見出し画像

宮崎蔵元アーカイブズ 2002〜07(8) 柳田酒造

2007年7月 サイト『九州焼酎探検隊』で公開
2007.07.02 BY 猛牛
柳田 正代表(2007年)

■久々の蔵突入!・・・目指すは宮崎県都城市。

鬱陶しい梅雨空を突いて、筑前を進発した高速乗合バス。目指すは宮崎県都城市

曇天の下、熊本北部を通り過ぎたバスは、八代から人吉へ。球磨川に沿って山々をぶち抜く合計23のトンネルを頻繁にin & outする内に、フロントガラスに豪快な雨が激突しはじめた。山の天気は変わりやすい。「おぃおぃ、豪雨かいな」と落胆の空が、最後のトンネルを抜け人吉市に差し掛かると一転、スキッとした晴れ間となった。

(やっぱ、繊月酒造御息女・堤純子さんの思し召しか(-人-))

さて、目的地=都城といえば、皆様イの一番に思い浮かぶのは「黒キリ」で全国制覇を成し遂げつつある霧島酒造であらふか。しかし、ご当地にはまだ三つの蔵ががんばっている。その内の一つが今回の突入先、柳田酒造さんである。地元のガリバー霧島酒造が芋ならばと、柳田酒造では麦に完全シフトして蔵の個性を打ち出している。

昨年夏、柳田酒造の若き五代目・柳田正氏とひょんなことから電話でお話する機会を得たというご縁もあり、ちょいと都城へ発進してみた。久しぶりの蔵見学行ぬぅあのだ。

都城市内に入ると空もカラッと晴れて、真っ白い雲はすでに夏のカタチをしている。今回は探検隊最初期のメンバー・にしやんさんとの道行き。気分爽快で、さあ突入。

蔵事務所の前の柳田正氏とgoida氏

■木の香も芳しい新応接室で、柳田正氏に御対面。

蔵の所在地は、都城駅からやや南、大きな通りから路地にはいって、クネクネと入り込む。正味、けっこう分かりづらい。何度か柳田氏に携帯で確認させていただきながら到着した。

閑静な住宅街、四辻の角に蔵はあった。重厚な和風家屋、造りそのものは真新しい。玄関前に柳田正氏が待っていた。おおおっっと、その右に立っているのは? 今や宮崎県人として第二の故郷・日向の隆盛にこれ務めるgoida隊員である。2年振りの再会か。

玄関から中にお邪魔すると、木の香りがこれまたぬぅあんとも“常圧”ちゅー感じの芳しさである。(以下一部敬称略)

柳田「前は奧の事務所で接客していたんですが、最近ここを増築しましてお客様をお迎えすることにしたんですよ」

ソファーに座ると、室内森林浴ちゅーか、気分がええですなあ。おもてなし効果、充分です。

まあ、それにしても、石原けんじ大佐先生ら日向勢から前評判は伺ってはいたが、柳田さん、男前である。面構え、ことに眼差しがイイ。目が活きてる。襟首に巻いたタオルがぴったりと決まっている。寝ぼけマナコのわてなんぞとはエライ違いだ。

ちゅーわけで。同行のにしやん隊員もわてと劣らずの飲兵衛、さっそ試飲させていただく。しんぼタマランです。

柳田氏がお持ちいただいたのは4銘柄。レギュラーブランドの減圧『駒』、干支を名前に冠して1年ごとに味わいの違いを楽しむビンテージ焼酎『亥』(来年は『子』となる)、減圧と常圧の中間という位置付けにある『赤鹿毛』、そして常圧の『青鹿毛』だ。麹も掛けも麦の、麦100%の造り。減圧の『駒』から順番にいただいてみる。

にしやん『改めて、こうやって飲んでみると、面白いですねえ。麦もこんなに変化が出るんだあ』

いや、そーなんである。こうやって系統的に飲んでみると、麦焼酎の面白さがよく分かる。そして、どの銘柄でもアルコールのざらつきを舌に感じることがほとんど無い。「ていねいに造り込まれているなあ」というのが、わての第一印象だ。好みでいくと、個性の際どい方が好きなわては『赤鹿毛』『青鹿毛』に一票。

柳田「『赤鹿毛』は蒸留過程で偶然生まれたんですけど、『青鹿毛』は萬年の渡邊君や石原けんじさん、goidaさんと飲んでる時に、ぜひ常圧にチャレンジしてみたら?と勧められて挑戦したんですよ」

う~~~ん、石原けんじ大佐先生、またまたここでも暗躍していたとはw。

柳田「『駒』はレギュラーですので、味が変わるとお客様からご注文がつきます。だからブレンドして一定の味わいを保っています。以前、試飲会でお客様から『味が違う』って言われたことがあって、その時に『私たちも一生懸命、毎年毎年チャレンジして造ってますから、年毎に味わいの差は出るんですよ』とお答えしました」
にしやん『いい言葉だなあ、それ』

