自己教育 なぜ生きる どう生きる

おそらくですが、バクテリア、ミミズ、樹木、コオロギ、タヌキたちは、「なぜ生きるのか?どう生きるのか?」と、考えたりはしないと、思います。
 彼、彼女らは、生まれながらに身に備わっている遺伝子のプログラム(無条件反射、本能)に従って、生きています。
 ネコや犬、馬レベルになると、無条件反射だけでなく、生後学習して身についた条件反射も使って生きていると思います。お座り、待て、御手などは、人間の訓練教育があってのことです。
 それでも、現実のネコや犬は、「なぜ生きるのか?」とか「私の人生とは、何だったのか?」とか、考えたりしないでしょう。
 人間と犬や猫との違いは、(主語+述語の構文のある)コトバだと思っています。
 ヒトは、そのコトバの力によって、時空を超えて智慧を伝え、社会を発展させてきました。同時に、コトバの線状性や実体視にしばられてきました。ミミズは、貧富の格差や失業に悩むことはありません。イデオロギーや宗教の違いで、猫同士が戦争したこともありません。
 人間はコトバを使って考える、とは言っても、人間全体が考えるのであって、心臓や肺、胃袋が、独自に、「なぜ生きるのだろう?」とは、考えないでしょう。心臓、肺、胃袋などは、バクテリアやミミズ、樹木たちと同じように、遺伝子に従って活動しています。
 コトバは、社会生活、集団生活の中で、「教育」によって身に着けたものです。「なぜ生きるのか? どう生きるか?」という問い自体も、社会生活の中で学んだことであり、それなりの答えは、社会の中に用意されてあると思います。
 しかし、環境、社会は常に変化しているし、個人の出来事は、それぞれ独自なので、これまでの社会の中で用意されたコトバのプログラムからはみ出ることは、多々あります。
 社会の中にすでに用意されている答え、プログラムに納得できず、自分の納得のいく答えを探ることを「自己教育」ということにしましょう。
 自己教育だって、ベースは遺伝子にあり、更に、これまでの社会が用意した文化の中にあります。自己教育とは、その自分のベースを疑い、乗り越えようとすることです。   
 ですので、そこには必ず矛盾・アンバランスがあります。
 自己教育を始めても、矛盾に耐えられなくて、病う人も多くあります。矛盾に耐えられず、考えないことを選ぶ人もいます。考えないための文化装置もいっぱいあります。また、隠れている伝統的な答えを見出す人もいます。
 いずれにしても、新しい道を切り開き、充実して生きるには「自己教育(信じつつ疑うこと・疑いつつ信じること)」は、必須と思います。
フェルデンクライス著「フェルデンクライス身体訓練法」大和書房1982で、「自己教育」という言葉を知りました。
「遺伝」「教育」「自己教育」という三層の見方で、人間の行動をとらえてみると、人間の複雑な行動も、整理されてきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?