2024年2月放送のNHK-BS『新日本風土記』「東京島酒、もう一杯」で取りあげられた新島酒蒸留所の代表銘柄のひとつ。
稀少な「七福薯(あめりか芋)」を復活させて完成した新島ならではの1本で、『地理的表示(GI)』に依る「東京島酒」対象アイテム。主原料「七福薯」の個性である、ふくよかな甘さが持ち味だ。
「都立新島高等学校」では3年生になると体験学習として「七福薯」の栽培に取り組み、生徒たちが収穫した芋を原料に本品が仕込まれる。卒業から2年後、成人式の際、帰島した卒業生たちへ熟成された『七福嶋自慢』が記念品として贈呈される、”あゝ青春”の1本でもある。
■そもそも『七福薯(あめりか芋)』とは、一体何者なのか?
「七福薯(あめりか芋)」が旧農商務省に登録されたのは1900(明治33)年で、源氏と紅赤に次いで3番目に古い品種。以後の品種開発においては交配母本として多用された芋でもあった。
”あめりか芋”という名の由来は、まさにアメリカから移入された芋だったからだ。
明治の半ば、広島県出身の移民としてオーストラリアやアメリカに渡った久保田勇次郎氏が,アメリカ滞在中に見付けた七福薯を日本に持ち帰ったのがそもそものはじまり。
日本への移入の経緯について、久保田氏の出身地、広島県矢野町にある郷土史研究サークル「発喜会」の理事・山本雅典氏の資料から長文ながら引用させていただく。
新島への七福伝来の時期は未確定だが、上記山本氏の資料には、
という記載があって注目される。
農商務省からの各県への種芋配布については、下記にある愛媛県立農事試験場の資料によれば、1925(大正14)年3月に行われたようだ。全国各府県への配布にあたって、芋の名称を「七福藷」と改称したと書かれている。
それからすると、各府県に配布された種芋からさらに増やしての新島への移入は、早くて翌1926年3月あたりか。少なくとも昭和初期なのは確実。
七福薯は当時としてはその栽培のしやすさから、国内では主に九州、四国、瀬戸内で広まり、第二次大戦中において耕作面積が2万5千haにまで拡大し普及した芋だった。
ところが、戦後は収量が多い改良品種に駆逐されたため、現在ではたいへん稀少な芋となっている。産地としては、新島の他には愛媛県新居浜市大島などごく一部でしか栽培されていない。
久保田氏も「どんな風土にも適し」と述べている通り、普通の畑作には向かない乾燥した土地でも育つため、まさに離島にはうってつけ。貯蔵性が高いこともあって、保存食としても島の暮らしに適した作物だったのである。
■原点は、島内からの要望で生まれた”地産地消”の焼酎だった。
一旦は島内でもほとんど栽培されなくなった「七福薯」がどのようにして復活したのか、そしてなぜ焼酎『七福嶋自慢』として世に出ることになったのか、宮原社長によれば状況はこうである。
蔵では戦後しばらくまで芋焼酎を造っていた。しかし麦焼酎がブームを迎えて主流となった1985(昭和60)年に、芋焼酎の製造を一旦休止していたのだった。
2001(平成13)年、会社を受け継いだ宮原社長としては、いつかは伊豆諸島の伝統でもある芋焼酎の製造を復活させ、さらに新島ならではの製品を世に出したい、と常々想を練っていたのである。
そんな折も折、式根島の住民から島の名産品として地元の七福薯を使った焼酎を作ってほしいとの依頼が舞い込むことに。
かつて行っていた芋焼酎製造を復活させ、芋の特徴を前面に押し出した製品を復活させる好機だと考えた宮原社長は、式根島からの要望に応えることにしたのだった。
しかし1987(昭和62)年に宮原社長が東京農業大学を卒業して島に戻った時には、すでに蔵は麦焼酎専業となっていた。そのため、父祖からの技術の継承が叶わなかった。
■困難を極めた原料芋の確保。
さらに”原料の確保”という高いハードルが待ち構えていた。
なぜなら当時島内の農家では、七福薯は自家用の他には島外の親類・知人への贈答品程度の量しか栽培されておらず、商業ベースでの生産が行われていなかったのである。そのため、焼酎醸造に必要な大量の芋をどう確保するかが難問として立ちはだかった。
2003(平成15)年の初年度は、2、3軒の農家からの供給と元JAの貯蔵分の芋でなんとか製造にこぎ着け、商品名『しきね』として4合瓶で600本の初出荷を迎えた。結果として式根島を中心に、それは瞬く間に完売してしまったのである。
3年後の2006(平成18)年、JA支店が買い付け窓口を設置するなど体制も整い、原料芋の規格や仕入れ値なども取り決めて数量・品質ともに充足。2010(平成22)年の時点で15軒ほどの農家が栽培に参加する体制が整うまでになった。