■手応えあった、イベント『第6回本格焼酎・泡盛横浜大選集』。

蔵にお邪魔した時期は、柳田氏がちょうど横浜で開催された一大イベント『第6回本格焼酎・泡盛横浜大選集』参加から戻られた後であった。横浜での手応えを聞く。

猛牛「今年は1000人を超えた大盛況やったと聞きましたが、いかがやったですか?」
柳田「本当に凄い熱気でしたね。会場に入りきれないと言ってもいいくらいで。僕のブースにも多くの方が来ていただいて、とても手応えを感じました」
猛牛「わてがお邪魔した03年は500人くらいやったですか。今では1000人超えるとは凄い! 来場者として参加した関東メンバーも、凄かったと言ってましたですばい」

柳田「特定の有名銘柄ばかり狙って飲むという方は少なくて、皆さん、本当に好きで色々と味わいの違いを確かめている、みたいな印象です。ブームそのものは落ちついたと思いますが、ブームを超えて・・・」
猛牛「定着したと?」
柳田「そう。定着したという感じを受けました。僕のところのような今からの蔵にとっては励みになります」

猛牛「壱岐の原田さん(当時は壱岐焼酎協業組合、現在は壱岐ISLAND BREWERY代表・原田知征氏)から、二次会の船上パーティの席より電話もらいましたが、蔵元の皆さんも大変喜んでらっしゃる感じやったですね。いでさん(主催者・横浜焼酎委員会理事)の言葉も一大イベントを終えて上気した感じで満足感が伝わってきたです」
柳田「大選集は、初めてお会いする蔵元さんも多くて、知り合いになることがまた楽しくて大いに勉強にもなります。参加できてほんと良かったと思いますよ」
猛牛「今回は宮崎からの参加蔵元さんは多かったとですか?」
柳田「とても増えました。泡盛と同じくらいです。萬年さん、小玉さん、古澤さん・・・。宮崎の焼酎に多くの方が関心を持っていただいてるのはありがたいことですよ」

かつてブームの初期、中央の焼酎ファンの中には宮崎県がどこにあるのかさえ知らないという状況があった。しかし、東国原知事に加えて、宮崎県とその焼酎の存在を広く印象づけた“そのまんまテゲテゲ”と称すべきもう一人の人物に御登場いただく。

柳田石原けんじさんが、全国いろんなところに出向いて、宮崎焼酎を広く紹介してくれたんですよ。多くの人が宮崎焼酎を知っていただくきっかけを作ってくれた。とても感謝しています」

その話を聞きながら・・・もう6年近い前、石原けんじ大佐先生が20本近い瓶を両手に抱え、遠路筑前まで探検隊合評会に馳せ参じてきた、あの“ふくよかだった巨体”の頃を思い出していた。

時代は変わった、いや違う、時代を変えたのだ、たとえ一人の小さな力ではあっても。(ぬぁあんて、誉めすぎかもねw)

■いざ、蔵の内部を探索する。

玄関を出て左に曲がる。前面道路に沿って、仕込み蔵や倉庫が鰻床みたいにひとつの建物を形作っている。

ところで、柳田酒造の創業は1902年(明治35年)、初代柳田藤三郎が都城で最初の焼酎蔵を開いてから今年で105年を迎える。ただし柳田氏の話では、酒造免許を取得して企業としての創業であって、それ以前は薩摩藩領だった当地の献上酒を古くから造っていたらしいという。

1902年といえば日露戦争前、戦費調達のために自家醸造を禁止し免許制となったが故に、この時期を創業とする蔵は多い。2002年に石原けんじ大佐先生、goida隊員とともに徘徊した筑前・筑後の蔵元さんの多くもそうであった。

蔵の中に入る。梅雨の時期、しかも盆地である都城は暑く蒸すところである。一般的にはひんやりする蔵内だが、今日は先ほどまでの雨もあってか、少々じっとりとした空気が漂ふ。

入口のそばには所狭しとP箱が積み上げられていた。

柳田「これは『駒』なんですけど、キャップとラベルの色が違うでしょう?こっち(右)が20度、こっち(左)が25度なんです。地元は20度じゃないとダメなんですよ。間違えて25度を出したりすると『辛い!』って言われます」

■学術系の柳田家、ならではの蔵づくり・焼酎づくり

次いで、原料を蒸す回転ドラムの所にご案内いただく。下記写真でいくと上部がドラム、下部の2つ窓が開いているように見えるのが製麹棚である。この作業場は、機器の配置についても極めて計算され実践された上で最適な動線が確保されているという。

