2020_04_16

宿酔爆弾は無情にも投下され、被弾。しかし炎の料理人としては爆死している訳にもゆかず、朝から鍋を振る。ここのところまた、異常に料理をしている。それがとてもココロのバランスに良いというか、単純に救われるところがある。

食べるとは、正に生物の根源、生きるために何を差し置いても行わなければならない行為。寝ても覚めてもグタッとソファでAmazonプライムやNetflix見てても減るものは減るのが腹である。んじゃ、一日のうちに2回か3回かは確実にこなさなければならない食事を少しでも良質なものに、少しでもそのときの気持ちに沿った、自分が食べたい物を頂くという欲求は、ココロにとって大切に決まっている。

それと同様に、そんな気持ちに応えるべく、満足して食べてもらいたいな、と思って料理を作る側に立つ、というのもとても素敵なことです。これがナウの自分であって、それこそに救われるのである。おいしいと食べてくれる人たちがいる、というのは幸せなことであって、そのためだけに自分は料理をしているのだと思う。

自分がこだわって、愛情を込めた料理など自分は食べたくない。それは自分のために作ったものではないから、自分で食べても美味くもなんともない。もちろん味的には美味いものを作ろうと頑張ったのだから、美味いのかも知れない。でもその気持ちは自分が乗っけたもので、どこでどういうふうに乗っけたかは作った本人が一番よくわかっている。だから食べても面白くない。スーパーで買ってきた小ぶりなA5等級の和牛シャトーブリアンの肉片をサッと強火で両面焼いて、柚子胡椒と醤油に浸して下品に喰らっている方が100倍イイ。ま、そりゃイイに決まってるか。

料理とは、奉仕の心、ドMのココロである。再確認中ナウ。

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