
「別に用事はないんだけどよ。元気かと思ってな」
「ああ、うんまぁ元気だよ。今、仕事が終わって帰っているところだよ」どことなく柔らかくてのんびりとした声の調子に気持ちが和らいだ。
「そうか、おかあちゃんも元気でやってるからね。エイコも無理すんなやー」電話は唐突に切れた。
「???んん??」
不可思議な電話だったが、まぁ間違い電話だろうとそのまま忘れた。詠子はマンションの自室に辿り着き、お風呂にも入れずに崩れ落ちるように眠った。
 


 翌日も目まぐるしく1日が終わり。詠子は帰路についた。
 繰り返しの毎日。何かしらの希望を抱いていたように思うけれど、もうそれさえも思い出せない。正直、今の生活を維持するだけで精一杯だ。
 母親からは、地元の「売れ残り」とのお見合いを勧める電話がかかってくるが・・・。正直、ゲンナリする。
 でも、このままいっそのこと・・・。
とか思ってたらまたスマホが鳴った。スマホの画面を見ながら歩いていたので、瞬間的に画面をフリックする。

「愛媛はすんごい雨やったけど、そっちは大丈夫やったか?」
「えっ、ああ。雨降ったかな?うん、でも大丈夫だったよ」
「そっか、そんなら良かったよ。こっちは二階堂さんちの畑が水に浸かっちまってなぁ・・・」
「そうなんだ・・・。お気の毒に。ってか、電話間違えてませんか?二階堂さんってどなた?」
「ああ、そっか。そんで次はいつ帰ってくる?」
「えっ、今のところ愛媛に帰る予定はないけど・・・。ってか、確かに私の名前はエイコですが、どなたか別の人と間違えているんじゃないかと思うんですが・・・」
「うん、まぁ元気ならええんよ。無理せんでな」
唐突に電話が切れた。

 詠子はこの電話は認知症の高齢者からではないかと思った。自分の娘だと勘違いしてかけてきているのではないだろうか?病院の窓口にも、たくさん認知症の高齢者が来る。そんな彼・彼女らの姿を思い浮かべると合点がいく。「あなたの娘じゃないですよ」とはっきり言ったほうが良いのだろうか?でも、そんなふうに突っぱねるのも可哀想な気がするし・・・。

 それから、何度も「おかあちゃん」から電話が来た。電話の頻度はまちまちで、多い時には週に4~5回かかってきた。かと思えば、1週間ほどかかってこないこともあった。
 大体電話が来るのは22時前後。おかあちゃんの娘の仕事も22時前後に終わっていたのかもしれないと思う。
 詠子自身は上京する際に母親と揉めて、疎遠になってしまっていた。母親としては、地元に残って就職して、結婚して幸せな結婚を仕手欲しかったのだろう。
 だけど、最近はもう連絡も来ないし、詠子のことはあきらめたのかもしれない。下に出来のいい弟と、妹がいたためもあったかもしれない。そして、弟も妹も地元で幸せな結婚をして子供をもうけ、両親を喜ばせていた。
 詠子と言えば、上京して以来付き合った人もいたがお互いの仕事の忙しさや、その他のすれ違いで別れてしまって、現在は付き合っている人はいなかった。
 「とぅとぅとぅっとぅるとぅとぅっとぅぅとぅー♪」今日も軽快なメロディーと共におかあちゃんからの電話が鳴る。

「エイコ、元気かぁ?」
「うん、おかあちゃんは元気にやってる?デイサービスにはちゃんと行ってるんかな?」
「ああ、おかあちゃんリハビリも真面目にやってるし、友達もできたんよ」
「おお、そりゃ良かったね。今はホームヘルパーさんも週2回来てるんだよね?無理しないで助けてもらってね」
「うん、そうやね。みんな良くしてくれてるんよ。じゃあね。エイコも体に気をつけてね」

