感動が生まれる場所。必死に受け止めようとする心。

いつも思うこと。

人はいつも24時間365日何年も何十年もびっくりするほど自分の幸せになりたい、何かに報われたいという気持ちとずっと静かに戦っているのに、ほとんどの救いは「我を忘れる一瞬」にあるということ。

例えば、奇跡のような美しい風景を前にあなたは「心を奪われいる」し、最高の音楽ライブの瞬間にあなたはやはり「我を忘れている」。

わたしたちは、こんなにもこんなにも自分自身の訳の分からない「心」というものにがんばって向き合ってるのに、救いは常に「忘我」にある。

自分自身の気持ちから一瞬離れて、目の前の光景や音や味に心を奪われて我を忘れている瞬間が最高だなんて、なんて心って難しいんだろうっていつも思う。それでも僕らはその一瞬を求めて今日も何か心奪われる人やモノや音や味を探し求めることをやめられない。

いつも思うこと。

わたしたちは常に違和感のあるもの、恐れるものを受け入れようとしている。

例えば、工場の不快な騒音の中からテクノは生まれた。本来気持ち悪いはずなのに、そこにリズムをつくり、本能的に嫌なことをどうにか受け入れられるように音楽を使って変化させていって、心が受け止められるようになったとき、その時の人々はそれを浴びるように聴くようになる。こうして人はそれと同化する。

例えば、はるか昔から(そして今でも)人は恐怖に支配られそうになったとき、その恐怖と一体になるように集団で踊り、うたい、叫び、トランス状態になる。

例えばアニメなら、エヴァにしても新海誠にしても、この孤独な現代社会の中で、世界が崩壊して綾波に地球が呑み込まれたり、好きな少女を救うために新宿から代々木駅まで線路を走ったりする。荒廃している中での「心」はまだ大丈夫なのだとRADが歌うことで救われたりする。

そんなことを考えるたびに僕は思う。

人が目の前の境遇をどうにかして受け止めようとする懸命さに心が打たれる。

でもそれと同時に「そんな境遇、そもそもなくなってしまえばいいのに」と。嫌なことを受け入れることを「感動」や「救い」だと思わなくていいならそれが1番なのに、とつよくつよく思う。

だからこそ、と僕は改めて思うのだ。

だからこそ、ドームの外に出よう。
この産業パラダイムという名の透明なドームの中で、どんなに酸素が少なくても大丈夫だと歌おうが、どんなにドームの中の美を表現しようが、一歩ドームの外に出たらそこにはたっぷりの空気と自然が広がっているかもしれない。もうそんなこと、表現しなくてもいいかも知れないのだ。

本当は嫌だ、不快だと思ってることに慣れるための音楽や小説や映画や詩や言葉を探し続けるくらいなら、この社会システムの外へ出てドームの外の景色を見てみたい。たとえその風がこの身を斬るほど冷たかろうが、この肌で感じてみたい。

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