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「ファシズムvsアンチファシズム」を解体できるか?(2)「悪」と「正義」の非対称性

前回はファシズムに関する私の認識を述べて終わった。

次に、アンチファシズムについて同様に私の認識を述べたい、のだが。

その前に注意してほしい、私の中での「前提」がある。

「悪」と「正義」は論理的なレベルで非対称である。ゆえに、単に「どっちもどっち」論では終われないし、それは意味がない。

どういうことか?

私がまず主張したいのは「悪」はテーゼだが、「正義」はそれに対するアンチテーゼでしかないという事実である。

ヒーローアニメやら、物語を思い浮かべて頂いたほうが良いかもしれない。ただし、ヒーローが孤独に戦うやつではなく、戦隊ヒーローとか、ヒーローが所属する組織があるものを考えて頂きたい。

悪の首領には、野望がある。世界に対する確固たる認識、変更すべきだという政治主張、そのための実行力を有している。その過程で他者を、既存秩序を侵害する、これが「悪」である。自己完結しており、正義の存在は不要だ。

これに対し、正義の味方は全く異なる。

正義が第一に問題とするのは、他者への侵害だ。これを防ぐことが正義の究極目的である。それを起点に、残りが要請され、導入される。つまり、悪に対する結束のために統一された世界観、そして反抗すべきだという政治主張、そしてそのための実行力、これがいわば逆形成される。

そして、一度戦いが始まると、悪は正義を認識し、「悪」vs「正義」という対立構造が生まれる。これは一方が他方を滅ぼすか、少なくとも何らかの形で実行力を奪い去るまで終わらない。

戦いが武力なら、戦争で決着がつく。だが、言論だけで戦う場合、決着などありえない。決着には、思考洗浄か言論弾圧が必要である。これは先進民主主義国家ではまず無理なので、永遠に相争う。

もちろん、宣伝や批判、教育によって勢力を弱めることはできる。だがその逆もありえるので、いつものコミュニケーション競争だけが起きるという寸法である。これはもう詳しく述べない。

さて、これの対立を「解消」、もしくは「停戦」するにはどうすべきか?

「悪」の世界観や政治主張そのものは直接の目標ではない。どうやって「実行力」の側にアプローチし、その「悪」を削るか。これが主眼である。この観点から見ると、明確な非対称性が存在する。

悪の組織は実行に際する「悪」をはじめから「副作用」として許容している。つまりあらゆる行動に対して一貫可能である。

一方、正義は実行に際し「悪」をなしてしまった場合、正義という構造自体が崩壊してしまう可能性がある。なぜなら、悪側の実行に起因する「悪」をなくすというのが「目的」であり、出発点であるからだ。「矛盾」は世界観自体の破綻を招く。

要するに、実行力の全力行使に関し、「正義」は常に不利だ。

これは論理的に自明なのだが、これを指摘すること自体が「正義」に対する攻撃のようにみなされてしまうのが、今のコミュニケーションだった。

この手の「矛盾」を素朴に指摘して、政治運動者を激怒させてしまった経験のある方もおられるかもしれない。

実行力だけで全力闘争を行わなければいけない場合、なんとかこの矛盾を隠蔽し、手段を尽くさない闘争で拮抗するのが局所最適解となる。

ゆえに、とくに争いが激しく、致命的で、かつ「正義」側が少数派勢力の場合、その運動はつねに行動と主張が矛盾し、それを隠蔽するために内部統制を行い、第三者からの指摘を無視するため排他的になる。これらの現象を認識することすら拒否し、まるで狂信者のようにふるまい、勢力はますます孤立する。

これは必ずしも「正義」の構成員が悪いのではない。私のnoteの一連の主張は、正義vs悪を取り巻く世界全体の「場」に信頼感がない、つまり実行力だけで全力闘争を行う以外の方法がないのが問題だという観点だった。実際、上記の構造に個人が抗うのはまず不可能である。何らかの運動に真剣に参加された経験、またはそれを眺めた経験が一度でもあれば、これも理解できると信ずる。

前置きにしては長すぎたかもしれない。

だが、この観点はアンチファシズムの実情を見る前に持って頂きたい観点だったので、別論として分離した。

ではいよいよ次でアンチファシズムを解析していく。



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