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うつわだけを買っているのではない

民藝と呼ばれるものがある。

民藝とは、「民衆的工藝」の略で、普段使いの日用品に美しさを見出した柳宗悦(やなぎむねよし)が、総称して呼びはじめたものだ。美の概念とも、思想のひとつとも言える。

現代作家のうつわから民藝のうつわに手をのばした。その中で素敵なお店を見つけた。画像の備後屋(びんごや)さんだ。ここでは、ついうっかり(※1)小鹿田焼(おんたやき)の小皿を買ってしまった。

※1:「ついうっかり」とは、元々買う予定がなかった、それなのに買ってしまった、の意。

民藝を目にする機会が増えたように感じる。
今年は、日本民藝館創設80周年記念として、全国の某デパートでも展覧会が行われた。

雑貨店での取扱いも増え、若い店主のうつわ屋で民藝を見かけるようになった。

しかし、驚くこともある。
うつわを買っても、うつわ「だけ」を渡されるのだ。

うつわとは、買えば当然、作者の情報がついてくるものだった。会計時の世間話であったり、同封されるひときれの紙であったり。
形態は様々だが、作者の名前、経歴、どのようにして今の作風に至り、どこで制作をしているのか。そして、コンタクト先。この程度は、簡素な部類でも必ず添えられた。
サービス精神旺盛な紹介になると、うつわに込めた想い、どのようなうつわを目指しているのか、会期の近い展覧会の知らせも入る。

うつわを買うことは、イコールで作者の情報を得るものだった。

たまたま数店舗、あたりの悪かった可能性も否めない。しかし、今まであたり前だったものが、民藝に手を出した途端、あたり前でなくなった事実がある。

店主が若かった(店を開いて数年であった)ことも関係しているかもしれない。

しかし、うつわを買ってうつわだけを渡すのはいかがだろう。買ったのは「民藝」のうつわなのだ。

民藝を扱う店は、往々にして『この手仕事を後世に伝えたい』と述べている。ほぼ例外なく述べているし、赴いた店に例外はない。それなのに、うつわに背景の欠片もつけない。

売る側が、「なにを売っているのか」を正しく理解していないのだと思う。

うつわを売るだけなら民藝を叫ぶ必要はない。民藝のうつわをわざわざ買う人々がなにを求めているのか。それを考え、満たすのが、売る側の手腕である。

あなたはなにを売っているのか。少なくとも、私は、うつわだけを買っているのではない。


冒頭の備後屋さんは、限りなく丁寧な店員さんが、滔々と民藝について教えてくれた(そうして、ついうっかり小鹿田焼を買ってしまった)。

感動したのは、接客だけではない。

会計の際、あたり前に底をヤスリで磨いてからうつわを包んでくれた。もう、本当に分かっている。さりげない気配りにハートはドキュンされた。

『ほしいものが、ほしいわ。』と、糸井重里さんはコピーをうった。そう、ほしいものは、うつわだけではない。

#民藝

気と機が向きました際に、是非。