現在の七福薯の生産は、大沼農園、グリーンデメテル、にいじまファーマーズの3社に加えて、個人農家、そして株式会社宮原自身でも取り組んでおり、安定供給が維持されている。
大沼農園の代表である大沼剛氏は、約2000本の苗を育てることで新島産芋100%焼酎『七福嶋自慢』を支えている、そんな篤農家のひとり。
日本への導入当初は栽培のしやすさが謳われた七福薯だが、それでも導入以後に誕生した改良品種と比べると耕作には数倍の手間と労力が掛かるという。現在の基準からすると一筋縄ではいかない芋なのだ。
生産者の熱意によって手強い「七福薯」の安定した供給が実現し、『七福嶋自慢』の生産も軌道に乗った。
その後「七福薯」は、東京都から”自然的経済的社会的条件からみて一体である地域の特産物として相当程度認識されている農林水産物”を対象とする『東京都地域資源』として、さらにJA東京中央会からは『江戸東京野菜』として指定され保護対象となるまでに成長した。
■『七福』生産も軌道に乗ったある冬、ひとりの少年と遭遇す。
2015(平成27)年の冬のこと。生産者「にいじまファーマーズ」の農場で七福の芋掘りに立ち合った際、宮原社長は小学6年生のある少年と出逢った。
その子は、芋焼酎ってどうやって造るの?と興味シンシンに宮原社長へ質問を浴びせたらしい。その際に収穫した芋を製造場で仕込んだ時にも母親と一緒に見学に来てくれたそうだ。醪を見ながら「これはどうやって絞るんだろう?」とさらに訊ねてきたという。
蒸留作業の見学を勧めたが、冬休みのタイミングが合わずお流れに。しかし正月早々、またまた「にいじまファーマーズ」でその子と再会することになった。
後年、宮原社長は、彼との予期せぬ再接近遭遇に直面することとなる。
■『東京島酒』が地理的表示(GI)に指定されたことで高まる、主原料が新島特産であることの価値。
2024年3月13日、伊豆諸島の焼酎が農林水産省より『東京島酒』として地理的表示(GI)に指定されたことは、すでにご紹介した。
GI指定条件のひとつが「芋類に国内で収穫されたさつまいものみを用いたものであること」となっていることからすると、主原料として『東京都地域資源』や『東京江戸野菜』に指定された新島特産の稀少な品種「七福薯(あめりか芋)」の使用は、極めてAdvantageが高い要素と言えるだろう。
新島酒蒸留所の対象アイテム5銘柄の中でも、最も地理的表示(GI)の主旨に適った銘柄だと思う。
■宮原社長が語る、『七福嶋自慢』の造りと味わいのポイント。
さて『七福嶋自慢』とは、どんなお味の焼酎なのか。
原材料の特質や飲み方、そして東京島酒の個性について、宮原社長ご自身より語っていただこう。
まずは原料としての「七福薯」の特性について。
蔵元がイチ推しの『七福嶋自慢』の愉しみ方は?
東京島酒の芋焼酎そのものの商品特性について。
式根島島民の要望が発端となって誕生した、文字通りの地産地消焼酎『七福嶋自慢』は、さらなる飛躍を目指して2019年にパッケージをリニューアル。
島内のハレの日に記念品として贈呈される祝いの酒ということから、格調と華やかさをイメージした金ラベルに衣替えしたのだった。
■20年目を迎える、島のInitiationと『七福嶋自慢』。
さて、そのハレの日とは、2024年2月初放送のNHK-BS『新日本風土記』「東京島酒、もう一杯」でも取りあげられた島の成人式のこと。そして成人式の2年前に行われた新島高等学校3年生時の七福薯栽培の体験授業へと話は遡っていく。
その模様については、すでに「飲俗學<1>」で詳述しているので、ここでは繰り返さない。
新島高校での3年生の体験学習が始まったのは2004年というから、本稿を書いている2024年でちょうど20周年を迎えた。
『七福嶋自慢』の前身である『しきね』で芋焼酎製造を再開した同時期にスタートした体験学習は、今年もまた3年生が栽培に挑む。そして高校での耕作体験と2年後の成人式における本品贈呈というInitiationを経て、アンキラは島社会の入会者として正式に迎えられるのだ。
それは2つの世代を超えて、さらに次の世代へと受け継がれる新島の通過儀礼、ひとつの民俗として定着した、と言っていいのではなかろうか。
この体験授業や成人式での贈呈がどういう経緯で始まり、現在まで続いてきたのか、宮原社長に伺ってみた。
21年前、新島産の原料にこだわった芋焼酎の再生を目指し、地元農家と協働して始まったこの取り組み。それは『東京島酒』が「地理的表示(GI)」に指定されたいま、新たな価値として花開こうとしている。
(<9>に続く)