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釧路で感じた「働く」ということ

霧多布岬へ2泊のつもりが、訳あって急きょ釧路に1泊した。
突然の釧路泊だったが、いつも釧路を訪れるときのように、住民のように街をぶらぶらすることにした。

釧路中央図書館の釧路文学館で開催されていた企画展「アイヌと文学」に足を運ぶ。
北海道を訪れるようになってから、アイヌ民族の考え方や暮らし、そして歴史について、深く考えるようになった。

今回の企画展は、アイヌ文化伝承者 山本多助氏に関わる展示が中心だったが、その中で逓送人だったアイヌの吉良平治郎さんの話に心を奪われた。

吉良平治郎は1886年(明治19年)旧釧路村(現在の釧路市)桂恋に生まれ、極貧生活の末、35歳で郵便逓送の仕事を得た。逓送の仕事は昼間郵便局に集まった郵便物を夜間に本局まで届け、その帰りに本局の郵便物を運ぶ仕事である。
 1922年(大正11年)1月20日。勤務を始めて3日目の夜、17キロの郵便物を旧釧路郵便局から16キロ先の旧昆布森郵便局まで、単独徒歩で逓送中2つの低気圧にはさまれた猛吹雪の中、歩行困難になり行く手を阻まれてしまう。その時、吉良は着ていたマントを脱いで郵便物を包み、雪の中に埋め、杖の竹棒の先に首の手ぬぐいを結びその場所に立て力尽きて凍死してしまう。~中略~
現在の北海道のアイヌ民族を代表するエカシの一人である、故山本多助エカシは、著作で「万一、平治郎が包んだ行嚢や目印の前で死体となって発見されたなら同族は彼を軽蔑するであろう。万物に勝る人命を僅かな物品と取り替えた馬鹿者であると」。アイヌ民族の思想は、いかなる場合でも人命を優先する。多助エカシは、平治郎のまたいとこにあたり、遭難当時17歳で捜索に加わっていた。
 平治郎は15歳のとき、病気により左半身が麻痺し、歩けるようになるまで相当の苦労を重ねたが麻痺は残った。その体で太平洋岸の海岸段丘の上に吹きつける吹雪の中で郵便物を保護し、自分の命を守るため全身の気力を絞って、高台下の集落をめざして歩いたのだ。行く手を阻まれズック靴は破れ、その足に手ぬぐいを巻き、一歩一歩積もった雪を抜いては進む中で、平治郎は冷静に郵便物を処理し、次に自分の生命を守るために進んだ。人命を軽視しないアイヌ民族としての行動であった。同研究会で現地調査をし、海岸へ下りる昔の道を突き止めた。その横は急な深い沢のようになっており、地元の人からそこは吹雪とすぐ深い雪溜まりになるとのことだ。やはり平治郎はここにはまって、半身が不自由であったため、もがけばもがくだけ深みにはまったのだ。
 多助エカシ「平治郎は頭を北に仁王様のように立っていた」と文書に残している。まさに死亡地点はここに違いない。集落はすぐ下に見える場所だった。

https://www.nettam.jp/column/33/ 「ネットTAM TOYOTA ART MANAGEMENT」

和人に虐げられた生活にありながら、命がけで職務を全うしようとした吉良さんの姿に、心を打ちぬかれた。

それから数時間後、帰途につくために、フィッシャーマンズワーフMOOの待合室で空港行きのバスを待っていた。

目の前に、掃除係の女性が、トイレの掃除を終え掃除用具の入ったバケツをもって出てきた。
70歳は過ぎているだろうか。腰が曲がっているためか、とても小柄に見えた。
バケツを壁際に置き、施設に入る自動ドアと、さらにその奥にある手動ドアを雑巾で拭き始めた。
拭いては少し離れたところから拭きムラを確認し、また拭き直す。その動作を何度も繰り返していた。納得がいくまで。何度も。

人はなぜ働くのか。
仕事とは何なのか。


定年まで2年。
思えば、学卒で就職してからずっと、働くことに迷いを抱いてきた。

この仕事は本当にやりたいことなのか。
もっと自分を評価してくれる会社があるはず。

何のために生きているのか。

そんな思いの中、取得したキャリアカウンセラー
自己概念、自己実現、経験代謝・・・
キャリアアップ?
仕事を楽しむ?

突然の釧路泊で
突然考えさせられた「働くということ」


定年目前にしても、なお答えは見つかっていない

霧晴れて。いつもの爽やかな風 釧路

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