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遠山啓への見解

1 はじめに 「自分にとっての算数観」
 算数には自分自身かなりこだわりをもって授業をしてきた。算数は技能教科だと思っている。できるから、問題が解けるから、算数は楽しい。その点で体育とかなり似ているのだと思う。できるから楽しい。跳び箱が跳べない子が跳び箱の学習を好きになるだろうか?当然楽しくなければやる気も起きない。
 算数は毎日ある。毎日の算数がわからないと、学校にいくのも嫌になる。毎日毎日君はダメだ、と言われ続けるような教科なのだと思う。つまり自尊心に直結するような教科なのだ。だからこそ、子どもたちをしっかりできるようにしてあげることが教師としての務めだと思い、こだわって授業してきた。そのために、特に大事な指標としてきたのは、ワークテストの平均点だ。子どもたちがきちんと理解しているのであれば点数が取れる。点数をとらせられないなら、それは教師である私の教え方に問題があったのであり、子どもたちの責任ではないと思ってきた。私にとってワークテストの平均点は、毎単元ごとに私の教師としての成績なのだった。だからクラスの平均点90点以上というのは、毎回指標としていた。平均90点というのは簡単ではない。点数が低い子が何人もいる状況ではとても達成不可能である。だからこそ、苦手な子にどれだけ寄り添って教え、できるようにさせたかが見て取れる指標なのである。私にとって算数が苦手な子たちができるようになったか見るための指標だった。
 今回、名前だけ知っていた、遠山啓という人物について知り、思うところが非常に多かった。ここに自分なりの見解を記しておきたい。

2 遠山啓の思想と自分の見解

(1)算数を学ぶ理由

 『お母さんもわかる水道方式の算数』で、遠山は、算数を学ぶ理由を説明している。21世紀は科学や技術が大変発達した時代になるため、21世紀に活躍する子どもたちはその知識を身につけていなければならない、ということである。そのため、普通の人でも、科学技術の基礎となる、算数を小学校からしっかりと身につけておかなければならない、というわけである。
 現在、遠山の指摘は現実となり、STEM教育をはじめとして、文系、理系というくくりではなくリベラルアーツとして算数・数学は修めておかなければならないものとなっている。私も修士論文を書くために、どうしても数学の知識がいることを痛感している。そういうことがわからなければ論文も読み解けず、数字で社会を見ることができない。数字による情報を読み取り、解釈できる力は極めて重要な力である。今から50年も前に、こういうことを予見していたという点において敬意をもった。

(2)なぜ算数がきらいになるのか?

 遠山によれば、子どもたちが算数が嫌いになるのは、暗算偏重であり、こねくり回した無駄に難しい問題が原因という。異論の余地はない。小学校での鶴亀算批判がこれにあたる。方程式を学べばとてつもなく簡単なのに、これを小学生の知識で行うには大変無理がある。今でも中学受験では必須の内容だが、教科書に載せてまで全員にやらせる必要はないと思える。解けそうで解けない難しい問題を子どもたちは好む。しかし、そういったもの解けることを必達目標に据えたとたんに子どもたちから目の輝きが消える。そこまで難しいものをやらせることの弊害を強く感じていたのだろう。

(3)算数を好きにさせるには?

 遠山は、適切な難度の問題を与えることや個別的な算数の必要性を挙げている。まさに現在求められている、個別最適化された学習である。
 基本的には賛成であるが、ただできれば好きになるのか、というとそうではないと考える。やはり、子どもたちは、算数はできるし、わかるのだが、好きではない、という子たちもいた。もう少しそういう感想を持った子たちに対して深く聞き取ってみたいところだが、おそらく相対的に、他教科と比べて、という要素もあったのではないかと思う。しかし基本は嫌いではない、というラインにはなっていたと思う。
 しかし算数・数学は一方で娯楽になるくらい楽しい要素もあったわけだ。江戸時代には算数は娯楽だった歴史もある。わからないから面白いという側面を完全に切り捨てるわけにはいかない。何事もオールオアナッシングということはないのだ。文科省は現在、個別最適な学習と合わせて、孤立化された学びにならないよう、協働的な学びも同時に行い、深い学びに至らせたいのである。基本的な内容についてはしっかりわかるようになるよう、個別最適な学びを行い、協働的な学びの中で、ともに難しい問題や現実社会に対する数字の読み取りなどを行っていくことが算数を好きにしていくのだと考える。

