「恋愛小説」

 雨が激しく、降っていた。

 アスファルトを強く叩く水滴が足元を濡らしていく。綾子は黒い喪服の裾を濡らしながら啓三の遺影もって歩いていた。娘の愛美が傍らから傘をさしかけて悄然とした様子の母親を心配げに見守りながら寄り添っている。
 綾子はふと、空を見上げる。鈍色の空から、銀色の雨粒が矢のように光りながら地表に吸い込まれる。
 急に立ち止まって空を仰ぐ綾子を周囲の人々が哀れみを湛えた視線で見ている。

 啓三と綾子の結婚は、当時では珍しい恋愛結婚だった。
 
デパートのお菓子売り場で働いていた綾子は、いつも仏頂面で洋菓子を買っていく、1人の男性に突然デートを申し込まれた。あの時の驚きと高揚を、今でも綾子は覚えている。啓三は顔を真っ赤にして、怒ったような表情をしながら、真っ直ぐに遼子のことを見据えていた。
 お茶をして、映画を観て、食事をして・・・。ありきたりなデート。実直な性格な啓三と、引っ込み思案だった綾子の会話は、決して弾んだとは言えず、沈黙とはにかみの時間が大半だった。しかし2人ともそんなことは意に介さず、沈黙やもどかしい会話でさえも楽しんだ。綾子はまるで自分が恋愛小説の主人公にでもなったかのような、浮かれた気持ちとを感じていた。

 初めて口づけした時のことを、昨日のことのように覚えている。いつもの帰り道、晩秋の暮れゆく薄闇の中2人は肩を並べて歩いた。啓三は黙って遼子の肩にマフラーをかけて、真っ直ぐに目を見ながらこう言った。
「綾子さん、あなたのことが好きです。僕と一緒になってくれますか?」
 啓三らしいどこまでも簡潔で、だけども真っ直ぐな愛情に満ちた言葉だった。街灯に照らされた2つの影が重なった。

 1963年。2人は誰からも祝福されて結婚した。
 
 啓三は愛媛大学を優秀な成績で卒業すると四国電力に入職し、営業職として定年まで真面目に勤め上げた。一姫二太郎そのままに女の子と男の子が産まれて、家族を養うために啓三はがむしゃらに働いた。そして、休日は愛車を運転して家族を動物園や遊園地に連れて行き、息子とキャッチボールに興じた。当時としては珍しいぐらい理想的な父親で、仕事終わりでナイターを観ながらごろ寝でビールを飲み、休日はいつまでも寝ていると愚痴をこぼすよその母親の話を聞きながら、啓三のマイホームパパぶりを喜び、自分がどれだけ幸せかを噛み締めるのだった。
長女の愛美と、長男の裕二がそれぞれ就職してやがて家庭を持って、私たちも肩の荷が下りた。しかし、啓三の父が脳梗塞で倒れて後遺症で半身に麻痺が残った。啓三の母が介護したが、半身麻痺で身体的能力も著しく低下し、歩行もままならなくなった。穏やかな性格は変容していき、周りに当り散らすようになった。
 啓三は、県内にいた兄妹と連絡を取り合い、自らも土日などには父親の介護をすべく足繁く、松山から郷里の宇和島に通った。
 綾子も嫁の立場から共に介護をするべきが啓三に相談したが、「義理の父親を介護するには遠慮もあるだろう。それに、両親に育ててもらった恩返しがしたいんだよ。君の気持ちは両親に伝えているし、気にすることはないよ。」と、優しい言葉をかけられて、改めてこの人と一緒になって良かった、と綾子は思ったのだった。
 折しも、大阪に嫁いだ愛美が第一子を妊娠中で、産前産後と手伝いが必要だったこともあり、啓三の配慮はありがたかった。
 その当時すれ違いは多かったが、お互いが家族の為に力を尽くしていると思い、気持ちは深く結びついていると思っていた。啓三は、宇和島に帰るたびに和菓子を買って帰ってくれてた。宇和島で何代も続く「みよし」という名店で、本蕨を使ったわらび餅や、いちご大福を食べさせてくれた。
「美味しい。本蕨を使ったわらび餅はなかなかないのよね。ありがとう」綾子がそう言うと啓三は困ったように笑った。
 
 啓三の父親が介護施設に入所して、亡くなってから程なく母親の認知症が進行した。啓三も60を過ぎ、仕事を退職していた為、兄妹と協力して、在宅介護のサービスもフルに活用しながら、自身も宇和島の実家に泊まり込んだ。
「おふくろには迷惑ばかりかけて・・・。できるだけ親孝行したい。叶うなら、最後まで住み慣れた家で最後を迎えさせてやりたいよ」介護に憔悴した啓三はそうやって想いを吐露した。事実彼は周りと協力しながら母親を最後まで看取った。綾子はそんな夫をとても立派だと誇らしく思った。

