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福岡蔵元アーカイブズ2002(4) 大賀酒造


2002年9月 サイト『九州焼酎探検隊』で公開

■創業1673年、実はそれ以前から?とも言われる歴史。

“粕取”On The Road2、最初にお邪魔したのは、粕取焼酎『玉出泉』を造られている大賀酒造株式会社さん。筑前でも一二を争う歴史を誇る蔵元である。公式記録では江戸時代の延宝元年(1673年)の創業で、329年の風雪を経て現在も活躍されている。

この大賀酒造さんが立地している筑紫野市は、あの菅原道真公を祀る太宰府天満宮が鎮座していることで有名な街。また蔵そのものも、天満宮へと向かう西鉄電車の乗り換え駅「二日市駅」から歩いて1分少々という近さだ。

けんじさんのレポート『Dr.けんじの粕取焼酎概論』でも触れられている通り、粕取蔵のある場所は太宰府天満宮の神領田の所在地と重なっている。同社を代々継承する大賀家は、天満宮に神酒を納める役目はもちろんとして、『神幸式大祭』に登場するという牛車(ぎっしゃ)の牛も所有していたという程に、天満宮とは関係が密接なのである。

太宰府天満宮と粕取誕生の関係という意味では、まさにこの大賀酒造さんが“粕取蔵総本山”だったという可能性もあるほど、歴史が匂いたつ蔵だ。


そこで同社の大賀信一郎専務のお時間を頂戴して、お話を伺った。「うちは清酒蔵が主なので、あまり焼酎に対して語るのも恥ずかしいのですが」とおっしゃる専務。しかし、熱気を孕んだ会話が以後続いた。

専務「うちは1673年創業としているんですが、本当はもっと古いんじゃないかっていわれるんですね。しかし公的な記録がまだ見付かっていないので、なんとも言えません。探して見ろって言われるんですけどね」

けんじ「焼酎についてはいかがなんですか?」
専務「いつから始めているか、よく解らないんです。現在の話で行きますと、吟醸粕を使った焼酎を4年前くらいから始めまして・・・。地元の祭りの時に、振る舞ったら大変好評でしてね。商品名を『吟醸焼酎』にしたんです」

隊長「なるほど、『吟醸焼酎』」
専務「まぁ、清酒の吟醸酒とちょっと紛らわしんじゃないかって言われたんですが、吟醸粕製ですからね。お客様からは美味しいと言っていただけますが、まだ味については自分自身が納得してないので、さらに磨き上げるつもりです」


■粕取『玉出泉』の現状

正調粕取である『玉出泉』について伺う。粕取と梅酒の関係について、面白いエピソードが飛び出してきた。

猛牛「『玉出泉』は今でも地元でしっかりと需要があるそうですが?」
専務「はい。やはり高齢の古いファンの方が多いんです。そのまま飲まれる方と、あと梅酒の需要ですね。これには面白い話がありまして・・・。」
隊長「と、申しますと?」

専務「実はあるお客様に、梅酒を粕取で漬けると美味しいですよと強くお勧めしたんですね。で、その方は一升瓶で3本買って行かれたんです。ところが、栓を開けたら、やはり匂いを強烈に思われたんでしょう。一本は開けたからそれで漬けるけど、後の2本はホワイト・リカーに替えてくれって言われて、お取り替えしたんですよ」
一同「うむ・・・」

専務「そうしたら、次の年でしたけど、今度は3本とも全部粕取を買われた」
一同「なるほど、なるほど! そうでしょうねぇ!」
専務「粕取で漬けた方が断然美味しいと言われて、それからはずっと粕取だそうです」
猛牛「そのお話納得ですばい。わてらも筑後の蔵元さんで飲ませて貰って、その美味さに驚きましたけん」

本格焼酎、中でも粕取焼酎で漬けた梅酒の美味さは、我らも実体験済み。とても納得できる話である。35度など度数が高い場合は3年、25度なら1年で飲めるようになるとのこと。

けんじ「今後も粕取焼酎は造り続けられるんですか?」
専務「もちろんです。地元の方にまだ愛されていますからね」

わてらにとって、これほど心強い言葉はない。

話は同蔵の歴史に少し戻る。

事務所応接間の壁には、社名入りの大きな掛け時計があった。「贈呈 九州日報社」の文字。福岡日々新聞と合併して現在の西日本新聞社となった、その前身である。この時計、相当の年代物だ。

