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福岡県における芋焼酎受容のはじまりについて探る(2)

2002.10.02 by 猛牛
20年前の福岡市の繁華街・大名界隈

【「霧島黒千代香」縁起・後日談】

■『霧島銘黒千代香』の不思議なご縁で・・・。

浮世のご縁は、不思議なもんですばい。

◇   ◇   ◇

9月の2日に、当探検隊をご覧になられたある方からメールを頂戴した。

はじめまして。
先日、黒ジョカ(黒千代香)について調べておりましたら、貴隊運営の九州焼酎探検隊HPにたどり着きました。

その中で、貴隊が「権兵衛」さんに行かれた事があるのを知り、権兵衛ファンの私は2倍嬉しかったです。ご存知かも知れませんが、「権兵衛HP」アドレスをご報告いたします。

「焼とり鳥権兵衛」

あと、失礼ながら操作性の改善点を挙げさせていただきますと、ホームページに焼酎検索機能などがついていると、より読みやすくなると感じました。最近の個人的な芋焼酎お薦めは、割って良し、ロック良し、値段良しの「亀五郎」にはまっています。

この方が検索で発見されたページは、たぶん去年の3月に書いた「『霧島』黒千代香三代」という稿だと思った。

それは、わてが17年前に北九州市にあった『焼とり権兵衛』という店で『霧島』銘入りの千代香を当時の大将から貰ったいきさつ、そして17年後に福岡市のグループ店でふたたび『霧島』千代香を頂戴したエピソードをまとめた、極私的なお話。

とにかく、わてにとっての本格焼酎初体験をする所となった『権兵衛』は、青春の想い出として思い入れがある店なのだ。HPがあることを知らなかったが、ご教示いただいてうれしかった。そうやってメールをいただいたのも、何かのご縁かなと思っていたところ・・・。

名店「権兵衛館 大名」

■『権兵衛』の大将が、わての横にいらして・・・

先週、9月26日、夜。福岡市中央区大名にある『権兵衛館』のカウンターに陣取って、「黒千代香(お湯割り)」×2個、鳥皮×10本、ダルム×2本、大豆の唐揚げ×1鉢という、MY定番ダレヤメの最中。いつもは焼き方で忙しい大将(株式会社コガ社長・後藤正行氏)が、わての横にいらっしゃった。

「牛さん、あなたはHPでうちのことを書いてくださったでしょ? 実はそれを見たある方が、北九州市の店を預かっている高木という店長に連絡されたそうで、その話をまた高木が北九州ブロックを仕切っている自分の父親に知らせたそうなんですよ。

で、父親の方の高木が、17年前に牛さんに千代香を渡したのは自分じゃないかって言ってるんです。で、とにかくどんな人なのか、会えないかと言ってましてね」

焼き方で多忙を極める後藤社長

あんまり突然でビックラこいた。その高木氏があの時、わてに黒千代香を呉れた人だったのだろうか? たとえ違っていても、どちらにしろ懐かしく、またうれしい話である。

10月1日にその高木氏がいらっしゃるというので、その時に連絡をいただくことになった。

ん~~ん、あの『霧島』銘千代香を貰った時のことが甦るにゃ~。当時は、それが千代香という名前の器だったことさえ、知らなかったけどなぁ・・・。

■古賀会長、高木社長が語る、「権兵衛」焼酎史。

1日の午後6時。待ち合わせ場所の大名「権兵衛館」に入る。しばらくするとお二人の紳士が現れた。「権兵衛」の総帥・(株)コガ・古賀貞己会長と北九州を治める北九実業(株)・高木博巳社長の両氏である。古賀会長は御年71歳、矍鑠としてらっしゃる。

わても正直言うて、アガリましたわ。そりゃ初対面、しかも思い入れの深い「権兵衛」の首脳部なのであるからして、ちと最初は硬くなりましたですにゃ。画像撮影は店内が満席となったため、迷惑になったら失礼と撮影を諦めた。

話をいろいろ伺っていると、千代香をプレゼントしてくれたのは別の方だったのが判明した。しかしながら17年前の時点でさえ『霧島』を千代香で飲ませるというプレゼンテーションをやっていた「権兵衛」である。店の成り立ちから始まって、焼酎のことへと話を探っていった・・・。

高木社長「私は会長のことを“おやじ、おやじ”と言ってるんだが、おやじが最初店を始めた時は、名前が無くてね。それで名前をどうするかって言ってたら、“名無しの権兵衛”だから、じゃぁ『権兵衛』にするかってなったんだよ」
猛牛「なるほど。それで『権兵衛』と・・・」
高木社長「開店が、昭和42年(1967年)だったかなぁ。」
古賀会長「そうだね。42年か43年、その頃だろう」

高木社長「開店当時は、『白○』を入れていたんだよ。あの当時、『白○』がこっちにもだんだん入ってきていたから」
猛牛「その頃は、どんな飲ませ方ば、されよったとですか?」
高木社長「そりゃもう、お湯割りなんて言ったら、ヤカンのお湯をドドドドッ!ってやっていたもんでね。ははは。」
古賀会長「うむ。」

