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或る「博多の醤油蔵」伝 ジョーキュウ醬油(1) -近世。醤油屋の始原に向かって-

福岡市中央区大名1丁目にあるジョーキュウ醬油 本社小売館

(文中敬称略)

1.創業1855年(安政2)、黒田藩城下の老舗醬油蔵を訪ねる。

福岡市商業の中心地・天神、その西側に広がる「大名」エリアは、老舗の商店から先端のブティック、流行りの飲食店など、伝統と先進のベクトルが共存する不思議な一角である。

江戸時代から近代にかけて「紺屋町」(こうやまち)と呼ばれたそんな界隈に、創業以来167年の暖簾を守る醤油蔵がある。福岡に住む人間で知らぬ者はいないのではないか、という程に知られた老舗だ。

小売館の前に設置された「旧紺屋町」の石碑

と、偉そうに書いたのはいいが、実はこれまでウン十年、私は幾度も蔵の前を通っていながら、一度も暖簾をくぐって中に入ったことが無かったのだ。

同居する家内の実家が早良区南部のヤマタカ醬油『木星』を使っていたため、家内の嗜好に合わせて、私もそれを使っていた。醬油はいま使っている銘柄を別のものに簡単にスイッチしようという気になりにくい商品である。何本も買うわけにはいかないし。

店の前を通るのだが、入ると買わずには出にくい。毎度、暖簾の奥を覗うばかりであった。

ジョーキュウ醬油公式サイトより拝借

しかし、同社の再仕込み醬油『博多大名本造り醬油』を買って、蔵探訪の相方であるカネさんと試食したところ、コク深く旨味ぶ厚い、その味に心底感動してしまったのだ。

そういうわけで、なにかと念願であった博多を代表する醤油蔵『株式会社ジョーキュウ(ジョーキュウ醬油)』に、今回やっとお邪魔することが出来た。

蔵訪問には、かつては焼酎蔵や、前回の糸島市加布里「カノオ醬油」さん訪問にも同行してくれたカネさんに加えて、彼のご後輩であるK君も参加。K君、年は若いが大豆には滅法詳しい男である。以上三名で蔵の暖簾をくぐらせていただいた。

2.”聖典中の聖典”を見落としていた、という不始末。

空梅雨が異例にも早く明けてしまった、夏本番の厳しい熱波が襲うHeat Island大名。そんな昼下がりに、ジョーキュウ醬油を訪ねた。

貴重なお時間を割いていただいたのは、管理本部の時枝政男管理本部長、そして経営企画室の福田昭浩室長のお二人である。

『FFG調査月報』2013年1・2月号に掲載された
松村克己7代目現社長(左端)、当時の松村等彰6代目社長(左から二人目)
そして、時枝政男現管理本部長(右端)
1863年(文久3)に建造された箱蔵で櫂棒を入れる福田昭浩室長

さて、事前に質問シートを送付させていただいたので、それに沿ってお話を伺おうと思ったヒアリングの冒頭、時枝本部長がおっしゃった。

「これを読んでもらえば、すべて解りますよ。これに書いてあります」

そして一冊の本を差し出されたのだった。タイトルは『城下町の商人から ジョーキュウ一五○年の歩み』(以下『150年の歩み』と略記)。いまから17年前の2005年に出版された社史で、当時の5代目松村冨夫社長の筆によって完成している。

2005年10月発行の150年史『城下町の商人から ジョーキュウ150年の歩み』

お預かりしてざっとページをめくると、質問に対するほとんどの答えがそこに記されている。ジョーキュウ醬油研究のまさに第一級史料、これは聖典中の聖典である。

赤面の至りという言葉があるが、それどころではない、私の顔から火が吹き出した。

数え切れないほど福岡市立総合図書館の郷土資料室に通ったし、特にここ数ヶ月、醬油について調べるために「産業」棚を漁っていた。しかし、『150年の歩み』の存在に気づかなかった。お膝元の図書館が著名な老舗の歴史を綴ったこの本を収蔵していないはずはない。

◇   ◇   ◇

さて、訪問から2日後、業務絡みの調べもあって再び福岡市立総合図書館に向かった。いの一番に郷土資料室に行って「産業」の棚の前に立つ。と、真っ先にこの本の背表紙が目に飛び込んできた。

『そがな”ふーたんぬるい”考えしとると、スキができるぞ』
『山守さん、本がまだ残っとるがよぉ』
映画『仁義なき戦い』の名セリフ改が胸に木霊すのであった。嗚呼。

というわけで、以降の記述については、私が事前に用意していた質問に沿って、寄贈いただいた『150年の歩み』からの引用、および訪問時に頂戴したお二方の談話を織り交ぜながら記させていただく。

