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国分酒造 焼酎イノベーションの系譜(4)-『いも麹芋』

2002年、全国的に本格焼酎ブームが勃発した。

“芋焼酎らしくない芋焼酎"が話題を呼び、
これまで「臭い」と忌避された事が嘘のように脚光を浴びた。

街には、さまざまな銘柄を揃えた「焼酎バー」が林立、
一部の店では高額なプレミア価格の「幻の焼酎」が棚を飾った。
東へ北へ、全国へ、燎原の炎の如くブームは拡大したのである。

しかし、その一大ブームのはるか以前、
芋焼酎が業者や消費者から見向きもされなかった冬の時代。

各地の蔵元を熱心に巡って、現場を知り実情に耳を傾け、
本格焼酎の可能性に賭けた酒販店もあった。


酒のこばやし 小林昭二

小林昭二氏

本格焼酎業界で「小林氏を知らねばモグリ」と言われる程の有名店主。
東京江戸川区に店を構え、取引する焼酎蔵の数は国内でもトップクラス。
焼酎が一般的でない時代に、関東で取組をはじめた酒販店の魁けの一人。
著書に『こだわり店主がズバリ選んだ本格焼酎55』(日経ビジネス人文庫) 。

1957年:東京・中央区新富町生まれの、生粋の江戸っ子。
1983年:家業である酒屋「小林食品店(酒のこばやし)」を継ぐ。
1980年代後半:それまでの一般酒販店からの脱却を試みはじめた。「日本の酒」として本格焼酎の可能性を確信し、蔵元直送の商品を販売開始。
1990年代後半〜現在:新聞や雑誌などマスコミから、取材や銘柄紹介の依頼を多数受ける。

2005年:日経ビジネス人文庫より『こだわり店主がズバリ選んだ本格焼酎55』を出版。


【いも麹芋】

1998年10月 PB発売
1999年12月 全国発売
業界初の、芋麹を使った芋100%焼酎。
杜氏・安田宣久にとって「現代の名工」や「黄綬褒章」
など表彰の大きな理由となった作品。

当初はアルコールがなかなか出ず、もろみの廃棄にまで追い込まれそうになったが、研究の深化により”蒸した芋に直接種麹を付けて発酵させる
固体発酵による芋麹の製法”を確立した。

一大焼酎ブームが到来する5年前の1997年に取り組みが開始され、
翌年に商品化が実現。
1999年に全国発売が開始されブーム全盛時に国分酒造の存在感を示した。


「なぜ芋には芋100%焼酎がないのか?」
その疑問に応えるべく、はじまった挑戦。
それは「芋焼酎=米麹」という強固な呪縛をくつがえす作業だった。

「なぜ芋には芋100%焼酎がないのか?」。1997年、地元酒販店の問いに押されて、”いも麹”造りへのチャレンジが始まった。

当時、芋焼酎造りに使われる麹は全て米麹であり、それが疑うこと無き”常識”だったのだ。

”いも麹を使った芋100%の焼酎造り”へ取り組むための最初のステップは、自身の内にある”芋焼酎=米麹”の固定概念を打ち破ることにあった。

安田自身、この経験で芋焼酎造りの面白さや可能性をそれまで以上に感じるようになり、安田の芋焼酎造りの転機が、”いも麹”造りへのチャレンジによってもたらされた。

国分酒造は1997年12月、日本で初めて”いも麹を使った芋100%の焼酎造り”に踏み切ったのである。

失敗を覚悟の上での取り組みは承知で、仕込みは他の芋焼酎の作業が全て終わった、最後の最後に実行することにした。


蒸した丸芋に直接種麹を付けて造る「固体発酵法」による芋麹

「もろみのアルコール度数が上がらない!?」。蔵に漂う絶望感。
しかし、もろみの廃棄が目前になった時、状況は一変した。

当初から予想されたことだったが、水分の多い芋からアルコールを出すことは困難を極めた。

もろみのアルコール度数が5%を超えないと蒸留ができないと言われていたが、なかなかその水準まで上がってくれないのだ。
「あと1日か2日でアルコールが出なかったらもろみを捨てよう」と、正直なところ絶望の空気が蔵に充満したのである。

しかし、その翌日からアルコールが上がり始め、最終的には7.6%となり、蒸留することが叶ったのだった。この時ほどうれしかったことはない。

蒸留直後のアルコール度数が27%、10カ月ほどタンクで熟成させて26%となり、1998年10月、日本で初めての芋100%焼酎『いも麹芋』は世に放たれた。

アルコール26%の原酒、5合瓶で1,000本、初年度は地元酒販店のみの販売。尚、この時の想いを忘れないため、現在でも26%で発売している。

初年度での大変な苦労をバネに、2年目以降は安田が研究を重ね、アルコール度数も徐々に上がり、次第に安定した造りが可能となった。

そして、芋に乾燥・細断などの特殊な加工をせず、蒸した丸芋に直接種麹を付けて造る「固体発酵法」の考え方を取り入れた、安田は独自の”いも麹”の製法を造り上げていった。

