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福岡蔵元アーカイブズ2002(5) 光酒造


2002年9月 サイト『九州焼酎探検隊』で公開

■正調粕取『大亀』の故郷を訪ねる。

さて。二日市を後にしたわてらは、一路北上。筑紫野市と宇美町の間に横たわる山を越えて、●●酒販商店の若大将の店へと向かった。

なぜ若大将の元に向かったかと言えば、未だ隊長は同店への訪問経験が無く、またけんじさんは店内に入ったことが無かったから。わてはと言えば、先月、長崎県は福田酒造さんの粕取『ひらど』を特別に取り寄せてもらったお礼に伺ったのだった(同品は現在けんじさんの手元にある)。


というわけで、さらに宇美町から北に向かって着いたのが、糟屋郡粕屋町長者原

この糟屋郡の地名は酒粕の糟、つまりこの周辺に酒粕を産する清酒蔵が多かったことが語源だといふ。現に周辺には、酒殿(さかど)、酒屋(さかや)の地名が遺っている。まさに粕取焼酎の“故郷”としては、申し分のないロケーション。

光酒造事務所

ここに、goida隊員が福岡市西区飯盛で発掘した正調粕取『大亀』の蔵元、光酒造株式会社さんがある。

光酒造さんと言えば清酒『西乃蔵』、焼酎では『博多小女郎』で有名だ。さっそく事務所で、代表取締役の光安直樹氏にお話を伺う。


■筑前vs豊後・・・同社の焼酎戦後史。

まず伺ったのは、同社の焼酎の歴史である。戦前、戦後そして現在に至る歴史については、地元の有力紙『西日本新聞』で記事になり、また同社サイトにも掲載された。けんじさんがその記事を検索で見つけだして教えてくれたが、それは粕取からもろみ取りへと移り変わる筑前焼酎史を語る上で、貴重なものだった。

猛牛「あの、西日本新聞の記事ば拝見したとですが、相当に古い歴史を持たれているようですね?」
代表「私が父(先代社長)から受け継いだのが昭和58年頃ですか。ほんとは蔵を継ぎたくなくて、普通のサラリーマンを東京でやっていたんです。ですから、古いことは判らないのですけど。昔は『光焼酎』という名前で販売していました」

けんじ「『光焼酎』とは初耳ですが」
代表「つまり、昔『白波』さんもわざわざ芋焼酎とは書いていなかったんですよね。鹿児島でしたら芋で当たり前なんで、いちいち原料を断る必要がない。例えば二階堂さんなんかも、『二階堂焼酎』という名前で出されていましたよ」

光安直樹社長

代表「実は、二階堂さんとは、先代は昔から張り合っていたんです(^_^)」
隊長「ほぉ。それはどういうことですか?」
代表「先代は大分に市場開拓で攻め込み、二階堂さんは福岡に攻め込んでくる。やられたらやりかえす・・・って、喧嘩してる訳じゃないですけど、その攻防戦をずっと繰り返して来たんですなぁ」
けんじ「杷木町のゑびす酒造さんでも、大分がいい市場だったとお話を伺いましたね」
代表「大分県も清酒圏なんですが、焼酎の需要も多かったんです。ですから先代は精力的に売り込みに行っていましたねぇ」

けんじ「同じくゑびす酒造さんのお話ですと、農業従事者だけでなく林業従事者など、どちらかというと肉体を酷使する産業のユーザーが顧客だったという話です。こちらではやはり志免炭坑などの採炭従事者が多かったんでしょうか?」
代表「うむ。どうなんでしょうか。私自身、よくその辺りは捉えていないんです。でも、農家とかで女性が夏に飲むものとして粕取の需要があったことは覚えています。蜜を入れたりとか甘くして飲むんですな」

猛牛「やはり「盆焼酎」の伝統があったわけですたい」
代表「暑気払いに飲んだりされるわけです」
隊長「焼酎は、俳句では夏の季語ですよね。ちゃんとそういう伝統が背景にあるんだなぁ~、うんうん」
代表「夏場、暑いときに女性が飲むと、ほら、焼酎ちゃぁ飲むと体温が下がるやないですか? で、冬は清酒を飲むと体が温まる。ま、つまり殿方も“助かる”わけですな」
一同「え? あ・・・ああ、なるほどぉ! いやぁ・・・(爆笑)」

けんじ「ところで、粕取からもろみ取りに移行された理由は?」
代表「やはり、匂いがキツイ粕取は敬遠され始めたんですね。戦後、豊かになるに連れて、求める味がソフトになって行ったやないですか。酒に限らずですなぁ。それと飲まれる方も高齢になられて、やはり需要が減ってしまったんですよ」

製麹機

■正調粕取『大亀』の生産と需要の現状とは?

