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模倣とはなにか

阪急うめだ『民藝と暮らし2018』にて、高木崇雄・石川昌浩両氏のトークショーが行われた。

テーマは、『模倣とはなにか』。

民藝は、はじまりから100年も経たない。
比較的、新しい文化運動である。

柳宗悦(やなぎむねよし)が、普段使いの日用品に美しさを見出した「民衆的工藝」を略したものが民藝だ。

民藝とはなにか?
と、問われると「用の美」「機能的であること」「無名であること」などが取り上げられる。

しかし、本来「これだから民藝」と言えるものは何ひとつない。

民藝は対抗から生まれた文化だ。

1871年。ウィーン万博に端を発し、美術が生まれ、様々な工の中で画工と彫工が区別された。
画工+彫工が美術である。
区別からは、視覚・産業として有用か否かの階層から徐々にヒエラルキーが生まれた。

美術は、ヒエラルキーの頂点にいた。
次点に、工藝美術(陶芸等の中でも鑑賞を旨とするもの)。
最下層に工藝(日常使いを含む手工品)が置かれた。

工藝を取り巻く状況と美術に対する反発。
そうした社会の土壌があり、「でも、工藝だって美しい」から民藝ははじまった。  


無名の話。

民藝を語る上で必ず出るキーワードが「無名性」だ。
その無名とはなにか。

民藝にとっての「無名」は「有名」の対義ではない。受け継がれてきた型、名工の積み重ねと忘却が「無名」である。

無名の職人などいない。
しかし、人はいつか無名になる。

例えば、益子焼。
多くが濱田庄司の模倣である。濵田焼と言っても誇張ではない。しかし、益子焼は濵田焼と呼ばれない。

私であって私でないものになることが無名だ。

不個性、あるいは非個性の群が、長い時間の中でひとつの形を見出し、型を生み出すもととなる。
型は今を生きる私たちが精一杯仕事をすることで、また新たにつくりだされ、そうして、いつか私たちも無名になる。
つまり、無名とは、今ここにいる私たちを指す。

これが民藝の無名であり、作り手にとっては無名の起源を探る試みが模倣である。  

そして、模倣とはなにか。

柳宗悦の息子である柳宗理には有名なプロダクツがある。バタフライスツールや醤油さしだ。しかし、辿ればコルビジェの模倣であるものも多い。
柳宗理のプロダクツを見れば分かる。あれは柳宗理だ。柳宗理の作品である。しかし、辿ればコルビジェがあり、コルビジェも辿れば別に行き着く。

これはただのコピーだろうか?

築かれた歴史に「自分をとおしていこう」とするコピーと「いま売れるから作る」コピーには、やはり違いがある。

柳宗理のコピーは、紛れもなく前者であり、民藝のコピー、無名と評される形も、また前者である。

歴史を踏むこと、法則への従順、正しさへの敬慕……先人の築いた喜びを共有できるコピーが模倣なのだ。

模倣は喜びの継承であり、生を重ねることである。時間のかかる行為だ。この時間を認めてやるのが模倣であり、重ねられた模倣から生まれる美しさこそ、民藝が守ろうとしたものではないか。それこそが、民衆的工藝、工藝なるものだ、と言えるのかもしれない。(レポート完)

#民藝

気と機が向きました際に、是非。