3.醬油専業蔵となった経緯

Q1:1955年(安政2)の醬油製造業の創業から江戸末〜明治にかけて、醤油専業となった経緯・理由について、記録や伝聞は残っているのでしょうか。

江戸時代初めに勃発した三大お家騒動のひとつに、筑前黒田藩の『黒田騒動(栗山大膳事件)』がある。騒動の責任を取って陸奥盛岡藩預かりとなった栗山大膳の家来のひとりに白木孫左衛門がいて、事件の結果浪人となった。

創業家である楠屋(くすのきや)松村氏について『150年の歩み』によれば、白木孫左衛門の息子・伝兵衛は博多萬町で商人となり、長男の太兵衛を商家白木屋の2代目とし、長女に松村右衛門の息子を養子として迎え、楠屋宅兵衛として楠屋の初代としたとある。その楠屋が紺屋町に移り住んだのは1741〜44年の寛保年間とされる。

『福岡県史』(通史編・近代産業経済・一、2003年)では、楠屋はそれ以前の享保年間1700年代前半にはすでに質屋・酒造・味噌造り・古手(古着や古道具を売買する店)・木綿商いなど手広く扱っていたとされている。いわゆる豪商だったようだ。

しかし、『150年の歩み』をさらに読み進むと、紺屋町に移転したころは家業が疲弊して左前の状態となっていたという。立て直しは、初代宅兵衛から6代目となる半平(はんべえ)が成し遂げたが、その事業再生の妙手、実に興味深いのでぜひ原書を当たっていただきたい。

楠屋醬油の初代「松村半次郎」は、楠屋本家6代目半平の長男にあたり、1828年(文政11)に生をうけた。上に姉の長女ミネがいる。

当時の商家では、先に長女が生まれたら養子をとって家督を継がせる、そんな決まりがあったという。そのため楠屋本家は半平の甥半兵衛にミネと養子縁組させて本家を継がせたが、醬油部門を担っていた半次郎は分家独立して専業蔵「楠屋醬油」の初代主人となった。

というわけで、私の設問は本家と分家の関係で誤謬がある。答えとしては、初代半次郎が醬油部門を任された1955年(安政2)を創業年とし、分家独立したのが1857年(安政4)という経緯で、もともとジョーキュウ醬油のスタートは醬油専業だったわけだ。

時枝本部長「安政2年にね、醬油部門が別れて、やったという。元々は質屋・古手屋・米屋・酒屋・醤油屋を一緒にやってたのを、醬油部門を任されてた初代の半次郎さんが分家として別れて始めたわけです」

ちなみに、福岡県醬油工業協同組合の福岡支部に現在所属している蔵元の創業年を整理したのが下記。ジョーキュウ醬油は福岡支部において3番目に古い蔵となる。

福岡県醬油工業協同組合公式サイト「組合員店舗紹介」より作成 年紀は各社の公式サイトなどから記載

4.黒田藩お膝元の商家としての務め

Q2.黒田藩とのつながり(藩御用など)はあったのでしょうか。

時枝本部長「もともと楠屋醬油が、黒田藩のご用達と伝えられているが、関わっていたとか、そういう事を書いたものは残って無いんです・・・でも(藩に)献金した、というのは書面が残ってるんです・・・この紺屋町あたりは商人の町だったので(藩に)納めていたことはあったでしょうね」

カネ「そういえば、このあたりって武家屋敷じゃなかったんですね」。
時枝本部長「そうそう、この周辺は商人の町ですよ」
福田室長「もうちょっと北の、今の大名2丁目あたり(注:東西が西鉄グランドホテルから地下鉄赤坂駅までの界隈)が昔の大名町、そのあたりに偉い人が住んでいたそうです」

江戸時代、福岡城の内堀に面して(注:ジョーキュウ醬油から見て紺屋町掘を挟んだ北側に)家老や大組など藩政の重臣たちが居住しており、大組に相当する家臣を「大名」と呼んでいたことにちなむ。現在の区域の地下には「肥前堀」と「紺屋町堀」の堀の遺構が残っており、かつては福岡城から那珂川まで伸びていた。

Wikipedia「大名(福岡市)」

下記の、1880年(明治13)に作成された福岡市の古地図を見ると、2つの掘の位置関係、現社屋前を走るカギ字の枡形道が良く解る。堀を挟んだ蔵の真向かいが、まさに藩の貴顕たちが住む大名町だった。

