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【東京島酒『嶋自慢』の飲俗學<8>】 あゝ青春...祝成人の芋焼酎 『七福嶋自慢』

2024年2月放送のNHK-BS『新日本風土記』「東京島酒、もう一杯」で取りあげられた新島酒蒸留所の代表銘柄のひとつ。

稀少な「七福薯(あめりか芋)」を復活させて完成した新島ならではの1本で、『地理的表示(GI)』に依る「東京島酒」対象アイテム。主原料「七福薯」の個性である、ふくよかな甘さが持ち味だ。

「都立新島高等学校」では3年生になると体験学習として「七福薯」の栽培に取り組み、生徒たちが収穫した芋を原料に本品が仕込まれる。卒業から2年後、成人式の際、帰島した卒業生たちへ熟成された『七福嶋自慢』が記念品として贈呈される、”あゝ青春”の1本でもある。

【『七福嶋自慢スペック】
●発売年:旧ラベル/2003年〜2019年9月、金ラベル/2019年10月〜
●原料:甘藷(新島産七福薯(あめりか芋))・麦麹(国産)
●度数・容量:レギュラー25度:720ml、1800ml
 限定品 無濾過25度720ml、1800ml 
     無濾過原酒37度720ml、1800ml

新島村観光案内所Facebookより

■そもそも『七福薯(あめりか芋)』とは、一体何者なのか?

「七福薯(あめりか芋)」が旧農商務省に登録されたのは1900(明治33)年で、源氏と紅赤に次いで3番目に古い品種。以後の品種開発においては交配母本として多用された芋でもあった。

”あめりか芋”という名の由来は、まさにアメリカから移入された芋だったからだ。

「かんしょ品種の普及状況 ア 主要品種の特性表」農林水産省

明治の半ば、広島県出身の移民としてオーストラリアやアメリカに渡った久保田勇次郎氏が,アメリカ滞在中に見付けた七福薯を日本に持ち帰ったのがそもそものはじまり。

日本への移入の経緯について、久保田氏の出身地、広島県矢野町にある郷土史研究サークル「発喜会」の理事・山本雅典氏の資料から長文ながら引用させていただく。

(久保田氏が)オーストラリアから帰国して3年目の明治30年3月16日、今度は弟吉松と共にカナダに渡り、バンクーバーを経て、米国サンフランシスコに着いた。ここから少し隔たったドライクリーキガイスベル村のイタリア人ベール氏に雇われ、ブドウ畑の除草等の労働に従事した。このとき同家で栽培していたのが、ベール氏がイタリアから数個持ち込んでいた「シュガーポテト」と呼ぶ甘藷だった。

その藷を試食した勇次郎は、「三徳藷(注:源氏のこと)も到底之に及ばず嗜好上常食にも適し耐久力もあることを知り、これこそ日本に広めても良いと思い金銀を発見したより以上に愉快で...」と語っている。明治32(1899)年の帰国に際して2個を貰い受けた。帰国に当たっては荷物の中に隠して税関の目を逃れて持ち帰り、帰国後も気候の変化のため腐敗することを恐れ一層の注意を払った。 1個も食することなく、矢野村小越地区の久保田家の畑で栽培し、翌年は、種イモを知人の坂橋廣次・上泉国松・天畠勇次郎・ 秦升太郎・本田幾松の各氏に分け、普及への協力を頼んだ。栽培の結果はいずれも在来種をしのぐ立派な藷ができた。

「イタリアの砂糖芋」と云って評判になったが、アメリカから持ち帰ったので「アメリカ藷」という人も多かった。しかし、久保田氏は思いを込めて「七福藷」と名付けた。その理由は、
1どんな風土にも適し、
2作りやすく不作なし、
3貯蔵に耐え、

4まことに美味にて、常食に料理用にも好適で、
5イタリア、6アメリカ、7日本と順次に渡り、どこでも誰にでも好かれる徳が多分に備わっていることから、私が命名したのです」と語っている。

(「命をつないだ『七福藷』と久保田勇次郎」山本雅典 改行と太字は引用者)

新島への七福伝来の時期は未確定だが、上記山本氏の資料には、

大正14(1925)年に当時の農商務省農務局は、愛媛県立農事試験場などの栽培試験の結果から品質・収量などに優れているとして、各県に対して「(七福藷は)相当優良と認めれるを以て更に地方的に優劣を比較するため…試作用として種藷の配布を行う…」と通知(図1・表紙)したことから、一気に七福藷の名が全国に知れ渡ることになった。