1999年秋に3年目の『いも麹芋』の仕込みが行われ、1999年12月、ついに全国の特約店での発売がスタートした。

◇◇◇◇◇

『いも麹芋』のチャレンジを開始した1997年から20年後の2017年、「蒸した芋に直接種麹を付けて発酵させる固体発酵技術による芋麹の製法を確立し、芋麹による芋100%焼酎を開発した」ことを業績の一つとして、安田は厚生労働省より『現代の名工』という名誉を受けた。


『いも麹芋』よもやま話

小林:この焼酎が世に出た1998年頃から、市場では黒麹仕込みのどっしりとした飲みごたえのある焼酎を求める声が多かったんです、そんな時代でね。

そこへ100%さつま芋で造った芋焼酎が登場した。芋だけで造りながら、米麹を使った芋焼酎よりもソフトでね。新たに芋焼酎を飲まれる方へお奨めしたんですよ。

一杯目は旨いが段々飽きる酒より、食中酒としてくどく無く飲み飽きしないと言う事は、非常に大事な要素です。

当時私も若かったので飲みに出かけると午前3時4時が当たり前でしてね、飽きずに飲める酒が好きでした。

因みに私は数多の蔵元さんと飲みましたけど、笹山さんが一番酒が大変強いね、賭けてもいい。

いつだったか、取引先の飲食店で3名で飲んだ翌日、「昨夜はいも麹芋を2升半飲んだ」と店主に言われてびっくりしましたが、笹山さんが2升だったと思います(笑)。

○○○○○○○

笹山:1999年12月に『いも麹芋』の全国発売を開始しましたが、国分酒造としては初めて、特約小売店さんのみの”限定流通焼酎”として発売しました。

国分酒造ではそれまで、できた焼酎を地元の卸問屋さん経由で販売してきたんです。

しかし『いも麹芋』は自らの手で地道に売っていきたいと考えて、特約店販売制度のことも知りました。

初めて、卸を経由せず、小売店さんに直接出荷する方法を採用したのです。

小林さんとも、そんな中で知り合うことができ、いろんなことを教えてもらいました。

焼酎ブームが来る前で爆発的に売れたわけではないのですが、それ以前の県外出荷がほぼゼロの状態から、着実に県外での出荷数量が伸びてゆきました。

小林:でも笹山さんは、家では奥様にお湯割り2杯までと決められているそうで、物足りないとバカでかいコップに代え「2杯は2杯だ」とのたまうミクロな戦いをしているそうです(笑)。

国分酒造のいも麹をまねた焼酎も沢山出てきましたが、他社では「芋」のままで麹を造る技術が無く、乾燥芋のチップで麹を造る為にセメダイン臭が邪魔した焼酎ばかりでしたね。

それでも当時、笹山さんも安田さんも少し不安は覚えたようで、横浜で飲む機会があった晩「大丈夫ですよ。人真似・パクリの商品はパイオニアを押し上げる効果はあってもトップに成れず直ぐに消えます」と申し上げたんです。

そして私は「芋麹の焼酎は国分さん以外は扱いません」と断言したのです。

結果は、かつてドライ戦争と言われたビールの歴史が証明していますね。今では芋麹と言えば国分酒造さんの代名詞ですよ。

○○○○○○○

笹山:県外出荷が増えるのを楽しみにしていた父も、着実な手応えを感じながらあの世に行ったと思います。

私どもが『いも麹芋』を発売してから、芋100%焼酎に追随する動きが出てきました。更に大手の参入もあり、少し不安を覚えたのも事実です。

しかし小林さんはじめ特約酒販店の皆さんが、芋100%焼酎のパイオニアは国分酒造だと、常々言っていただいたおかげで、今でも安定的に売れています。

19年前、小林さんと有志が中心になり、”笹酔会”なるものを立ち上げて、みんなで面白おかしく飲んだことが、とても楽しい思い出として、今でもしっかり脳裏に焼き付いています。

今はさすがに若い時のような量は飲めませんが、家での晩酌はちゃんとやっています。ちなみに2杯ではなく3杯です(笑)。


(5)へ続く。


一部画像は「めぐりジャパン」さんの記事より承諾を得て転載させていただいております。


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