柳田「仕込みを行うのが、父と叔父の二人だけだったので、二人でどれだけ密に作業できるかを徹底的に検証して、配置と動線が決められているんですよ」

上部が回転ドラム、下部が製麹棚

柳田氏が後方を指さして曰く、「うちには回転ドラムが2つあるんです」。

そりゃまた不思議な、と申し上げると、その理由をじっくりと解説していただいた。

しばし、柳田氏の解説に耳を傾けてみよう。

柳田「製麹棚の上のドラムは、麦麹づくり専用です。このドラムで蒸す蒸気は軟らかく当たるようになっています。なぜかというと、麹に使う蒸した麦の粒があったとして、外側は堅く内側は軟らかく蒸したいわけです。厚い肉を焼いたりしたときに火が強いと外だけ焦げて中が生焼けになっていることってありますよね。その逆です。麦の内部が軟らかいということは、それだけ水分が吸収されているということで、麹菌も成長するために水分を求めて、麦の内部に入ろう入ろうとするんですね。それだけ麹がハゼやすくなる、ということです。つまり内側に水分が行き渡るように蒸すために蒸気を軟らかく当てるため専用のドラム、なんです」

手で麦の形を作って、蒸し方の説明をする柳田氏

猛牛「んで、もうひとつのドラムは?」

もう一基備え付けられたドラム

柳田「もうひとつは、二次仕込み用の掛け麦のためのドラムです。このドラムでは強い蒸気が直接麦に当たる向きに内部のパイプに穴を開けています。麹用とは逆に、麦の粒の外側を軟らかく、内側を固く蒸します。その理由は、二次仕込みの時間を長く取るためなんですよ。普通麦の仕込みだと10日間くらい発酵させますが、うちでは16日とじっくりと仕込みます。粒の内部に固さを残すことで、すぐには分解できないようにして、発酵の時間を長くとるようにしているんです。長く取ることで旨味がさらに増すんですね」

ん~~~ん、実に細かいんである。説明も簡にして要。柳田氏がもともとエンジニアとして他業種で活躍されていたという経歴を思い起こすに充分なムードであった。

そうそう、柳田家はイオン交換濾過を日本で最初に取り組んだほどに、醸造学術系の名家と言って過言ではないほど学究者を輩出している。わてや石原けんじ大佐先生とはえれえ~違いだということは改めて申し上げるまでもない、と改めて書いておこう。

■その味がなかなか再現できない・・・『赤鹿毛』誕生秘話

柳田正氏のデビュー作であり、また柳田酒造を広く巷間に知らしめることとなった『赤鹿毛』だが、その誕生にもエンジニアとしての柳田氏のパーソナリティが大きな要因として作用していた。

本稿冒頭にも『赤鹿毛』の誕生は蒸留過程における偶然から生まれた、と書いた。

が、それはあくまでもきっかけが偶然であったということで、その偶然を「必然」とするための、柳田氏のエンジニアとして探求心が大いに発揮されて『赤鹿毛』誕生を見ることとなる。

柳田「父やおじから、たとえばこの蒸留器のメーターの目盛は「72に合わせておけ」って言われたりするわけです。でも、なぜ72なのか? なぜそうじゃないといけないのか? という理由を考えるんですよね。はい、エンジニアだったもんですから、その訳をはっきりさせたいんです」
猛牛「なるほど(微笑)」

柳田「それで父たちに隠れて、いろいろと蒸留器をいじっていたんですけど。このレバー(下画像A)は、まっすぐ立てると常圧状態で、右に傾けると圧力が減ってきます。それで蒸留中に少しづつ右下に倒していたんです。その都度、タレてくるのを味見しながら・・・。そしたら、『これだ!、この味だ!!』ってのがタレてきたんですね! それが『赤鹿毛』だったんです。ところが再現しようとしたら、何度やってもその味が出てこない。レバーを同じ位置にしているのにどうしてなんだって。くやしい」
猛牛「うむ。微妙なんですばいねえ」

柳田「どうしようか・・・と思っていたら、さらに微調整するためにバルブを付けたらどうかと思ったんです。それでこれ(上写真のB)をくっつけたんです。これはもともと付いていなかったものです。その辺のホームセンターに行ったら売ってますよ(笑)。まあ、値段はそれなりの物ではありますけど。これをくるくる回していて、やっと継続的に再現できたんです、あの味が! うれしかったですね」

いかにも焼酎のエンジニア・柳田氏らしいエピソードではないか。

■甘露! 霧島裂罅水の仕込み水を飲む。

蔵を抜けると、裏庭に出る。陽射しが眩しい。奧に若干の緑とタンクがあった。仕込み水を組み上げるポンプが設置されている。右には湧き水が・・・。

柳田「うちは霧島裂罅水(きりしまれっかすい)を使っています。霧島盆地というのは、底がすり鉢みたいな岩盤で覆われているんですけど、その岩盤の下から地下水が湧き出るんです。それが裂罅水なんです」