という記載があって注目される。

農商務省からの各県への種芋配布については、下記にある愛媛県立農事試験場の資料によれば、1925(大正14)年3月に行われたようだ。全国各府県への配布にあたって、芋の名称を「七福藷」と改称したと書かれている。

『農林省指定ニヨル甘藷馬鈴薯及雑穀ニ関スル試験成績』 愛媛県立農事試験場 編(1925年)

それからすると、各府県に配布された種芋からさらに増やしての新島への移入は、早くて翌1926年3月あたりか。少なくとも昭和初期なのは確実。

新島の農業法人(株)グリーンデメテルさんで栽培された七福薯
白い皮と果肉が特徴(同社Facebook掲載画像より)

七福薯は当時としてはその栽培のしやすさから、国内では主に九州、四国、瀬戸内で広まり、第二次大戦中において耕作面積が2万5千haにまで拡大し普及した芋だった。

ところが、戦後は収量が多い改良品種に駆逐されたため、現在ではたいへん稀少な芋となっている。産地としては、新島の他には愛媛県新居浜市大島などごく一部でしか栽培されていない。

久保田氏も「どんな風土にも適し」と述べている通り、普通の畑作には向かない乾燥した土地でも育つため、まさに離島にはうってつけ。貯蔵性が高いこともあって、保存食としても島の暮らしに適した作物だったのである。

■原点は、島内からの要望で生まれた”地産地消”の焼酎だった。

一旦は島内でもほとんど栽培されなくなった「七福薯」がどのようにして復活したのか、そしてなぜ焼酎『七福嶋自慢』として世に出ることになったのか、宮原社長によれば状況はこうである。

『七福嶋自慢』の旧ラベル(新島酒蒸留所Instagramより)

蔵では戦後しばらくまで芋焼酎を造っていた。しかし麦焼酎がブームを迎えて主流となった1985(昭和60)年に、芋焼酎の製造を一旦休止していたのだった。

2001(平成13)年、会社を受け継いだ宮原社長としては、いつかは伊豆諸島の伝統でもある芋焼酎の製造を復活させ、さらに新島ならではの製品を世に出したい、と常々想を練っていたのである。

そんな折も折、式根島の住民から島の名産品として地元の七福薯を使った焼酎を作ってほしいとの依頼が舞い込むことに。

左下が式根島、右が新島(Google Earth)

かつて行っていた芋焼酎製造を復活させ、芋の特徴を前面に押し出した製品を復活させる好機だと考えた宮原社長は、式根島からの要望に応えることにしたのだった。

しかし1987(昭和62)年に宮原社長が東京農業大学を卒業して島に戻った時には、すでに蔵は麦焼酎専業となっていた。そのため、父祖からの技術の継承が叶わなかった。

【宮原社長談】
「平成15(2003)年に復活に取り組もうとした時は、正直に申し上げると芋の仕込みについては右も左もわからずの状態でした。

両親はもちろんですが、すでに仕込みをされていた大島谷口酒造さん、青ヶ島酒造さんなど業界の方にもいろいろと教えていただきながらの、手探りのスタートだったんです」

■困難を極めた原料芋の確保。

さらに”原料の確保”という高いハードルが待ち構えていた。

なぜなら当時島内の農家では、七福薯は自家用の他には島外の親類・知人への贈答品程度の量しか栽培されておらず、商業ベースでの生産が行われていなかったのである。そのため、焼酎醸造に必要な大量の芋をどう確保するかが難問として立ちはだかった。

2003(平成15)年の初年度は、2、3軒の農家からの供給と元JAの貯蔵分の芋でなんとか製造にこぎ着け、商品名『しきね』として4合瓶で600本の初出荷を迎えた。結果として式根島を中心に、それは瞬く間に完売してしまったのである。

【宮原社長談】
「弊社がまだ芋焼酎をやっていなかったときには、大沼剛さんのお父さん、光吉さんが中心となってあめりか芋を使ったいろいろな産品づくりを模索されていました。

