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夏の夜にいる

いつも15時から
30分間、ツイキャスLIVEしてるけど、
今日は夜中の22時から
人気のない、大きな街の公園で
1時間。

なんか、夏のツイキャスのキャンペーンで
1時間、Liveしていいらしい。

いつもは30分で切れるけど、
今晩は1時間演った。

夜に響かせたい詩を歌った。

長いこと、音楽やって、
本当にたくさんの曲がある。
詩がある。

物語的な歌もあれば、
本当に物語を語る曲もある。

昼間に歌いたい曲もあれば、
夜に歌いたい曲もある。

ノリのいい、面白い曲もあれば、
静かに聴いてほしい曲もある。

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詩は唄うと、
その瞬間、唄ったとおりの現実が現れる。
また、その詩を通して、
氣付く、嘘やホント。
その詩で思い起こされる思い出。

本当に在った出来事なのか、
夢だったのか・・。

本当に思ったことなのか、
流れに乗って、
口から出るに任せて
描いた物語なのか。

僕が創ったのではない、
誰かの創った好きな詩を唄うと、
僕では描き得なかった情景が浮かぶ。
そして僕はその詩の中に入る。

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誰かに届ける気持ちで唄う。
彼の身(かのみ)=神に届けるんだ。

********

相変わらず、
視聴者はいなかった。
でもいつも聴いてくれている
2名のお一人から、
「イヤホンを忘れ、電車で聴けないので
あとでアーカイブで聴きます」
とコメントがもらえた。

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僕がこのnoteと、
ツイキャスLIVEを
生きる支えにしていること、
身近な人には
あまり話していない。

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朝から集落の草刈りに参加して、
他愛のない話をして、
田んぼ行って、
日影になっている梅の木を切っていたら、
隣の田んぼの友人夫婦と会い、
いろんな話をする。

こうして
この田舎の地に住んで11年。
たくさん友人知人がいて、
みんなで一緒に暮らしてる感じ。
幸せだな。と思う。

息子、娘も、
ずいぶん育った。
彼ら自身の人生で出会う景色を想うと
愛おしくてしょうがない。

久しぶりに奥さんと、
山の上の喫茶店に行く。

同世代の、共に生きる「仲間」。

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でも、
どうしても、
「最近どうしてる?」で、
ライブ配信とnoteを楽しんでる。
がんばってる。
とか言えない。

言う気にならない。

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詩になり、詩を届けたい僕は、
「歌手」「音楽家」「ウクレレ奏者」「パフォーマー」
というカテゴリ化、名詞化された存在として、
事業を成り立たせることを目標に
生きていないみたいだ。

でも、やっぱり、寂しいな・・・。
と思う。

そんな想いを
描いた詩が多い。

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久しぶりに、
夏の夜、
街の明るくも
静かな公園、住宅街を歩く。

この感じ、
この匂いをどうしようかと
悶える。

とりあえず、
スマホで写真を撮る。

*****

僕は、時代の90年代という
時代のタイミングで、
多感な10代を迎えたから、
その時の時代の影響もあるのだと思う。

「音楽」という手段を選び、
そこに言葉を当てはめる「詩」
という手段を使うことにした。

もし、生まれた時代が
もう少し下って、
フィルムを気にしない
デジカメ、スマホの時代に生きたら、
もしかしたら「写真」という手段を
使っていたかもしれない。

でも僕はどうしても、
「たまらん」何かに出会ったら、
写真を撮るより、
全身でそれを感じようとする。

「踊ればよかった・・・」
それはだいぶ、年を重ねてから思うようになった。

若い頃は「何か」にならなければ、
「何か」になろうとしなければ、
それに「成れて」いないので
不安だった。

髪を染めたり、
「何か」になろうとしている若者の
姿を見ると、
甘酸っぱい気持ちになる。

大変だったなぁ・・・。

*******

でも、
今もやっぱり、
「何か」にならないと、
いけないのかな?

「職業」とか書く欄に
いつも戸惑い、
とりあえず「音楽家」と書く。

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もし、僕がもっと後に時代に
生まれ、育ったなら、
憧れた「ロックバンド」の代わりに
ユーチューバーとか、
ブロガーとかに
憧れていたかもしれない。

じっさい今、
noteを書くことと、
音楽をすることは、
かなり近い感覚にいる。

*******

夜の道を歩く。

この感じ、
この匂いを
どうしてくれようか!
と悶える。

ただ、そこにそれは現れているのに、
何か、自分の手で、
表現して、表に現して、
手に入れたい欲求がある。

そしてこの
「僕」で見た愛おしい世界を、
誰かにも伝えるために、
「表現」したくなってしまうんだ。

「それ」を
損いたくない。

できるだけ「何か」という
フィルターをかませたくない。

でもやっぱり、
「それ」を
表に現して表現できたとしても、
受け取ったその人は
その人のアイデンティティで
受け取るんだろうな。

そしたら、
その人の想い生きる人生を眺めよう。
僕は僕で、その人を想おう。

そして僕はまた
「今いる場所」に帰る。

*******

最近、ちょっと
noteとツイキャスを
「やりたいこと」として
重きを置きすぎて、
現実の人間関係を
おざなりにしているような気もする。

でも、
どうにもならない。

現実の人間関係、社会では、
演奏の機会も、
伝えたい気持ちを話しきることも、
なかなかままならず、
みんなの主張を
聞くばっかりだ。

*******

「インターネット社会」
今までに無い感覚だ。

何も要らない。

何かを求めた時、
「求め」はすでに
「自分」が手にしたので、
それを眺めればいいだけ。

「意識」と
知覚する「身体」があればいい。

それが「大切」だと氣付く。

僕は人生を味わっている。

そろそろ山奥の家に帰るか。

ローソンの灯りの下で、
このnoteを書いている。

だんだん人口も減って、
コンビニの24時間営業も減ってきた。

「街」といっても、
こんなもんですよ。

他に何が要る?

カラオケも、ビリヤードも、
風俗も居酒屋も・・・。

そこじゃなかった。
そこじゃなかったんだな・・・。

風が気持ちいい。

明日も暑くなる。

そろそろ家に帰ろう。

またここに帰って来たいな。

また時間つくって
詩に帰ろう。

唄い、現れ、実った、
「現実」に帰ろう。


うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。