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或る「早良の醤油蔵」伝 ヤマタカ醬油(2) -古記録に、ヤマタカ醤油の足跡を辿る-

ヤマタカ醤油(髙田食品工業株式会社)社屋(新母屋) 左が事務所棟

(文中敬称略)

1.名声四方に轟きながら、村を離れた醸造業者。

『早良郡志 全』につらつらと目を通していたら、内野村の醸造業の項に、とても気になるエピソードが遺されていた。

早良郡各町村の位置(『早良郡志 全』1923年(大正12年)17Pの部分)

 本村の酢は、世の誇とするものであった。大字内野津和崎重三郎が、米のさび糟を原料に混じて醸造せしに、其の香味普通の酢よりは、遙に勝れるものがあつて、慶應年間では、岩井酢と稱して、名聲四方に擴り、福岡市及肥前の各地に搬出して居たが、惜しいかな、大正十年斯業を福岡市に移して以來、村の產として計ふること能わはざるに至つた。

『早良郡志 全』319P 太字は筆者

早良郡の奥の奥、内野村に「岩井酢」という津和崎重三郎の創成になる酢があった。その旨さから名声が周囲に広まり、慶応年間にすでに福岡から佐賀まで出荷されていたという。

「岩井酢」はしかし、1921年(大正10)に経営者が蔵を内野村から福岡市内に移設したことで、村の名産ではなくなってしまう。炭坑開発も相まって、市域拡大や人口増加が続く福岡市とその周縁部の消費購買力に魅せられて、村を去ったのだろうか。なんとも筆者の苦渋が滲み出た一文だ。

福岡市の人口と市域の拡大推移(福岡市統計書(令和3年(2021年)版)より再構成)

内野村といえば、佐賀県三瀬村を抜けて佐賀中心部へと下っていく三瀬峠に近く、峠越えには便利な場所。今はループ橋とトンネルのおかげで快適なドライブコースとなったが、当時は「岩井酢」の樽を馬車に載せて曲がりくねった難所の道をやっとの思いで越えていたのだろう。

隣同士となる入部村・内野村からの近世・近代のLogistics routeとして、

  • 至糸島→日向(ひなた)峠

  • 至糸島→糸島峠

  • 至佐賀大和→三瀬峠

  • 至佐賀神崎→板屋峠

  • 至那珂川→小笠木峠

という、大きく5つの峠越えルートは気になるところだ。

盛名を馳せた「岩井酢」は村を出て街へと去ったが、その後どうなったのか詳らかではない。ヤマタカ醤油は、創業の地・東入部を離れることなく、以来120年以上に渡って当地で暖簾を守っている。

2.ヤマタカ醤油に関する古記録を、さらに探る

ところで気になるのは、①『早良郡志 全』の記述ではヤマタカ醤油の創業年が1900年(明治33)となっていることだ(後述)。1896年(明治29)とされている公式発表、また私が他のサイトで目にした1897年(明治30)と覚しい年紀ともズレがあるのだ。

福岡県醬油工業協同組合公式サイト「組合員店舗紹介」より作成
年紀は各社の公式サイトなどから記載

『早良郡志 全』では、ヤマタカ醤油について下記のような紹介がなされている。

醬油 醬油醸造業者が村内熊本に一戸ありて明治年代の創業である最近大正十年の造石高百五十一石にして価額四千圓餘である左に醸造に関する一覧表を掲げやう。

『早良郡志 全』211P
『早良郡志 全』の表を横書きにし、西暦を筆者が追加。『早良郡志 全』211P

説明に加えて、1917年から1921年の5年間の石高の推移表が記載されているが、冒頭に創業年として1900年(明治33)と書かれている。

さて、どれが正しい創業年なのか。これも確認事項である。

◇   ◇   ◇

逆に蔵や代表の名前が記されていないが、さらに古い資料があった。

今から114年前の1908年(明治41)に出版された②『大日本醸造家名鑑』という本で、大手の清酒蔵・醤油蔵の紹介と、麹、醸造用機器、添加物など販売業者の協賛広告が巻末に入ったよくあるタイプ。

その中に各県の醸造家一覧があった。福岡県の醬油の項を覗くと、ジョーキュウ醬油さんの三代目松村久吉の名前が見える。しかし「早良郡ノ部」には「鳥飼村 奥村卯平」「田隈村 柴田徳三郎」の2名が載っているが、ヤマタカ醤油と覚しい髙田姓の記載がない。

『大日本醸造家名鑑』(醸造時報社 1908年(明治41))
国立国会図書館デジタルコレクション

本稿(1)で掲げた『福岡県地理全誌』と『早良郡志 全』の蔵元比較で、1923年の『早良郡志 全』に記載があった「田隈村・柴田徳三郎」の名前はある。「鳥飼村・奥村卯平」については、1919年(大正8)に同村が福岡市に編入されたため『早良郡志 全』の記載から外れて比較リストにはない。