 電話はいつも1分ほどであっけなく切れた。たわいもない近況報告だったが、詠子はいつの間にかおかあちゃんからの電話を心待ちにするようになっていた。残業続きで疲れた心身も、おかあちゃんの豪快な笑い声で癒されるように思えていた。
 こんなふうにして、半年が過ぎた。おかあちゃんからの電話が3週間ほどなかった。今までになかったことだ。一人暮らしの高齢者だ。何かあったのかと心配になる。今までおかあちゃんから一方的にかかってきた電話だったが、詠子は初めて自分からおかあちゃんに電話してみた。そういえば、おかあちゃんの名前すら知らない。
 4~5回かけて電話がようやく繋がった。
「もしもし?」
「あの、私・・・」
「どちら様ですかね?あっ、山中さんは今いらっしゃらないんですよ」
「あっ、そうなんですね・・・。何度かかけてみてたのですが・・・」
「あなた、もしかして詠子さん?」突然、知らない女性に名前を呼ばれてどぎまぎした。
「あっ、はい。でも、何で私の名前を・・・」
「山中さんがあなたのことを手紙に書いていたのよ。あの人はね・・・」

 電話に出た女性は、おかあちゃんの介護の相談をするケアマネージャーで、おかあちゃんは現在介護の施設に入所しているとのことだった。身寄りがいなかったおかあちゃんのアパートの荷物の整理等で訪問している時に偶然、詠子からの電話が鳴ったとのことだった。
 おかあちゃんは、身寄りがなくてたった1人でアパートに住んでいたらしい。エイコというのは、幼い頃に亡くした妹の名前で記憶が混同して私にたまたま同じ名前で呼びかけていたようだった。昼間は比較的しっかりしていたが、夜になると寂しさと心細さでおかあちゃんは不穏になってしまい思考と記憶が混乱してしまうことがあったようだった。
 おかあちゃんは、揺れ動く意識と記憶の狭間で私との電話のことを手紙に書いていたらしい。それは、とても長い手紙で自分の人生と妹のこと、そして私と電話のやり取りをした日々のことが記してあったようだった。
「この手紙はあなたが持っているべきだと思うの。良かったら、郵送させてもらえるかな?」

 秋雨が少しずつ冷気を運んでくる10月。ポストにお母ちゃんの手紙が届いた。詠子は玄関を開けて、靴を脱ぐのももどかしく自室のソファーに座り込んだ。
 手紙は便箋10枚にも及び、おかあちゃんの半生。可愛がっていた妹が川遊びをしていて目の前で溺れて翌日には下流に打ち上げられていたこと。幼馴染と結婚したが、彼は戦死してそれ以来独り身を貫き通したこと。子供もおらず、晩年は天涯孤独であったこと。認知症で混濁する意識の中、夜な夜な電話をかけてしまっていたこと。そして、まるで本当の娘のように思える「エイコ」と巡り会ったこと。詠子との短い電話がいかにおかあちゃんの毎日の生活に潤いと豊かさを与えていたかが丁寧に綴られていた。
「あなたはきっと優しくておっとりしているから、誰かに上手に利用されたり、人より世の中をうまく渡っていくのが上手じゃないかもしれない」おかあちゃんは、詠子に対して語りかける。
「でも、私のようにあなたに心を癒されて救われている人はたくさんいると思います。どうか、そのまま真っ直ぐに向日葵のように太陽に向かって咲き続けて下さい。あなたの暖かさと優しさが、きっとたくさんの人を幸せにするから。私は子を産んだことはないけど、あなたのような娘がいたらどんなに良かっただろうと思います。私と巡り合ってくれてありがとう。どうか真っ直ぐにあなたの道を進んでください」

 詠子は部屋で手紙を読んで、それから霧雨煙る夜の街に出た。秋雨と湿り気を帯びた夜気。驟雨を身体で受けながら夜の街を歩いた。
 言葉にならない想いが、詠子の胸に込み上げる。会ったこともないおかあちゃんから何かを受け取って力を得たような気がしていた。
 歩道橋から見える街のネオンと車のライトの光と、柔らかく降り注ぐ秋の冷たい雨が混じり合って輝いている。詠子の目は涙でぼやけて滲み街の光と混じり合っていた。オレンジ、パープル、レッド。(この光の中に私が求めているモノがあるのかな?)詠子は、そう思いながらどこまでも歩き続けた。心に光を灯して。

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