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エターナルライフ第21話 リオデジャネイロ 美里

私にとって初めての海外旅行、しかも飛行機に乗るのも初めてで、緊張しまくっていた。
真夏のリオデジャネイロに降り立つと、日本との気温差に目眩がする。
日本を飛び立ってからニューヨークで乗り継いで二十六時間。ビジネスクラスで行こうという彼を遮り、その分寄付に回そうと説得してエコノミーにしたのだがさすがに疲れた。
私がこんなに疲れているのだから、若くも無く、病んでもいる彼は相当堪えているのだろうと思っていると、懐かしいとか、ここはずいぶん変わったとか、やたらテンションが高い。元兵士はタフだ。

空港からタクシーに乗ってホテルに着く。シャワーを浴びてさっぱりしたら、途端にお腹が空いてきた。
ホテルのレストランで冷えた白ワインを飲みながらシーフードを頂く。流暢なポルトガル語でオーダーする彼が頼もしい。
お腹が一杯になると途端に眠くなってきて、まだ夕方だというのにベッドに倒れ込んでひたすら眠った。

目覚めると夜中の二時で、そのまま寝付くことができなくなってしまった。もう九時間近く寝ているのだから当然だ。初めて経験したけど、時差ぼけというのはこういうことなのだ。

寝ている彼を起こさないように起き出してベランダでコーヒーを飲んでいた。
日本との時差はちょうど十二時間。昼と夜が真逆の地球の反対側まで私を連れてきてくれた彼。
言葉もわからず、飛行機の乗り方さえ知らない私をずっとサポートしてくれた彼。
ホテルの高層階のベランダで眠らない下界の街を眺めながら、いつまでも健康な彼と一緒にいたいと強く願った。

「眠れないの?」
窓を開けて彼がベランダに出てくる。夜が白々と明けてきていた。
「おはよう。いっぱい寝たよ。だって昨日は五時過ぎに寝ちゃったから」
「また夕方眠くなっちゃうぞ。眠くなっても頑張って夜まで起きているのが早く時差を克服するコツなんだ」
「じゃあ、今日は頑張って起きてる」
「よし、今日は夜中まで眠らせない」

その日は大きなキリスト像の建っているコルコバードの丘に登ったり、リオの街を歩き回ったりして観光に費やした。
出会う人は皆陽気で気さくに声をかけてくれて、この町がもうひとつの暗い側面を持っているということが信じられない。

明日は支援団体の責任者であるイザベラ・マルケスさんに会いに行く。綺麗な字で丁寧な返事を書いてくれた人だ。
明後日はサンパウロまで飛行機で飛んで、そこからレンタカーで彼が昔住んでいた町にホセのお母さんを訪ねる。会えるといいな。

イザベラさんはホテルまで車で迎えに来てくれた。四十代位の金髪の女性だった。彼が初対面の挨拶を済ませて私を紹介してくれる。笑顔で握手をして、オラって言ったらちゃんと通じたみたいだ。
「若くて可愛らしい奥様だって言ってるよ」
「オブリガード」
ちゃんと通じる。外国人とコミュニケーションするのも初めてだった。

彼が助手席に乗り、私が後ろの座席に座って彼女のオフィスに向かう。彼はイザベラさんと何やら話しているけど私にはさっぱりわからない。
オフィスに着いて活動の内容などの説明を聞いた。彼が概要を訳してくれた。

“リオデジャネイロにはファベーラと呼ばれるスラムが数百もあり、そこには多くのストリートチュルドレンがいる。
残念なことに彼らは生きるために犯罪に手を染めてしまうことも多い。酷いことに彼らが盗んだものを、見逃してやるからと警察がカツアゲしたり、被害に遭った商店主が「掃除」と称して警察に殺害を依頼することまで起きている。
この組織は彼らに食料や寝る場所を提供し、教育を施すことで未来を拓いていく力を与えることを目的としたNPOである。うれしいことに多くの子供達が就職して家庭を築き、社会に貢献している。中には弁護士や教育者になった子もいる。
組織の運営は寄付金に負うところが大きい。子供達の可能性を開くために是非協力をお願いしたい。”

私は感動した。
「ねえ、ここに決めよう」
「そうだな。とりあえず今日は現金で五千レアル渡そう。帰ったらまとまった額を振り込む。いいね?」
「もちろん。あと、訳して。私たちはこの現状を日本に紹介し、ひとりでも多くの方が支援してくれるように訴えますと」
イザベラさんはそれを聞いてとても喜んでくれた。

その後、イザベラさんはファベーラのひとつを案内してくれることになった。その移動の車の中で言われた注意事項を彼が訳してくれる。
「これから行くファベーラは非常に危険なところだ。私と一緒でなければ決して行かないと約束して欲しい。また、荷物は絶対に肌身離さず持っていること。写真は撮らないこと。現金はできる限り小分けにして隠し持っておくこと。万一、財布やバッグを取られても決して抵抗してはいけない。ということだ」
「緊張してきた」