話を戻すと、藩に対して醬油(または味噌)を納入していた記録は残っていないが、藩に献金した際に藩主から賜った「御称譽」などの文書は現存している。

『150年の歩み』には、1858年(安政5)に黒田藩に「御国恩冥加」として寸志400両を献上して「永代二人扶持」という御称譽を授けられたり、薩英戦争で世上騒然たる1863年(文久3)、博多湾にお台場を造るための献金で600両を拠出したエピソードが記されている。

その後も藩への貢献は続き、半次郎は、1866年(慶応2)には「御用聞町人並」に、さらに1869年(明治2)には「御用聞町人」に昇格した。結果として黒田藩への寄付は合計2000両を超えるという。

明治維新を目前にして、半次郎の藩への献金も「『速やかに出金御用達致し』といった言葉を残している通り、同じ献金をするなら金額は少なくても早く出した方が得、と四十両ぐらいを早めに収めていわばお付き合い程度に止めている」(『150年の歩み』)

5.時代と世相は、明治御一新へ。

時枝本部長「金を貸したっちゃけど、書面で献金いう言葉は書いてあるんやけど、貸して、返ってこんやったちゅう。貸し倒れしたわけでね(笑)」

結果として、1870年(明治3)に家令(皇族や華族の家の事務・会計を管理し、使用人の監督に当たった人)の黒田長知公(黒田藩最後の12代藩主)から呼び出された半次郎は、長年の献金への感謝状と金巾(かねきん、かなきん:細い綿糸で薄地に織った布)を賜った。反物ひとつだけである。

「子々孫々のために藩主に納められたるも、維新改革の末、献金も反故となり・・・」と、三代目松村久吉(きゅうきち)は先々代のことをそう書き残したそうだ。半次郎の胸中を想う。

◇   ◇   ◇

勤王の志士が御一新に向かって突き進む御時世、筑前山家村(現筑紫野市)に、その志士たちと関係が深かったとされる大庄屋14代山田勘右衛門がいた。その五男七之助が、半次郎の跡目を継いで楠屋醬油2代目の「松村半三郎」となる。

Q3.「松村半次郎」という当主のお名前は、明治初期1872年から編纂された『福岡県地理全誌』、1963年の論文「醸造に対するセルレースの應用」、1975年の『福岡県醬油醸造協同組合名簿』などの文書でも確認できました。代々襲名されたようですが、松村克己社長は襲名されておられません。これは何か理由がございますでしょうか。

用意していたこの3問目は完全な予備知識不足を露呈。『150年の歩み』の巻末に松村家家系図が掲載されていて、初代「半次郎」を襲名したのは四代目半次郎のみと解る。

国の登録有形文化財に指定されたうちのひとつ「米蔵」
1871年(明治4)の竣工

ところで。『150年の歩み』では、この黒田長知公の感謝状にまつわる記述の後に、1873年(明治6)に筑豊で発生して博多や糸島へと広域に波及拡大した明治期最大の一揆、「筑前竹槍一揆」に関する逸話が出てくる。

この一揆については、「カノオ醬油」さんの稿で触れた。糸島市加布里では酒・酢・醬油などを手広く扱う豪商・東屋(末松)政右衛門の屋敷が打ち毀しに遭っている。

「また(六月)二十二日には、一揆は怡土郡赤坂、岩本、加布里の副戸長宅や加布里の東屋政右衛門宅を打崩し、神在村に行って家々を焼き払い、その上、二丈町福井、吉井両村の家々を引き倒し、福井浦の副戸長、重田藤左衛門所持の蔵に放火した。」

川崎俊丸「明治六年筑前竹槍一揆について」 『糸島文林』(17号、1969年)所収。

小野武夫編著『維新農民蜂起譚』の第七篇「筑前の竹槍騒動」によれば、一揆による醤油蔵の被害だけを見ても、筑豊の鞍手から糸島へと東から西に広がり、約35㎘の醬油が流出している。

醤油屋の損害を受けた家數を郡別にすると
鞍手四 穂波一 嘉麻一 上座二 下座二 夜須一 怡土一
合計一二軒、石數多きは四十三石少きは七斗五升、計百九十二石三斗七升五合

『維新農民蜂起譚』(1930年(昭和5)、改造社)284p

緊迫した状況下、楠屋醬油では6月19日の夜に厳重に戸締まりをした上で、店の若い衆が寝ずの番で一揆勢の乱入に備えたとある。結果的には、多くの商家の運命を変えたと覚しいこの農民蜂起の怒濤から、幸運にも蔵は被災を免れたのだった。

激動の明治維新から、さらにその先、近代へと蔵は前進する。


(2)に続く。


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