しかし、ヤマタカ醤油が創業してすでに10年近く経っている1908年の時点で記載がないのはどうしたことだろう。

ネットどころか、やっと電話が普及しだしたという長閑な情報伝達の時代、柴田徳三郎は1891年創業なので醸造時報社の把握が間に合ったが、ヤマタカ醤油は数年の差で記載から漏れたのだろうか。

そういえば、1875年創業の松十醬油・松島氏の名前も欠けている。単純に、協賛広告費を出したか出さないか、の差だったのかも知れないが。

◇   ◇   ◇

さらに、1999年(平成11)に吉川弘文館から出版された『東と西の醬油史』(林玲子・天野雅敏編)に、井奥成彦教授の「九 近代における地方醬油醸造業の展開と市場」という論考が収録されていた。

その中で、1925年(大正14)に東京酒醤油新聞社が編集した③『大日本酒醤油業名家大鑑』を元に早良郡の醤油蔵数について言及されていたので、原典を覗いてみた。

『大日本酒醤油業名家大鑑』より構成(国立国会図書館デジタルコレクション)

『大鑑』には「髙田市太郎」の名前と石高が載っていた。『早良郡志 全』出版から2年後の状況として、姪濱町に「因幡藤三郎」が加わっている。当時の早良郡内の7蔵のうち、石橋善五郎の石高が不明だが、ヤマタカ醤油は2番または3番目に高いことが解る。

◇   ◇   ◇

さらに、それから時代は昭和に入って、ヤマタカ醤油の名前が出てくる古い資料が地元に存在していた。

それは④『郷土読本』というガリ版刷り様の冊子で、早良郡入部村の入部小学校(創立1908年(明治41)、当時は入部尋常高等小学校か)の制作による。1932年(昭和7)頃に編集されたものではないかと思う。

『郷土読本』の醬油についての記述 早良郡入部小学校制作(昭和初期)

横道に逸れるが、『郷土読本』なるものを調べてみたら、この冊子(図書館にあったのは複刻された書籍版)は、昭和初期に教育界で盛り上がった”郷土教育運動における郷土読本編纂ブーム”の産物だったらしい。

つまり、郷土教育運動は「郷土科」などを特設して展開されたり、既存の教科を郷土化・地方化していく方向性で展開されたりしていたのである。その展開の中で、熱心に行われた営みが「郷土読本」の編纂である。

『昭和初期郷土教育運動における郷土国語読本の編纂』池田匡史
「国語教育研究」第六十一号(2020年3月)

上記論文の内容から察するに、入部小学校版『郷土読本』は言葉使いからみて高学年向けのようである。そんな教育運動があったなんて、ちぃーとも知らなかった。

読本の文中(上記画像)に、入部村の醸造業についての記述が遺されていた。興味深いので全文引用してみよう。

(一)醸造業
(1)清酒
本村に於ける清酒の醸造業は一戸にして、其の起業は實に寶暦十年の往時である。爾来今日迄継続して、其の品質改善に努力せる結果は、優良なる銘酒「主基の榮」「松鷹」となって現れてゐる。
昭和六年の造石高は七百三十七石にして、価格五萬一千五百九十余円に及んでいる。

(2)醬油
醬油醸造業は熊本に一戸あって、明治年代の創業である。商標は(ヤマタカ)を用ひ、昭和六年の造石高四百三十五石にして価格六千余円である。

『郷土読本』99P 一部当用漢字に置き換え

ヤマタカ醤油の石高について、『早良郡志 全』では1921年で151石・4000千円余とあったが、この『郷土読本』では1931年で435石・6000千余円とあって注目される。10年の間に石高が2.8倍、売上も1.5倍に増加している。蔵は着実に大きくなっていた。

『早良郡志 全』より。早良郡の石炭採掘量・醬油工産額、ヤマタカ醤油の石高の推移。

ちなみに、ヤマタカ醤油の石高の推移について、『早良郡志 全』を元に1917年から5年間にわたる「早良郡の石炭採掘量・醬油工産額、ヤマタカ醤油の石高の推移」を一覧表にしてみた。対1917年比でみたヤマタカ醤油の石高の伸びは、郡の醬油工産額における200%越えほどの驚異的伸張はないものの、拡大基調にあることが解る。

さらに1925年の『大日本酒醤油業名家大鑑』には400石という記載があるので、1921年から僅か4年の間に急成長したことになる。

はてさて、自家醸造が多い農村地帯にあって、ヤマタカ醤油は着実に石高を拡大しているが、どこで誰に拡販していたのか、という疑問が湧く。郡北部での炭坑開発で人口が増加したために醬油の引き合いが増えたことの結果なのだろうか。それとも、伊万里市の店で店頭化されていたように、広域への販売拡大によるものなのか。

◇   ◇   ◇

もうひとつ昭和初期の記録として存在するのが、1937年(昭和12年)に”農村經濟更生會”という組織から発刊された⑤『有資名鑑』なる、人名録みたいな一冊だ。

序に曰く、

本書は早良郡各村に於ける昭和一二年度現在賃貸価格三百圓以上の有資者を綿密なる調査に依り纏め編纂したるもので、資産比較対象並びに信用程度を連坐に知る最も簡便なる名鑑なり。