車を降りるとすえた匂いが鼻をついた。トタン屋根のバラックが軒を連ね、至る所にゴミが散乱している。華やかなリゾートのわずか奥に、こんな世界があるんだ。

イザベラさんが黒人の少年に声をかける。知り合いのようで何やら話をしている。汗と埃にまみれた少年はそのまま洗濯機に入れてぐるぐる回したいくらいだった。
イザベラさんが私たちを紹介してくれる。差し出された少年の手を握る。しかし、そのことを心の片隅で躊躇してしまう自分がいた。少年は敏感にそれを感じ取ったのか、伏し目がちにすぐに手を引いた。
私は自分を恥じた。先ず、自分が変わらなくては。

イザベラさんによると、彼は一年前に両親を事故で亡くし、土木現場で働きながら幼い兄弟の面倒を見ているそうだ。康輔さんに年を聞いてもらうと十二歳だという。
私は少年に話しかけた。康輔さんがそれを訳して伝えてくれる。
「私もね、十三歳で両親を亡くしたの。だから、あなたのさみしい気持ちはとてもよくわかる。でも、私にはおばあちゃんがいたし、面倒を見なければならない兄弟もいなかった。だからあなたの方が私よりもずっと偉い。今は大変かも知れないけれど、あなたの努力が報われるときがきっとくるから…。だから頑張って…」
私から握手を求める。おずおずと差し出された少年の手を両手で握ると彼は微笑みながら強く握り返してくれた。私は愛おしくなって少年を抱きしめた。彼の手がそっと私の背中に回された。

イザベラさんの事務所を後にしてタクシーでダウンタウンに向かう。
既に日が暮れてきて、車に揺られているうちに私はまた眠くなってしまう。
起きろ、飯食いに行くぞ。彼はそう言ってまどろむ私を起こし、タクシーを降りると、まだあるかな?と言いながら路地裏をずんずん進んでいく。
「あった、あった。ここだ」
そこはあまり綺麗とはいえない(はっきり言って汚い)食堂だった。
店内に入ると席を埋めているのはちょっと怖そうな肉体労働者たち。大丈夫なの。私たち浮いてない?

彼はメニューを見ながらいくつかの料理を注文した。しばらく待つと串に刺さったお肉やら野菜やらを店員が切り分けて皿に盛り付けてくれた。シュラスコだ。冷たいビールで胃に流し込む。ココナツ風味の煮込み料理も出てきた。なんて美味しいんだろう。
「美味いだろう。ここは地元の人が通うブラジル家庭料理の店なんだ」

彼が店員と何やら談笑していると、お客さんが声をかけてきた。私にはよくわからないけど、日本からの旅行者ということで歓迎されているらしかった。
話がだんだん盛り上がってきて、おじさんたちは私たちのテーブルに移ってきてビールを注いでくれる。自分たちが飲んでいたカシャッサと呼ばれる強いお酒も持ってきて注いでくれる。勝手に料理を注文する。歌まで歌い出しての大宴会になった。
おじさんは私の手を取って踊ろうと言う。ダメです。私は踊れない。
一人のおじさんがお財布から写真を二枚取り出して何やら彼と話している。お子さんの写真かな。
宴会は小一時間続いてお開きになったけど、結局勘定は全部おじさんたちが持ってくれたのでした。

ホテルに向かうタクシーの中で彼に言った。
「文化の違い?日本じゃ考えられない」
「そうだね。ラテン気質って言うのかな。酒を飲んで、歌ったり踊ったりするのが大好きなんだ。ああいう時には踊ってあげなきゃ」
「わかった。練習しとく。最初見たときは怖そうな感じだったけど、なんていい人達なんだろう」
「さっき、写真を見せてくれたおじさんがいただろう。俺たちがストリートチルドレンの支援に来たのだと話したら、あの人には子供ができなかったので、そういう子供の里親になったんだそうだ。今、息子さんはパイロットになって、世界中に連れて行ってくれる。娘さんは結婚してクリチバという街で暮らしている。二人とも親孝行の子供に育ってくれたって言っていた。市井の庶民にはいい人がいるよね。世界中に」
「あなたと一緒に世界を回りたいな」
「いいね。世界を回ろう。病気を治して」

私は彼の腕を抱いて彼の肩に頭をもたせかけた。
「ねえ、あなたの夢はこの世界を覆っている闇を照らすことだったんでしょ?」
「ああ」
「私ね、思うんだけど、一度に世界の闇は照らせなくても、ひとりの闇を照らすことはできるんじゃないかなって」
「ひとりの闇?」
「苦しんでいる人、抑圧されている人、疎外されている人、そのひとりに光を送ることはできる。ものすごい地道なことだけど、でもそれを『いい人』たちが連帯して拡げて行けたら、やがて世界の闇を照らすことができるんじゃないかなって」
私が抱いている彼の腕がそっと私の太腿に乗せられた。


エターナルライフ第22話 バタフライ効果 康輔


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