(4)水道方式論について

 「数え主義」ではなく「量から数へ」。
 「暗算」ではなく「筆算」。
 算数の目的は、数や量や図形の知識と能力を身につけさせることであるとする。水道方式は「練習の基本を確実に身につけさせる」。素過程を組み合わせ、複合過程にいく、この連続性の構造を水道方式という。
 現在の教科書の構造に非常に大きな影響を与えたことは間違いがない。この基礎を作ってくれたのだと思い、本当に敬意を表する。偉大な先人だ。

(5)テスト点数主義・序列主義への批判

 70年代、遠山は養護学校でのモンテッソーリ教育の経験から、テスト点数主義・序列主義への批判を行ったとある。人間として生まれたからには、人間として育てる、という教育観を遠山は持っている。
 テストは序列のために行われているというテスト観、教育観に立っていると思われる。テストには形成的評価の側面があり面はこの時代にあまり考慮されなかったのだろうか?確かに大学入学などの試験には序列化のために行われる。誰を受からせて、だれを落とすのかが不明確では説明できない。だからこそ序列化が必要なのはわかる。おそらく、当時、競争社会の煽りがそのまま教育にもたらせれていたのだと推察される。それを強く批判したのが遠山だったのだろう。学校教育が受験のために矮小化されてしまうことへの批判なのだろう。

(6)自立した人間を育てることが目的

 遠山は、子どもはなまけものである、という観点は誤りであるとし、競争心を持たせて努力させる教育観に反対している。他人にこだわり、自己発見を妨げてしまい、自立できない人間になってしまう、ということである。よい学校とは、やればできる、という自信をもたせて、卒業させられる学校であるし、一生涯悔いのない目標を発見させられるところであるとしている。
 自立した人間に育てることには異論はない。また、競争心を持たせて努力することに対する批判も納得できる。競争をあおり、努力を急き立てるところに、学びの意味もない。しかし、子どもは怠け者ではない、という点について異論がある。そもそも人はなまけものである。大人も子供も怠け者だ。しかし、それには一定の条件がつく。興味のないものについて、やらなければならないことについては怠け者なのだと思う。教師だってセミナー等で笑顔が大事だとわかっていても、その1週間くらいはやる気が持続しているかもしれないが、忘れてしまう。またもとに戻ってしまう。その大事さを気づかせてくれるメンターがいるとそれがしっかり身についていく。子供だってそうだ。興味があるものはどんどん学ぶ。自転車が好きになったら、際限なく知りたいと思い調べたり、試したり、努力を惜しまないだろう。しかしそうではないものについては進んでやっていこうとはしない。大事だな、とわかっていてもである。だからこそ元来人は怠け者なのだと思う。だからこそ、遠山のいうように、やらねばならぬことについてはきちんと自己効力感を持たせ、教師がメンターとなり、続けさせていく必要があるのだと思う。

3 おわりに

 名前だけは知っていた遠山啓。教育史において、大変重要な人物であったことが分かった。なんと偉大な先輩かと。
 教育はリレーであると思う。すぐれた先輩たちが考え、開発し、引き継がれてきたことを私たち教師は何も考えることもなく行っている。教科書の構造、指導方法細部にわたり、先人たちの仕事を引きついで行っているんだなぁと思うと本当に感謝の念を強く持てる。歴史を学ぶという一つの意義なのだろうと思う。

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