或る「早良の醤油蔵」伝 ヤマタカ醬油(1) -筑前DeepSouthに、一軒の醬油蔵在り-
(文中敬称略)
1.福岡市早良区の深南部に、一軒の醬油蔵在りて・・・
我が郷土の大先達・貝原益軒先生は、現在では福岡市の一部「早良区(さわらく)」となったかつての「早良郡」について、その著『筑前國續風土記』にこう記している。
早良郡は、福岡城下に近く、北は海に面し、三方を山に囲まれて、平らに開けた土地に村々が多くあり、水田がたくさん広がっていると。それは冒頭に掲げた1956年の空撮でも実感できる。
元禄時代に益軒先生がフィールドワークして目の当たりにした多くの風景は、300年後の今日、あまりに様変わりしてしまった。しかしながら、入部(いるべ)や金武(かなたけ)から南には今なお田園地帯が残り、のどかな風景を眺めることができる。
また入部から一歩奥に入った脇山地区は、1928年(昭和3)、昭和天皇の即位の礼で大嘗祭に献上される新米を作る「主基齋田」に選ばれた由緒ある場所だが、今日もブランド米「脇山米」の栽培が続いている。
そんな筑前DeepSouthとも言うべき早良郡の南にあった入部村の中心地・熊本で、明治時代後半に醬油醸造業をスタートさせたある蔵に迫ってみることにした。
その蔵とは、近世では東西の村に分かれていたが、近代に入って一村となった入部村の東側、東入部に蔵を構える『ヤマタカ醤油』(正式社名:髙田食品工業株式会社)である。
◇ ◇ ◇
なぜ今回、「ヤマタカ醤油」なのか。
福岡の地醤油を追い掛けたいと思ったキッカケが、まず20年前に正調粕取焼酎の店頭分布状況を調べるために伊万里市に赴いた際、飛び込んだ市内の酒販店でヤマタカ醤油の一升瓶と遭遇したこと。
どうして早良区深南部の地醤油が、それも地理的に佐賀県に近い糸島の3蔵を飛び越えて伊万里市の酒販店に置いてあったのか、という驚き。
いまでこそヤマタカ醤油のアイテムは、大手スーパーイオン系各店舗をはじめ地場チェーンなど福岡市と周辺の多くの店で定番化されているが、当時はまだまだ店頭化が進んでいなかったのだ。
伊万里にまで伝播していた理由は、これまでのカノウ醬油さんやジョーキュウ醬油さんへのヒアリングでおぼろげに見えているところだが、やはり直にお話を伺って詳細を確認したいという積年の想い。
さらに動機としては、同社の定番品、いや福岡市の超定番のひとつと申し上げて過言ではない『木星』を、もともと家内の実家が使っていて、うちの所帯でも20年以上常備品になっている、という卑近な理由もあったりする。
ということで、蔵にお邪魔させていただくのだが、その前に下調べを可能な限りみっちりとやらねば成らぬのだ。
2.旧早良郡にあった醤油蔵のGeopolitikを掘り起こす。
さて。かつての旧早良郡にはどんな醤油蔵があったのか。
資料として、今から150年前の1872年(明治5)に陸軍の命により編纂が始まった『福岡県地理全誌』、その半世紀後の1923年(大正12)に福岡県早良郡役所により出版され1973年(昭和48)に増補再刊された『早良郡志 全』、それぞれに記載された醤油蔵を比較してみた。
明治時代初期の醤油蔵としては、西 村の西島甚八、金武村の鍋山伊八郎、次郎丸村の石橋作次、姪濱村の石橋伊八郎らが存在していた。漁港として賑わった姪濱村の石橋伊八郎は石高も105石と最も多く売上が500円を超えている。
しかしそれらの醸造家は、51年経った1923年には、石橋伊八郎と関係がありそうな石橋善五郎(創業年が1842年とあるので石橋伊八郎の末裔だろう)を除いて姿を消してしまった。
入れ替わりに、今回の主人公であるヤマタカ醤油の「髙田市太郎」が入部村に登場。西新町には現在も営業している「松十醬油」の松島晨平の名前が見える。さらに壱岐村は王丸千太郎、田隈村は柴田徳三郎に庄崎兵部、姪濱村では先の石橋善五郎、津田徳三郎の存在が記録されている。
また『早良郡志 全』の「人口分布圖」にある各町村の人口と蔵の立地を比較すると、蔵は人口が多い北部の町村や福岡市域に近い村に集まっていることが判る。
3.石炭景気で賑わった、大正期の早良郡北部と「醬油」
2軒の蔵がある姪濱町は人口が5万人を超えているが、これは姪浜炭坑で住民が急増した影響だった。炭坑や漁港の需要を賄うために醤油屋も2軒に増えたのだろう。
また田隈村の2軒についても、「大正期『早良炭田』における炭鉱業 -福岡炭坑の事例-」(永江眞夫)という論文に詳述されている、早良郡内で活発化した西新や樋井川周辺での炭坑開発に関係しているのではなかろうか。
『早良郡志 全』の「第八節 鑛業」には、石炭採掘で賑わった早良郡の当時の状況が活写されていた。
1894年(明治27)から1920年(大正9)の間に石炭採掘が許可された、計12件の鉱区があった早良郡内の町村は、西新町、姪濱町、樋井川村、原村、壱岐村となっている。
さらに試掘では、先の町村に殘島村、金武村、田隈村、入部村なども加えて、1920年(大正9)から1921年(大正10)の1年2ヶ月の間だけで計21件も行われている。
早良郡北部が石炭景気で一気に加熱した様が見えてくるようだ。
醬油と炭坑ブームの連関をみるために、『早良郡志 全』に記載された1917年(大正6)から1921年(大正10)までの5年間の石炭採掘量と石炭価額の推移に、醬油と酒の工産額を組み込んでみた。
早良郡全体の醬油生産額は、1917年に38,826円だったものが、4年後の1921年には106,704円と2.7倍に急増している。つまり採炭量の拡大を支える坑夫と家族の人口増加に合わせて、醬油と酒の産出額が連動して増えたと見ていいのではないか。
ただ炭坑ブームも、特に西新周辺の鉱区が出水で行き詰まって1921年(大正10)以降から急速に終息したことは、『早良郡志 全』および論文「大正期『早良炭田』における炭鉱業 ー福岡炭坑の事例ー」に詳しい。その後の醬油工産額の推移がどうなったかは不明である。
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それにしても、南北広域に渡る早良郡で、なぜかくも醤油蔵の数が少ないのか。農家だった家内の実家でも1950年代末頃まで醬油を自家醸造していた。答えはやはり周辺の農村における自家醸造の多さだと思われるが、それもまた確認せねばならない。
さらにヤマタカ醤油に関わる古い記録を探ってみる。
(2)につづく。