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最愛の祖母

自分と祖母、顔や体つきどこが似ているだろうか?
そんなことを思いながら、普段なら通勤で乗っているであろう電車に乗り、頭の痛くなる新幹線に飛び乗り揺られていた。

祖母の父は岐阜の農家の出身で、末子というのもあり、大阪に出て大正ロマン衣装のひとつである帽子屋を営んで、一財築き、
同時に土地を買って、今に続くまで子の子に安らぎの場を与えている。先見の明があった人であった。

祖母は9歳ほど離れた祖父に女学校の終わりに嫁ぎ、本家で数年家風を仕込まれた。
祖母から、姑の愚痴も祖父の愚痴も、自分は聞いたことがなかった。
代わりに、どんな血筋であり、どんなに商売に勤しみ、同時にどれだけお人好しであったかという話を二十重に聞かされて育った。
祖母は姑を「夙川のおばあちゃん」と長く慕っていたし、祖父のことも、出張先からの手紙も大切にしていたし、寝室に写真も飾っていた。
祖父は早くに亡くなっているが、恨み言など聞いたこともなければ、生活のことを聞くとお見合い結婚だったけれど、乙女のように幸せそうな顔をした。

自分は祖母の話を夏目漱石の話のように聞き、歴史の教科書を捲るように、様々な質問をし、脳に刻んでいった。
自分の家の歴史でありながら、同時に祖母が話してくれる物語でもあった。


そんな祖母が亡くなったという知らせを受けて、自分はすぐに大阪行きを決めた。
6月の半ばのことだった。

イエのことも大勢の前での振る舞いもお高いお店での振る舞いも、人への気遣いも、全部祖母に習った。祖母でもあり、人生の先生でもあり、いつも何かを見透かしたようなアドバイスをくれた人だった。

高校に通い始めた頃、ふいに祖母が上京してきたことがあった。
急に手招きしたかと思えば、両の手を取ってこう言ったのだ。
「死んだらあかんで。親より先に死ぬ不孝はありませんで」
と。
自分は受験に失敗していて、さして楽しくもない高校生活を送っていた。合格発表の帰り、絶望で立ち尽くした踏み切りを思い出した。

祖母が前々から何かを"見て"は、方々電話や手紙を書く人だというのは知っていたし、
自分も似たような体験をそれまでもしていたから不思議には思わなかったが、見透かされた思いがした。
でも、長い時を経て、自分が抑うつ病になった時、この世に留めてくれたのは、この祖母の一言があったからだった。

うつ病になってから、祖母の家に泊まった時「何の薬を毎日飲んでやるの?」と聞かれ「アレルギーの薬や」と誤魔化したが、
結局祖母はその後 父に問いただしたらしい。
「お前がちゃんとよくなっているのをお袋に報告したあとだった」
と新幹線のなかで父から聞いた。
自分は自分で「おばあちゃんの孫に生まれて幸せだ」と手紙に書いたばかりだった。


自分の顔や体つきが、祖母に似てると思ったことは残念ながらない。
新幹線の窓を見ながらぼんやり考えたが、身長以外思い付かなかった。
ただ、母方の伯母の伴侶には「伯母と違う血筋を確実に感じる」と言われたことがあった。
この目も鼻も父の血筋だと、伯母の伴侶は言い切った。
そんなことを思い出していた。

葬儀場のご厚意で、忙しいなか祖母に会わせてもらうことができた。
祖母に会っても「似てる」ところは分からなかった。おそらくこれからも、自分の顔を見ても祖母を思い出すことはないだろう。

ただ、祖母は自分に大切なことを教えてくれた。自分に対して、誠意を持って接してくれた。「うちの子やから」と勇気をくれた。
今まで自分を支えてくれたのは、祖母だった。母でも父でもなく。

これからも、折々に祖母を思い出すだろう。それが感謝に、一生の感謝になるといいと思っている。

おばあちゃん、長生きしてくれてありがとう。愛してくれてありがとう。これからも大好きです。



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