高木社長「それから2年ほど(昭和45年前後か?)して『霧島』に切り替えたなぁ。『霧島』さんはサービスが良くてね。それからずっと『霧島』だね」

猛牛「当時は、本格焼酎はどれくらい人気があったとですか?」
高木社長「焼酎って、やはり値段が安かったし、あの当時は貧乏なイメージがあったでしょう? 北九州は甲類、福岡では日本酒が強かったからねぇ。バクダン焼酎とか安酒というイメージがあったからなぁ。それに芋焼酎は匂いが立つから、臭いって敬遠されて、なかなか出なかったねぇ。それが今では一番焼酎が売れるようになった・・・」
猛牛「それにしても、早かですね、昭和40年代の半ばには店頭化されちょったとは。わても酒屋のバイトやっていた昭和52年(1977年)頃でも、本格焼酎は少なかったですばい。」

古賀会長「本格焼酎は味があるでしょうが? だから甲類よりも本格焼酎だったんです」
猛牛「それと、黒千代香で飲ませるという演出ですばってん、それも今になって思えばあの17年前の時点ですでにやられていたのは凄いなと思うたとですが。回りが今になって追いついて来たちゅーかですね」
古賀会長「いや、あれが普通の飲み方、それが当たり前だと思っていたから、やっていただけです。特別に意識したものじゃなかったんですよ」
猛牛「うむ。なるほど」
古賀会長「いま使っている千代香もだいぶ古くなったんで、新しいのは無いかと『霧島』さんに聞いたら、もう造ってないって言われた。困ったなぁ。ははは」

猛牛「以前、後藤社長から、うちの『霧島』は割り水して1日置いて出していると伺いましたけんども・・・」
古賀会長「そうですよ。うちはきっちりと前日の何時から何時までって、時間を決めて寝かせてますね。味がまろやかになるでしょうが? 風味が良くなるっていうか。それは『霧島』に替えてから、ずっと続けていますね」

猛牛「この『霧島』千代香のお湯割りといただく『権兵衛』の鳥皮。わてはもう20年近くなりますばってん、焼き鳥界における最強のコンビやと思うちょるとです」
高木社長「鳥皮はうちの不変の定番ですけど。いま、新しいものを考えている最中でしてね。ちょっと食べてみますか?」

というわけで、後藤社長手ずからの新作を3点ほど試食させていただいた。もちろん詳細は書けないが、掛け値無しに酒飲みにはタマラン味だった。わてとは違ってS級グルメ派の家人が「権兵衛の大将は、正統派の日本料理店で腕振るっても美味しいと思うわよ」と、その料理センスと細かな心配りを誉めていただけのことはあった。

◇   ◇   ◇

北九州から福岡本部に出向いていた高木社長だったが、8時過ぎに北九州城野店・店長である御子息が車で迎えに来るという。時計を気にされていた高木社長だったが、8時15分くらいにお迎えがいらした。奥様と美男の御子息のお二方である。

しかし。そのままお二人も宴席に入って、結局10時前まで飲んでしゃべっていたのだった。ドドドドドドドー!っと、千代香何回お代わりしたことか。にゃ~、飲んだ飲んだ、食った食ったぁ~。満足!!!

浮世のご縁は、ほんに不思議なもんですばい。

17年前からいろんな想い出を、そして今また新しい想い出を作って下さった「権兵衛」さんに感謝です。ありがとうございました。「権兵衛」さんの益々の御繁栄を、オールド・ファンの一人として、祈っておりますばい。

(了)


■2022年追記:芋焼酎の普及は、この時の古賀会長と高木社長のお話からして、昭和40年代後半あたりからと見てよいようです。

「前割+ジョカ」で提供することが喧伝されたあのブームの渦中、すでに昭和の頃から”先駆的”な取り組みを『焼とり権兵衛』は行っていたわけです。この前割『霧島』ジョカと鶏皮の組み合わせが絶妙に旨かった。

私は、20歳台半ばだった1985年くらいから『権兵衛』さんの鶏皮と『霧島』(現『白霧島』)で鍛えられて芋焼酎が飲めるようになったようなもんです。それくらい『権兵衛』には想い出がありますな。

ここで私的義憤をひとつ。

ここ数年なのか、”とりかわグルグル巻”なる串にぐるぐる巻きにして煮込んだ鶏皮が受けているようで、オススメとりかわ店10選みたいなサイトもよく見かける。で、覗いてみると、わては驚くわけです。

元祖中の元祖、始祖鶏である『焼とり権兵衛』さんが載ってない、ことが多い。

まあ、そういったのはパブ稿が多いのかもしれないと言えばそれまでだけど。今はまねっ子が増えたのかも知れないが、わてが知る限り、昭和の時代からあの”とりかわ”は『焼とり権兵衛』だけだった。

味の好みは個人差があるから致し方ないとしても、”とりかわ店●●選”なんて企画に『焼とり権兵衛』が入っていないなんて、絶対にあり得ないのよ。ふざけんでねえ、と思うわけざんす。


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