生きることは自然と一体となること
父とLINE電話でオンライン面会をした。
いや母もいたんだけど。
衝撃だった。
母はいつも同じ。
当たり障りのないことをはなしして、
常識的な人のふりをすることができる。
なので、認知症が進んでいても、
一見すると、
全くバレない。
上手に我慢し続けることができる人なのだ。
子ども時代から我慢することで生きてきた。
自分の気持ちなのか、
なんなのか。
じぶんでもわかっていない。
だから、30代40代の頃の母と私のの関係を思い出すと、ものすごく不思議な関係だったのだ。
あんたみたいな考えをしたことがないとか。
自分は我慢しかしたことがないから、
考えるなんてしたことはないとか。
まあ、しんどかった。
だから20で家を出たんだけど。
そして父だ。
オンライン電話の開口一番。
お金が欲しい。
と連呼してくる。
連呼するが、でもここにいたら、
なんもいらんねんけどな。
この中では、お金持ってたらあかんし。
という。
もう途中でおかしくなりそうだった。
これって、父は今までどんな気持ちで生きてきたのか。
お金がなくて、本当に苦労したという。
子どもの教育費とかにお金を使うつかうことは意味がないという。
ただひたすら、お金を持つことが必要だという。
まあ、認知症になるとお金にこだわる人が多いというが、
舅の場合は、お散歩の時飲み物を買うのに欲しいとか、
本が買いたいから欲しいとか、
目的があったのだ。
父はお金を持つことが目的。
使うことじゃないのだ。
ひょっとしたら、
自然を愛し、命を守り生きていた、
縄文マインドと反対側な考えなのかもしれないと。
その反対側にある、お金に心が奪われたカルトマインドなんだと気がついた。
父も元々は、そうじゃなかった。
いつしか、会社のための心を捧げる。
そうカルトな心に盲信してしまった。
会社教というカルトに。
父の姿を見て、
父は会社教に心を捧げて、
お金の意味がわからなくなっているのだ。と気がついた。
自分の存在自体がお金でしか示すことができない。
洗脳されているから、
私のことは理解できないし、しようともしない。
私は、カルトの子だったんだ。
だから、若い頃から、カルトマインドが近づいてくることが多々あったというわけさ。
そこから自分が脱却するために学んだ。
自分を理解するために学んだ。
そんなカルトマインドに子どもたちの心が搾取されないために、
仕事をしてきた。
そんな私は、
父との関係を表面的によくしようなんて思っていない。
カルトマインドな父の気持ちは私が解決できるなんて思っていない。
私は、家族が大切で、そんな父ですら、
どうやって理解しようかと思っているのだ。
田舎に連れて行ってあげたい。
墓参りさせてあげたい。
ただそれだけなんだ。
私は私の道を歩く。
それでもやってくるカルトマインドは、私の心のどの位置に入ろうとしているのか。
そんなものはどこにも入れない。
どこにも入れない。
子どもの頃から、なんだかぎくしゃくして、
世の中の動きについていけない自分がいた。
これか。
自分を生きることが当たり前で、
縄文マインドで生きるために、
毎日を過ごしたいという、自分と、
会社教をはじめとする、
カルトな気持ちがベースにある今の日本社会とにギャップ。
物事の考えの中にお金がジャラジャラと見え隠れしている
カルトな人たちがやたら気持ち悪い。
いかにしてお金を儲けるのか。
お金でなんとかできる?
実はこんな映画を見てきた。
ここで感じたことは、
生きるために自然と一体化して生きる。
これが、今の社会にかけてるんじゃないの?
一次産業を大切にしてこなかった。
だから食糧自給率がものすごく低い。
ホワイトカラーな仕事が良いという思い込み。
汗を流して働くことは自分たちの仕事ではないという考え。
いかにして要領よく、
お金を儲けるかが全てである今の日本。
カルトマインドが蔓延している日本。
自分の考えよりも、誰かがなんとかしてくれることを期待するがために、
洗脳されやすくなってるのかもしれない。
人生の最終章を爆進する両親を見て、
どうしてあげたら良いのかわからないけど、関係性が厳しいのは、
共依存を求めてくるカルトマインドが根底に流れているからだと気づいてしまった。
私はそれに気づくために、
新しい何かを求めて生きているのかも。
当たり前の毎日を大切にしよう。
それだけだ。
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