それで『イリオン』という芋ワイン、正式にはリキュールなんですが、それをサントネージュワインさんに外注して何度か造ったことがあります。

『イリオン』のための原料芋を蒸して冷凍していたストックがあったので、最初はこのストックも使って取り組みを始めました」

3年後の2006(平成18)年、JA支店が買い付け窓口を設置するなど体制も整い、原料芋の規格や仕入れ値なども取り決めて数量・品質ともに充足。2010(平成22)年の時点で15軒ほどの農家が栽培に参加する体制が整うまでになった。

現在の七福薯の生産は、大沼農園グリーンデメテルにいじまファーマーズの3社に加えて、個人農家、そして株式会社宮原自身でも取り組んでおり、安定供給が維持されている。

七福薯栽培農家のひとり、大沼農園代表の大沼剛氏

大沼農園の代表である大沼剛氏は、約2000本の苗を育てることで新島産芋100%焼酎『七福嶋自慢』を支えている、そんな篤農家のひとり。

【大沼代表談】
「あめりか芋は品種改良されていない品種なので、”つるぼけ”はひどいし収量は読めないし、栽培はほんとに大変です」

【つるぼけ】サツマイモの葉や茎が異常に成長して茂りすぎる状態を指す。「つるぼけ」に陥ると葉や茎に養分が持って行かれるため、根である芋の部分に養分が行かず大きくならない。

日本への導入当初は栽培のしやすさが謳われた七福薯だが、それでも導入以後に誕生した改良品種と比べると耕作には数倍の手間と労力が掛かるという。現在の基準からすると一筋縄ではいかない芋なのだ。

【宮原社長談】
「土壌が米作に適さない新島では、古くから『あめりか芋』とよばれる白くて小さな甘いさつま芋が、重要な食料として諸島全域で造り続けられていました。他の地域では七福・白いも等と呼ばれていたそうですが、現在では新島・式根島以外ではほとんど作られていないようですね。

もともと『嶋自慢』はこの芋を使って造られていたと思われるんですが、昭和40年代(1965〜1974年)以降は船便流通が安定したことや、芋生産者が減少したこと、麦製品の台頭などで芋焼酎の生産量は減っていきました。

しかし、意欲的な芋農家さんや関係者の皆さんの熱意で『あめりか芋』の量産が始まって、平成15(2003)年にうちは芋焼酎造りを再開できました。

平成24(2012)年にこのあめりか芋の正式名称『七福』を冠した、『七福嶋自慢』として生まれ変わったという経緯です」

生産者の熱意によって手強い「七福薯」の安定した供給が実現し、『七福嶋自慢』の生産も軌道に乗った。

その後「七福薯」は、東京都から”自然的経済的社会的条件からみて一体である地域の特産物として相当程度認識されている農林水産物”を対象とする『東京都地域資源』として、さらにJA東京中央会からは『江戸東京野菜』として指定され保護対象となるまでに成長した。

■『七福』生産も軌道に乗ったある冬、ひとりの少年と遭遇す。

2015(平成27)年の冬のこと。生産者「にいじまファーマーズ」の農場で七福の芋掘りに立ち合った際、宮原社長は小学6年生のある少年と出逢った。

その子は、芋焼酎ってどうやって造るの?と興味シンシンに宮原社長へ質問を浴びせたらしい。その際に収穫した芋を製造場で仕込んだ時にも母親と一緒に見学に来てくれたそうだ。醪を見ながら「これはどうやって絞るんだろう?」とさらに訊ねてきたという。

蒸留作業の見学を勧めたが、冬休みのタイミングが合わずお流れに。しかし正月早々、またまた「にいじまファーマーズ」でその子と再会することになった。

完成間近の新製造場(2014年撮影)

【宮原社長談】
「2016年の正月2日、にいじまファーマーズの新年会で偶然彼と再会したんです。そこで、一本だけ残ってる醪を明後日製造場で蒸留するよって彼に言ったら、『ぜひ見たい!』と言うんですよ(笑)。でも、蒸留は朝が早い。5時には始めて8時頃には終わっちゃうけどいいの?て念を押したら、『朝起きられたら、ぜひ見たい』と。

当日、まだ松の内ですっごく冷えるし暗いし来ないだろうな、と高を括って日の出前からボイラー着けて仕事してました。そうしたらあの子が突然現れたもんだから、思わず『うわあ!』ってびっくりして!(笑)
早朝の寒い道をダウンジャケット着て足にマンネンジョーリ(ビーチサンダル)履いてチャリンコでやって来た。それも独りで来た。

