20240213 号泣焼肉
一人きりで紙とペンさえあれば生み出せる芸術もあるけれど、演劇はひとりではつくれない。かの有名なピーター・ブルック の「何もない空間を人がひとり横切る。それを観ている人がいれば演劇は成り立つ」というのだって、横切る人とそれを観ている人のふたりでワンセットというのが最小単位である。演劇を上演するということは、それ自体誰かと時間と場所を共にするということから逃れられない。多かれ少なかれ、演劇をやっている人は「人が好き」なんじゃないかという気がする。
▼学生時代に友達らしい友達が少なかったこともあり、劇団の養成所に入って、同じ目標に向かって毎日密な時間を共に過ごす仲間が増えたことは結構嬉しかった。日曜日以外は毎日稽古があったのでわりあいすぐに仲の良い友達もできたりして、今思うとこっぱずかしいことだが20歳を過ぎて、遅れてやってきた青春を謳歌しているような格好だった。
▼たとえば川端康成の『伊豆の踊子』は東京からやってきた学生が伊豆の旅行中に旅芸人の一座と共に時間を過ごすことで人恋しさをおぼえていくという話だが、演劇を通じて長い時間誰かと一緒にいることで「ああ、誰かと一緒にいると楽しいんだな」ということを私もまたおぼえていった。自分でも思っていた以上に、けっこう人が好きだった。
▼通っていた養成所では一年目と三年目にそれぞれ卒業式があって、そのどちらの式でも気がつくと号泣してしまっていた。一年目は同期とお別れするのが寂しかったし、三年目は同期はもちろん後輩もいたりしたので尚更さびしかった。中学や高校、大学までの卒業式でもあまり泣いたことはなかったのに、三年間演劇をしていたらそういう「人が好き」「寂しい」という感情をビシビシ感じるようになっていたのは今思えば発見だった。人と一緒に過ごすことの楽しさと、別れることの寂しさを表裏一体として演劇に教えてもらったような格好になった。
▼あるとき一緒に演劇をやってきた友人が演劇を離れて就職するということを決め、私に伝えてくれたことがあった。その決意はとても大切なことのように思えたから、直接会って他のメンバーにも伝えた方がいいような気がした。けれども世はコロナ禍で、感染症対策として外食も憚られる時節だったから、思うようにみんなで集まることが出来なかった。「これが最後になるから」と、景気づけで焼き肉を食べに行くことにしたのだが結局来られたのは私と辞める友人ともうひとりだけで、「コロナがなかったらみんなで集まれたのに」「コロナがなかったらもうちょっと演劇を続けてくれたのかな」などと考えることも詮なくて、そのときも寂しくて泣いてしまった。才能だって決してないわけではない、面白くてたまらない彼ともう一緒に演劇ができないのだと考えると寂しくて寂しくて仕方がなかった。
▼人が好きだから、誰かと一緒にいられれば楽しいし、人と離れなければならないとなればものすごく寂しい。願わくは演劇をみんなで続けていきたいが、それを叶えられる人たちは一握りだけだということも痛いほど分かっている。いつか道が分かたれるときはやってくる。たとえ道が別れたとしてもヘミングウェイが言ったみたいに、演劇もまた移動祝祭日として、互いの胸のなかにあり続けてくれたらいいなと思ったりする。
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