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純然たるリアルと、刹那について。

さっき、いつもの中老シリーズを気分転換かねて書き終わった後、ビーチにいる息子を迎えに海を見ながら走っていたら、ふとなんの脈絡もなく、気付いてしまったのだ。

何に気づいたのか。それは、先ほど書いたような何かの真理に近いものに触れた時、そこから先に行くとまるで自分が死んでしまうような、なんとも言えない刹那をいつも感じていることに、だ。

だから僕はそこに目を向けたくないと思っていた。踏み込み過ぎてはいけない。うまく言えないんだけど、そう言う「ここから先は行かない」と立て札が立っている領域が僕の心の中にあった。

でもそれは間違いだったのだとなぜか突然気づいてしまったのだ。

例えば今、僕の目の前に広がる波は、僕が死んだ後も変わらずに続く風景だ。
それと同じように、自分がいなくなっても続くような流れをつくることを、中老はやりたいのだといつも繰り返し繰り返し言っていた。

中老には「平野、おまえは自分を大切にしすぎだ。覚悟が足らない」と何度となく言われてきた。自分が考えたことをカタチにすることだけにこだわるなと。もっと広くみろ、自分の心の中だけを見るな。お前自身にこだわりすぎるなと。人と人との間で内発的に生まれるものを大切にしろ、お前がそれをやるんじゃない、お前がその内発的に生まれる「場」や「状況」をつくるんだ。お前がお前の考えを表現することだけに夢中になるな。どうしてお前はそれに気づかないんだ。

で、僕は今、何に気づいたのか。

ひとつは、僕が「この方向のことをやったら死んでしまうのでは」と不思議な怖さと切なさを感じていた領域こそが、「自分がいなくても続くこと」の始まりだと言うことだ。

そしてなぜそれに怖さと切なさを感じていたかと言うと、それはおそらく錯覚で、「僕がいなくなっても続いていく良い予感」に対して切なく怖く感じていただけなのだ。そう、不吉だと思っていた予感は、実は吉報だったのだ。

1人の命など束の間の儚い存在で、生まれては消えていく。でもお互いに影響し、何かを生み出す事ができる。それを連鎖させることにより、ムーブメント、うねりを起こすことができる。

それはひとつの命の時間を超えて、続いていく。それが消えたとしても、それがまた次のムーブメントの一部となり、やはりまた微かであっても続いていく。さざなみのように、生命と生命が交差し、繋がっていく。これをスピリチュアルでもなくポエムでもなく、純然たるリアルなこととして、情熱と冷静さをもって連鎖させていくことに僕は強い関心があり、その姿勢を貫きたいというプライドがある。

そっちをみろ、と中老は言いたかったのかも知れない。お前は、お前に夢中になりすぎだ。お前は、お前の「作品」ではなく「場所」をつくれ。俺はずっとそれをやってきた。そろそろ俺もその役目をバトンタッチしたい。そして俺をそこで遊ばせてくれよ、と。

そしてもうひとつ気づいたこと。
それは、中老と初めて会った瞬間から、「この人は30年前に生まれた自分だ」と感じたその理由が、きっとこの「刹那」と「ひとりの命を超えて続くものへの予感」を共有しているということだったのだと思う。

もちろんそんなことは一度も中老と話したことはない。中老はそう言う話になると「人生なんてこんなものは遊びだぜ!?」と笑うだけだ。
それに僕はそもそもこの話を生まれてこの方誰にもしたことがない。今、ここで初めて言葉にしてみたのだから。

もしかしたら僕の勘違いかもしれないけど、でも多分僕と中老は、この言葉にならない「何か」を共有している気がする。だから僕は、それが何かも分からないまま弟子入りして、しっちゃかめっちゃかになりつつも逃げられずに、ここにとどまり続けようかどうか迷い続けているのだ、おそらく。

そしてこの話は、もしかしたら読んでいる人にとっては訳の分からない一話だったかも知れない。僕もきちんと言葉にできているか全く自信がない。

でも、僕は僕の中に芽生えたかも知れない善き視点を忘れないように、何らかの形で自分自身のためにここに書き残しておきたいと思ったのだ。今、この瞬間にしか書けないことというのはあると思うから。

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