蒸留ってボイラーの蒸気で温めて、蒸発したのを冷やすと液体にもどるんだよ、お風呂の天井の水と同じだよ、って説明するとすぐ理解してくれるわけです。意外と雑学王でね、発酵と腐っちゃうのは根本は同じことなんだって教えたら、『あ、知ってます』と。

『微生物でも発酵の母が酵母で、悪いのは菌だよね』とか言うから、こっちが”へー”ってなって(笑)。いろんなこと知ってるから、学校で習うの?と聞くと、『いや、学校では習わないけど』って。

それで、彼が蒸留廃液の匂いを嗅いで『パンみたいな香りがする』って言ったんですよ。そういう一言にハッとして、こっちはいい刺激を受けるわけです。とても面白い子でしたね。

二人で早朝の蒸留機の前に座ってたんですけど、蒸留機見ててもそんなに楽しくは無いかなと思って、退屈だろ?って聞いたら『いや、退屈ではないです』と返してくる。

彼と色んな話をして、ちょっと寒くてちょっと眠かったけど面白かった。新春早々とてもいい時間を過ごしたと今でも思ってます」

後年、宮原社長は、彼との予期せぬ再接近遭遇に直面することとなる。

■『東京島酒』が地理的表示(GI)に指定されたことで高まる、主原料が新島特産であることの価値。

2024年3月13日、伊豆諸島の焼酎が農林水産省より『東京島酒』として地理的表示(GI)に指定されたことは、すでにご紹介した。

GI指定条件のひとつが「芋類に国内で収穫されたさつまいものみを用いたものであること」となっていることからすると、主原料として『東京都地域資源』や『東京江戸野菜』に指定された新島特産の稀少な品種「七福薯(あめりか芋)」の使用は、極めてAdvantageが高い要素と言えるだろう。

新島酒蒸留所の対象アイテム5銘柄の中でも、最も地理的表示(GI)の主旨に適った銘柄だと思う。

■宮原社長が語る、『七福嶋自慢』の造りと味わいのポイント。

さて『七福嶋自慢』とは、どんなお味の焼酎なのか。

原材料の特質や飲み方、そして東京島酒の個性について、宮原社長ご自身より語っていただこう。

『七福嶋自慢』無濾過version

まずは原料としての「七福薯」の特性について。

【宮原社長談】
「いろんな芋を仕込んでみてわかったのですが、あめりか芋はほんとに独特な芋です。 まず果肉が硬いです。生だとゴリゴリしています。 だから痛みにくく保存が効くのかもしれません。

そして島では”ビンス”と”コーキ”というのですが、果肉が蜜芋とホクホクしたもの2タイプがあります。 これは加熱してみないとわかりません。 出来た焼き芋を割ってみてビンスだコーキだと言い合うのが島での焼き芋の風景です。
あめりか芋の独特な香りと味に接すると、われわれ島民には懐かしい思いが湧いてくるんです」

蔵元がイチ推しの『七福嶋自慢』の愉しみ方は?

【宮原社長談】
「おすすめの飲み方ですか?

強いて挙げると私はお湯割りなんですが、氷を入れない水割りもよくやりますね、冷たすぎず、ほろりとした味わいが解るというか。世代が違うのか、櫻井は断然ロックがイイ!とのことでした。

そうそう。2月のNHKテレビで放送された『新日本風土記』で、冒頭のシーン、成人式の打ち上げでロックで注がれて『かはっ!』と咽せてた青年、覚えてます? 彼が、小学生のときに正月の早朝から蒸留の見学に来て熱心に質問をくれたあの子だったんですよ。それなのに二十歳になって飲んでアレでしょう? 思わず画面に向かって『おまえ、なんでそんな不味そうにするの?!』って昔を思い出して笑ってしまいました。別の新成人の女の子が『七福』の水割りをぐいぐい飲んで『甘い、うまい』と言っていたのもうれしかったです。

それと、あるバーで提供された無濾過原酒のパーシャルショット(冷凍庫内で貯蔵して提供)ではまさに焼き芋の香りがそこら辺に漂って驚きでしたね。度数が高いから、トロッとして凍らないんです。(筆者注:レギュラー25度は凍結膨張し瓶が破裂する恐れがあるので不可)