専務「私どもは、太宰府天満宮の大祭の時に、牛車を牽く牛を代々守ってきた家でしてね。まぁ、現在はさすがにここで牛を飼うことは出来なくなったので、余所にお願いしてますが」

けんじ「粕取の蔵元が、太宰府の神領田に分布しているのが面白いところですが、大賀さんも深く関係がありそうではないですか?」
専務「うちがいつから粕取焼酎を造り始めたか、記録が解らないのでなんとも言えませんね。でも、私が物心着いた頃からあったのは確かです」

けんじ「今後の粕取焼酎を造られる上での、展望といいますか、将来はどのように?」
専務「福岡の地焼酎として、現代的な嗜好にあった吟醸粕取を前面に押し出したいと考えてはいるんですよ。鹿児島の芋、熊本の米、壱岐や大分の麦、みたいな産地と原料のイメージがまだまだ薄いですから」
猛牛「なるほど。確かに、別の粕取蔵でも、正調粕取焼酎は原料の酒粕の確保が困難で、吟醸粕取への移行を考えられているところが多いようですばいねぇ」


■やはり原料粕の確保が、大問題!

ここから、各県の粕取蔵が抱える原料粕の問題へと、話題は進んだ。

専務「伝統的な粕取焼酎を造るためには、原料の酒粕が極めて少ないんですね。うちが造る一般酒の粕ではとても足らないんですよ」
けんじ「それは佐賀県の蔵元さんからもお話を伺いました」

専務「灘などの大手の蔵元さんが、融米造りってされているでしょう?」
猛牛「原料米を“お粥”みたいにするやつですばいね?」
専務「そうなんです。粕が残らない造りが増えたので、自動的に原料が不足するんですね。今は、清酒を飲まれる方が二極化していると思っています。高級な吟醸酒と日常的な安価なもの、ちょうど中間がすっぽ抜けているんです。だから、一般酒から生まれる酒粕が残りにくい現状にあると言えるんですよ」

正調粕取を応援する立場のわてらとしては、旗色の悪い話である。

消滅の道を辿る正調粕取は、ソフト化の嗜好に合わず、飲みやすい競合酒が若い世代に浸透し、馴染みのユーザーの数も減少したことが凋落の大きな原因ではある。しかし、原料面における構造的な問題がそれを後押ししている。

筑後では地元の酒が飲まれず、大手蔵の安価な商品が幅を利かせているという話も聞く。大衆の“日常酒”の原点とは何かを考えさせられる話だ。


■街のど真ん中で、さらに歴史は続く・・・。

蔵内部を見学させていただく。

大きなタンクが林立する風景はお馴染みだが、清酒蔵らしい低温保冷倉庫を拝見した。ひんやりとした空気は、台風北上で湿度が高い外気と違って気持ちいい。

清酒の一升瓶が入ったP箱が見上げるほどに積まれている。ここでしばらく出荷までの時を過ごす。最高級酒が入った斗瓶が冷蔵ケース内に大切に保管されていた。

けんじさんの眼が輝く。彼は日本酒についてもオーソリティである。

ふと床を見ると、製品化された奈良漬けの桶が積まれていた。正調粕取焼酎の命脈を別の形で伝える“生命線”のひとつだ。

外に出ると、屋根の向こうにそびえるマンションが、正面に見える。この蔵の立地をそのまま物語っている。

街の中に蔵がある、というと順番が逆だ。街が勝手に周囲に増殖したのだ。

大賀酒造さんは、記録にある江戸時代から、そして多分それ以前からの歴史をずっと守ってきて、いまも在る。粕取についてもずっとそうあって欲しいと願っている。

帰り際に、けんじさんが清酒の『玉出泉』を購入した。わてはといえば、パチンコに負けて金がないったいねぇ~これが。申し訳なくも、未購入(すんません)。

そこで専務が『吟醸焼酎』を我々にプレゼントしてくれた。ありがたく頂戴し、けんじさんに託す。もちろん粕取焼酎の“現在”を伝えるための「資料」としてである。

ま、原稿がいつになるかは、未定だが。


■2022年注記:大賀信一郎氏は現在社長となられ、ご子息喜一郎氏が跡を継ぐべく蔵に入られている。オンラインショップで拝見する限り、吟醸焼酎「太宰府」はカタログに記載されている。


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