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地方創生?

評価の高い地方創生の本を軽く読んで感じたことは、「生きたエピソードがない」こと。分析と機械のようなシステムの仮説をあてて、「こう言う根拠があるからきっとうまくいくであろう」と書かれている(ように思えた)。つまり妄想である。

これは現代の大きな間違いのような気がする。何かを完成させて稼働させたらそこに人々が乗ってくるというのは古い発想な気がしてならない。本の内容自体はとても細かく分析されていたし参考になったのだが。

僕が最近思うことは、「スタートなんてないし、完成などない」ということ。逆に言えば、瞬間瞬間に完成していて、手応えがある「小さなリアル」が「求める本体」であって、それがひとつひとつ重なり合い、振り返った時に常に痕跡を残している。地方創生といわれていることも、そういうことではないのか。

インフラとしてのシステムは必要だが、それ以外にはとても強い違和感がある。
なぜ、多くの人が代理店やマーケティングの人のような発想になってしまい、自分ごとにならないのだろう。扱うのは人の心だ。ITシステムなんてそのためのささやかな補助ツールでしかない。

だいたい、そこに住んでいない関係もない人が、何かコンサル的な角度から「何かを与えようとすること」がキモい。お前は(僕もだが)何を持っていると言うのだ?余計なお世話ではないのか?

そしてこれも自問自答なのだけど、僕は「住民の方々」という言い方が嫌いだ。「コンシューマー」と同じ匂いがする。対象として塊で見ていることの表れ。外から目線。でも言ってしまうし、書いてしまう。どうにかしたい。

オールナイトニッポンで番組を持っていた時、「ラジオの前のみんな」と言ったらディレクターに「2度と言うな」と怒られた。「ラジオの前のお前」や「ラジオの前のきみ」と言え、と。「聴いてるやつはお前と話してると思ってるんだ。お前も何十万人というリスナーではなく、一人一人がお前の話を聞いていることをもっとイメージしろ」と。それがなかなか出来なかった。オールナイトニッポンの古くからのリスナーには僕の番組は大不評だった。「お前の性格はみんな見抜いてるぞ」というハガキが結構たくさんきた記憶がある。

やがて、リスナーは話したことないだけで友だちなんだ、と思うようになった。ハガキや電話やメールを通じて、友だちと話してるんだ、と思えるようになった。それまでは「ラジオパーソナリティという自分」を演じていて、リスナーなんてマネキンみたいなもので、番組が上手くならないかな、上手に喋れないかな、失敗したらやだな、とかしか考えてなかった。そりゃあ、リスナーから嫌われるはずだ。

それに気づいてからは、リスナーひとりひとりと話をするようになった。番組企画としてリスナーの家に遊びに行ったことも何度もある。パソコン番組だったのでリスナーからパソコンが壊れたと連絡が来たらその人の家に直しに行ったこともある。明日提出の企画書をつくりたいのにソフトの使い方がわからない会社員から電話がかかってきて2時間くらい一緒に企画書を手伝ったこともある。

それと比べたら、地方創生って、めちゃくちゃ難しい。ラジオなんて僕ひとりが変わればいいだけだった。暮らしをつくること、暮らしの問題を解決することの問題点は、おそらく全国でパターン分析できるし単純化できると思う。でも、そこにいるのはリアルなたくさんの人であって、それらの人が複雑に双方向に関係してる(もしくは分断してる)。だから、コンサル目線で書かれた地方創生の分厚い本は「なんだこれ」と正直思ってしまう。無駄ではない。が、そんなに大事じゃない。

地味で実感のあることを、ひとつひとつ毎日積み上げていくことが重要だ。それが「求めること」であり、それは数日で最初の小さな手応えは得られるはずだ。それがあちこちの村や町で無数に多発すること。それが続くと世界が変わっていく。

そのためにテクノロジーが後押しできることがあるというだけであって、データ分析とベストシナリオの妄想の塊は僕は信用できないと思う。補助的な資料としてはもちろん優れている。だが、バイブルではない。正直、そう言う本はなくても村づくりやまちづくりはできる。あると少し便利と言うだけだ(もしくはあるだけ邪魔なことも…?)。

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