『七福嶋自慢』はつまり、お好みでどんな飲み方でもおすすめと思うんですけど・・・ではだめですかね?(笑)」

東京島酒の芋焼酎そのものの商品特性について。

【宮原社長談】
「東京の島酒は芋焼酎にも麦麹を使うところが特徴の一つです。 『七福嶋自慢』は麦麹の香ばしさとあめりか芋の甘さがたっぷりの焼酎です。

一般に麦麹は米麹より酵素力化が弱いといわれています。 通常は米麹1:芋5の比率で仕込みます。うちでは何年かの仕込みを経て、現在は麦麹の割合を少し増やしていますね。

九州の焼酎は王道ですが、では我々が邪道かっていうとそんなつもりは無くて、やはり麦麹の香ばしさが芋の甘さを引き立てていて、それがOne & Onlyの東京島酒の個性だと思っています」

ラベルリニューアルの際に商標登録された新ロゴ(登録:2021年11月17日)

式根島島民の要望が発端となって誕生した、文字通りの地産地消焼酎『七福嶋自慢』は、さらなる飛躍を目指して2019年にパッケージをリニューアル。

島内のハレの日に記念品として贈呈される祝いの酒ということから、格調と華やかさをイメージした金ラベルに衣替えしたのだった。

■20年目を迎える、島のInitiationと『七福嶋自慢』。

さて、そのハレの日とは、2024年2月初放送のNHK-BS『新日本風土記』「東京島酒、もう一杯」でも取りあげられた島の成人式のこと。そして成人式の2年前に行われた新島高等学校3年生時の七福薯栽培の体験授業へと話は遡っていく。

その模様については、すでに「飲俗學<1>」で詳述しているので、ここでは繰り返さない。

新島高等学校の3年生が収穫した「七福薯(あめりか芋)」
(新島酒蒸留所Instagramより)

新島高校での3年生の体験学習が始まったのは2004年というから、本稿を書いている2024年でちょうど20周年を迎えた。

『七福嶋自慢』の前身である『しきね』で芋焼酎製造を再開した同時期にスタートした体験学習は、今年もまた3年生が栽培に挑む。そして高校での耕作体験と2年後の成人式における本品贈呈というInitiationを経て、アンキラは島社会の入会者として正式に迎えられるのだ。

それは2つの世代を超えて、さらに次の世代へと受け継がれる新島の通過儀礼、ひとつの民俗として定着した、と言っていいのではなかろうか。

この体験授業や成人式での贈呈がどういう経緯で始まり、現在まで続いてきたのか、宮原社長に伺ってみた。

『都立新島高校3年生・LHR クラス計画』2007(平成19年)

【宮原社長談】
小耳に挟んではいました。新島高校の3年生は選択授業でふるさと体験学習があるらしい、新島で農業といえばあめりか芋ということで農園であめりか芋を栽培している班があると。

2004年の冬でしたが、その担当をされていたY先生がうちに電話をくれたんです。『生徒が育てたあめりか芋が少しあるけど、焼酎に使ってくれませんか?』というお話でした。

その年は本格的に芋焼酎造りをはじめた、というか復活したばかりのタイミングで、既に芋の仕込みは終わっていたんですね。残念ながらお断りしました。次の仕込みには必ず使わせていただくのでと、栽培も引き続きお願いしていたんです。

翌年、約束通りにY先生のほか先生3名、生徒さん5名が芋を50㎏程持参されて、見学をかねて仕込みの手伝いに来ていただいたんです。原料確保に苦労している立場としては、とてもうれしかったのを覚えています。



それでY先生が『大変申し訳ないのですが、できた焼酎を人数分いただけませんか? 2年後の成人式にプレゼントしたいのです』と、おっしゃった。

それから月日が過ぎて、2007年の成人式の際にその第1号の2年寝かせた芋焼酎が栽培に関わった新成人に渡されたと、村の広報紙で見ました。

2007年からはさらに授業の規模が拡大して、新島研究の一環として3年生全員で芋を育てるので、成人式に生徒と父兄および関係者分の芋焼酎を提供してほしいという依頼をいただいたんです。とても素晴らしい話なので、もちろん協力させていただく事にしました。

Y先生よりお電話をいただいてから、もう20年になるんですね」

21年前、新島産の原料にこだわった芋焼酎の再生を目指し、地元農家と協働して始まったこの取り組み。それは『東京島酒』が「地理的表示(GI)」に指定されたいま、新たな価値として花開こうとしている。

(<9>に続く)

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