 母親を見送った後、夫婦2人の落ち着いた生活が続いた。それは、子育て・介護と続いた荒波のような時期に於いてまるで凪のような穏やかな日々だった。夫は縁側でタバコをくゆらせながら、本を読みふけり、花花を写真に納めた。時々、宇和島に墓参りがてら「みよし」の和菓子を買ってきてくれることもあった。

 その和菓子は、蠱惑的なほどに甘く、どことなく怠惰な味がした。

啓三が膵臓がんで逝ったのはそれから2年後のことだった。症状が出にくく、黄疸や食欲不振に気づいた時は手遅れだった。若かったため、進行も早く3ヶ月ももたなかった。今際のきわに、まるで許しを乞うように綾子を仰ぎ見た啓三は、言葉も上手く発することができずにそのまま帰らぬ人となった。

 雨が降り続いている。夫は何を私に伝えたかったのだろうか?ほとんど呆然として、綾子は夫の遺影の前で佇む。

 遺品の整理をしていた時に、引き出しの奥から1冊のノートを見つけた。懐かしい夫の字。何気なくページを繰っていく。一人称の小説だった。単身赴任で、田舎の街に来た男性が、和菓子屋に通ううちに店員の女性と恋に落ちるという恋愛小説だった。(あの人にこんなロマンチストな一面があったなんて)と、最初は微笑ましく読んでいた綾子だったが、段々とどす黒い感情が胸に渦巻き出していた。
 主人公の男性の境遇と、啓三が介護に宇和島に足繁く通っている状況がとても似通っていた。そして、従順だが凡庸で配慮にかける妻に嫌気が差してある和菓子屋の店員の女性に心惹かれていく描写が綾子の胸を締め付けていた。
 この妻とは私のことだろうか?おしどり夫婦のように仲が良い夫婦のように思っていたのは私だけだったのだろうか?信じたくなかったが、作中に出てくる和菓子の描写がいつも綾子が喜んで食べていた和菓子と同じだったのを見てフツフツと怒りが沸いて来た。
 やがて和菓子屋の女性も足繁く店に通い好意を見せる男性に惹かれて2人で会うようになる。

 気がつけばノートをバッグに入れて、車で宇和島に向かっていた。スマホで「みよし」の場所を調べて高速に乗っていた。「みよし」に行って、夫の恋愛の相手がいたとしてどうするのだろう?まとまらない気持ちを抱えながら綾子は車を走らせた。胸の中にどす黒い塊が渦を巻いていた。

 「みよし」は、高速を降りてから車で5分。市内を流れる大きな川沿いにあった。木造の平屋建てで、店の前には5台分の駐車スペースがあった。時間は18時前。何とか閉店時間間際にたどり着くことができた。
 しかし、と綾子は急に我に返って思った。もし夫の小説のように会っていた女性がいたとして、今更会ってどうなるのだろう?そもそもあの小説の内容が啓三の実体験とは限らないだろう・・・。しかし、直感のようなものがあったし、啓三が亡くなった今このノートに書かれている小説の真偽を問えるのは1人しかいないはずだった。
 
 自動ドアが開いて、エンジ色の和服を着た女性がカウンターの奥で「いらっしゃいませ」と、静かに微笑んでいる。歳は50代前半だろうか?肌は透き通るようなに白く、黒く長い髪を結んでいたが漆黒を思わせるようなそれでいて艶やかな色だった。
 一瞬、カウンター越しの彼女と目が合い、そのまま綾子の視線は彼女に釘づけになった。-彼女だ-カウンター向こうの店員の女性の表情が笑顔の名残を張り付けたまま少しずつ引きつっていく。その様は、綾子に早朝の空に取り残された三日月を思い起こさせた。
 「二神の妻です。あの・・・」綾子がそう言い終わらないうちに、彼女はその場で泣き崩れた。

 美夜さんは(彼女の名前だ)綾子に何もかも正直に打ち明けた。いつかこんな日が来るのでないか、とある種の心構えはできていたとのことだった。啓三の死を伝えると、再び泣き崩れた。綾子は、何も言えずに車のエンジンをかけて再び高速に乗った。

 帰宅して、啓三のノートをバッグから出してテーブルに置く。ノートに書かれた恋愛小説のタイトルは「美夜」だった。綾子は、ノートをテーブルから拾い上げると、仏壇に飾れた啓三の遺影にノートを叩きつけた。お供え物のお菓子と一緒に遺影のガラスが割れる。まるで恋愛小説のようだと思っていた自分の人生が、三文小説のように思えてくる。彼女は、何度もノートを遺影に叩きつけた。

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