 『有資名鑑 : 福岡県早良郡』国会図書館デジタルコレクション 太字は筆者

とあるので、つまりは早良郡の資産家名簿のよう。いったいこの本は何に使われたのだろう。

版元の”農村經濟更生會”の所在地は、奥付に福岡市高畑新町34番地(現在の中央区高砂)とあって地元の組織である。

これまた調べてみると、昭和恐慌で疲弊した農山漁村を支援するための国策から生まれた「農山漁村経済更生運動」と関係があるようで、『郷土読本』と同様に根が深い話なので、キリが無い。ひとまず置く。

『有資名鑑』入部村の冒頭部分。賃貸価格トップにあるのは清酒『松鷹』の樋口彌八郎。

入部村の資産家トップは、樋口彌八郎(『松鷹』酒造元)で5941円。先の『郷土読本』にある「昭和六年の造石高は七百三十七石にして、価格五萬一千五百九十余円」という記述でもその分限者ぶりが伺えるところだ。

続いてのページ、左から6人目に「東入部 高田太郎」の名前が見える。
『有資名鑑 : 福岡県早良郡』国会図書館デジタルコレクション

次の見開きに「東入部 高田太郎」(注:高は髙の誤記)の名前があった。資産額は622円で26位。”髙田太郎”は次の資料にも、その名が出てくる。

◇   ◇   ◇

ご当地醬油業界の資料として、⑥『福岡醬油組合七十年史』(1989年(昭和54))がある。その中に、福岡県醬油工業協同組合が1947年(昭和22)に創立された際の組合員の一覧が記載され、早良郡の項には「高田太郎」(注:高は髙の誤記)、「正崎雄一郎」という名前が見られる。

”髙田太郎”は先の『有資名鑑』の人物と同一人とみて間違いないだろう。合わせて、同じ郡内の同業者・正崎雄一郎とはどんな人物だったのか、も気になるところだ。

加えて、1975年(昭和50年)時点の組合名簿では、”髙田太郎”の個人名が髙田食品工業株式会社へと代わっている。1947年当時はまだ個人商店のようである。いつ法人化されたのだろうか

福岡県が1962年(昭和37年)に出版した⑦『福岡県製造業者名簿』には、「田食品工業(株) 早良郡早良町東入部1462 資本金50万円」(注:高は髙の誤記)との記載があるので、少なくとも1962年以前であることは間違いない。

3.ひとまずの調べはついた! IZA!ヤマタカ!

というわけで、各種の記録を当たってみた。その結果をまとめてみると、

1)江戸から明治にかけて、入部村に醬油醸造業者は存在せず。
2)1896年から1900年の間に、東入部にて創業。
3)1923年、①『早良郡志 全』に蔵の紹介と「髙田市太郎」名が記載。
4)1925年、③『大日本酒醤油業名家大鑑』に「髙田市太郎」名が記載。
5)1933年頃、入部小学校の④『郷土読本』に蔵の紹介が記載。
6)1937年、⑤『有資名鑑』入部村の項に「東入部 髙田太郎」記載。
7)1947年、⑥『福岡醬油組合七十年史』、福岡県醬油工業協同組合創立時の名簿に「髙田太郎」が代表者として記載。
8)1962年、⑦『福岡県製造業者名簿』に髙田食品工業株式会社で記載。

といったことが確認できた。

先に紹介したサイト『福岡県民新聞』の記述には「五代目髙田市郎氏」とあるので、代表者の系譜としては、下記が想定されようか。

初代髙田*** →二代目髙田市太郎 →三代目髙田太郎 →四代目髙田*** →五代目髙田市郎

というわけで、実際に東入部にお邪魔してお話を伺うことにする。前回の訪問と同様に、原料麦に詳しいカネさんと、そのご後輩で大豆に詳しいK君と3人、蔵に馳せ参じるのだっ。

さあ、IZA!ヤマタカ!

(3に続く)



■備考1:『大日本醸造家名鑑』に登場する「鳥飼村・奥村卯平」については、『福岡県酒造組合沿革史』(1957年刊)に収録されている1895年(明治28)の組合員名簿に「早良郡鳥飼村大字谷 奥村卯乎」と似た名前が見られる。乎は平の誤記か。誤記なら酒と醬油の兼業蔵だったのかも知れない。

■備考2:『早良郡志 全』『郷土読本』『有資名鑑』に出てくる清酒『松鷹』蔵元・樋口彌八郎の樋口家については、
1)『福岡県酒造組合沿革史』上記と同じ組合員名簿に「早良郡入部村大字東入部 樋口弥十郎」
2)同書の1956年(昭和31)時点の福岡支部組合員名簿に「清酒 松鷹 早良郡東入部三二一 飛松産業合資会社 代表者 樋口弥之助(昭和二十八年度復活)」
3)『福岡県製造業者名簿』(1962年)に「飛松産業(資) 早良郡早良町東入部321 資本金300万」
と記録に残っている。


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