次ぎに、正調粕取焼酎として現在も生産と販売が続けられている『大亀』について、お話を伺ってみた。

猛牛「福岡市西区飯盛の酒屋さんで、『大亀』を見つけて購入しましたばってん、なかなか他の店では見かけんとですが。現状、地元の需要はどげんなっとるとですか?」
代表「現在ですが、出荷は福岡エリアで1割、残りの9割が山陰地方なんです」
一同「えええ??? 山陰??」
代表「はい。あちらでは、飲用の他にもちくわとかの魚介練り物、特にバカでかい竹輪のお化けみたいなものの(あご野焼)の臭い消しに使われたりするんですね。魚肉の臭みを取るためにです。だから需要がとってもあるんですよ」

猛牛「福岡ではなかなか飲まれんとですねぇ・・・。ある別銘柄を置いてちょるお店でも、3カ月に1本でればいい方とおっしゃちょりましたが」

けんじ
「『大亀』の年間の生産量はどれくらいですか?」
代表「10キロリットルのタンク1本ですね(因みに1升瓶換算で5500本強)」
けんじ「仕込みの時期はいつ頃ですか?」
代表「清酒の仕込みが1月くらいに終わって、それから粕を発酵させます。蒸留はだいたい3月くらいですね」

けんじ「『大亀』は、瓶を透かしてみると、結構濁りがあってインパクトがありそうですが(爆)。中身はとても飲みやすいですね。」
代表「ああ、あれは蒸留の際に出る油なんですよ。でも、味はそんなにクセは強くないとお思います」
猛牛「蒸留器ですが、どげな仕様のもんなんでしょう? 昔ながらのセイロでしょうか?」
代表「木で出来たセイロ式のものですね。ただ木枠が外れにくいようにスチールのフレームをはめています。その中に丸めた粕を並べて蒸す方式です」
けんじ「なるほど。昔ながらのやり方に近いですね」
代表「そうです。いま蔵の3階に蒸留器を上げているので、お見せできないのが残念ですなぁ。古いかぶと釜ではないですけどね。あれは修理が出来る人が、いま居らんとです」

けんじ「今後も『大亀』は、生産を続けられるんですか? もう生産を取りやめるなんてことは考えていらっしゃいますか?」
代表「まだまだ需要がありますので、現時点ではまったく考えていませんよ。これからも造り続けます!(^_^)」

■紳士的な対応に、“決死隊”一同も気持ちじんわり。

というわけで、蔵内部を見学させていただいた。同社の主力商品である麦や米のもろみ取り焼酎の製造ラインは近代化されたもので、さすがに筑前を代表する規模を誇る。

敷地面積の関係上、タンクを並べるスペースを節約するため、40キロリットルは入るという縦長の巨大なタンクがドン!と屹立していた。

ずらりと並ぶ樽

また同社が力を入れている長期貯蔵用の樽が蔵内部のそこかしこに積み上げられていた。

一個一個に通し番号が振られているが、現時点では500番台を越えて、さらに増加しているという。その数と規模は圧倒的である。

代表「樽一個がだいたい10万円くらいするんですよ。そうそう買えませんよね。投資も大変なので、一度に仕入れず、少しづつ集めて積み上げています」

というわけで、代表のお時間を長々と頂戴するわけにもいかない。お暇させていただくこととした。「本当にお忙しい中、時間を割いていただいて、ありがとうございました」と礼を申し上げると、

代表「いえ。お一方でも焼酎のファンの方が増えてくれたら、嬉しいですね(^_^)」

隊長とけんじさんは、米焼酎のラインアップになる『綱巻徳利』という面白い容器の商品を購入。わては手持ちの金が無いので、また買えず(すんません)。

◇   ◇   ◇

光酒造さんを後にした車の中で、けんじさんがポツリと言った。

けんじ「前の筑後の蔵元さんもそうだったですけど、福岡の蔵元の社長さんは紳士が多いですね。応対が親切で丁寧だし、ほんと気持ちがいいですよ」
猛牛「そうやねぇ。嫌な顔されんけんなぁ。横柄やない。気持ちええわぁ、ほんと」
隊長「それやったら、球磨でお会いした蔵元さんたちもそうだったねぇ」
猛牛「鹿児島の蔵元さんたちも、そうやったですなぁ」

焼酎を間に色んな人と会っていると、嘘か本当か、色んな逸話を聞くことも多い。某県の若手蔵元の何人かは、どこそこの業者を土下座させただの、叱りとばしただの、〆てやっただの。それを“元気”と言うなら、ある意味そう言えるかもしれないが・・・、

隊長「客商売の原点を忘れてるんだよね。感謝の気持ちを置き忘れちょるっちゃろ? ブームに浮かれて、なに考えとんじゃ。飲まんでもこっちは困らんって」
猛牛「死んでも飲むかって、そげな酒(爆)」
隊長「はははは!」

粕取焼酎はそんなブームとは無縁だ。正調粕取焼酎というジャンルそのものが、いま消滅の瀬戸際に立っている。横柄な商売など出来ようがない。スポットライトが当たることは、これまでもこれからも無いかもしれないが、しかし。

だからこそ、わてらにとっては愛おしい存在である。

今後も粕取を続けるという勇気づけられる話を聞いた。まだまだ希望が持てる。これからもわてらの調査行脚は続く・・・。


■2023年追記:光安直樹社長は現在は会長となられ、ご息女の永末朋子さんが社長となって跡を継がれている。また同社の正調粕取焼酎『大亀』はいまだカタログに記載されている。うれしいことである。

談話の中で、福岡大分県境の山地を挟んで大分の二階堂さんとの営業合戦の話が出てくるが、記憶ではトラックに焼酎を積み山間を回って売り歩いていたとの言葉があったと記憶している。まだ流通が発達していなかった時代のことである。

(了)


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