ちょいと柄杓で一杯いただく。先ほどの試飲のチェイサーだ。少し粘度を感じるちゅーか、円かな感触を舌に受ける。柳田酒造銘柄に通底する滑らかな味わい、その基調にある一要素がこの裂罅水なのだらふか。

ふと目を離した間隙を縫って、goida隊員が湧水を撮影していた。さすがは従軍カメラマン、記録保存は抜かり無し、である。

2003年初めまで筑前在住、わてと一緒に酒屋を荒らし回っていたgoida隊員も、今では都城の住人となった。地味豊かな風土、良き蔵元さんたちに旨い酒、極上の畜産物や山の幸、そして美人の奥様とお子さん、と恵まれ尽くしの生活を送っている・・・であらふと推察している。実に実に羨ましいぃ~のだ。

そーだ、羨ましいぃ~~と言えば、柳田正氏もそーーである! 美男美女夫婦として著名な柳田氏の奥様をご紹介せずに本稿を〆る訳には参らぬ。

■噂は本当だった! 柳田氏美人奥様、ついにそのベールを脱ぐ!

石原けんじ大佐先生を初め、goida隊員、蔵元では萬年・渡邊幸一朗専務からも、柳田氏の奥様である柳田恵子さんの評判は、文字どおり“名声轟四海”状態であった。

しかし恵子さんの別の側面については以前から承知していた。雑誌『焼酎楽園』に連載されたコラム「みやこんじょの春」--みやこのじょう蔵の四季--の愛読者だったからである。飾りや衒いのないスーーーッとまっすぐな文体で、執筆者のお人柄が偲ばれる名文であった。少し引用してみよう。

(前略)こんなふうに春を満喫していると、九月から始まった仕込みの季節も終わりを迎えます。私の大好きな、麹の手入れをするとき蔵いっぱいにたちこめるハチミツのような甘い香りも、しばらくお預けです。今年も無事に造りを終えることができたことへの感謝と、来年度もおいしい焼酎ができますようにとの願いをこめて、焼酎の神様に頭を垂れる今日この頃です。

(『焼酎楽園』2005年春号)

ぬぅあんという素直で書き手の想いが匂い立つ表現であらふか。たとえば、この恵子さんと対極にある文体の一例として下記を挙げる。ニオイ立つ一文である。

https://note.com/hiro1945/n/na1381d0c3e07

ちゅーわけで前置きが長かった。さて、恵子さんである。

明るく朗らか、という表現のまんま。柳田氏は「だまして蔵に連れ帰った(笑)」と冗談を言われていたが、蔵での内助の功もたいへん評判高いのだ。柳田さん、しあわせ者(爆) 日南の昌子様&朋子様を凌駕する宮崎焼酎美女の筆頭と申し上げて異議無し!ではなからふか。

前評判どおり!美人っすよ! 牛、太鼓判!

◇  ◇  ◇

ちゅーわけで、もう筑前へと帰る時間が迫ってきた。じゃあ、都城で一泊・・・てな訳にもイカズ、ソンナ人ニワタシハナリタヒ。出発である。別れ際に、応接の壁に掛かっていた『千本桜』について聞く。蔵のhpでは同品の初蔵出しは1930年、それから50年後の1981年に麦焼酎専業に転換したと記載されている。

柳田「これですか? 昔うちで造っていた芋焼酎なんですよ。はい? うちにも、もう残っていませんね。どなたかが一本見つけて、コレクションされてるらしいですね。・・・いつか、この『千本桜』を復活できたらと願っています」

柳田氏、goida隊員に別れの挨拶をし、筑前へと帰路を取る。にしやん隊員が言ふ。

にしやん「熱かったなあ。物を造る人というのは、本当に熱いなあ」

久しぶりの蔵見学、わても熱い思いをしかと感じた。青々と気持ちの良い、梅雨の晴れ間が胸に広がったのだった。


(了)


■2022年追記:この訪問時の画像は加工前のものが珍しく残っていたので大きなプレビューでご覧頂けます。やっぱり原稿類はちゃんと保存しておくべきでした。

最後に看板のことで語られた旧銘柄の芋焼酎『千本桜』は、柳田氏の宿願叶って、2013年、35年ぶりに遂に複刻された。今では柳田酒造を代表する人気銘柄のひとつとなっている。私ももちろん飲んでますが、ふくよかで旨いんですよ。

奥様の柳田恵子氏は評判通りの美しさでしたが、なによりも蔵元の女将としての心配り、古い言葉ですが”内助の功”に感心しました。素晴らしい方だと思いましたね。修正前の画像が残ってましたが、プライバシー保護の非公開。

お嬢様には小さな内から見聞を深めてやりたいと各所に同行させていると聞きます。柳田氏らしいなと思いましたね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?