第2回 <みどり>なるものが確かにあったときの自分
ある特定の時期にだけ自分の中に存在する感覚。
特に子どもの頃や、思春期にだけあり、歳を重ねていくにつれて消えていってしまうもの。
今回の「短歌をひらく」は、こうした感覚をもとに、2021年9月に刊行された立花開さんの第一歌集『ひかりを渡る舟』(株式会社KADOKAWA)から好きな歌を紹介したいと思います。
第57回角川短歌賞受賞作品の「一人、教室」からの一首です。
教室という場所の窮屈さ、学校やおそらくクラスメートとの付き合いにも居心地の悪さを感じ、唯一外へと広く開放されているように見える窓も、決して脱出口としてそこにあるわけではない。
窓の向こうではなく、外の景色と自分との間に確かにある透明なガラスを見つめている様が目に浮かびます。
しかし<みどりにして>というのがなんとも不思議な感覚というか、一読するだけではひも解けない深みがあるかと思います。
そこで同じく「一人、教室」からもう一首紹介します。
ひらがなの<みどり>を持つ歌が1つの連作の中に2回登場します。
この歌での<みどり>は、若さの象徴であるように思います。植物の緑のような、生命としての若さや瑞々しさを自らに湛えている。あるいは湛えていることを自覚している。
そういう感覚を作者は持っていたのだろうと思います。
教室の窓の歌にも、この感覚は共通するのではないでしょうか。
学校という場所から出ていけない年齢、でもだからこそ学校の中にはとどまっていたくない、この相反する事柄を、自分の中にみなぎる生命力を爆発させて出ていきたい。それを<身体をみどりにして>と表現しているのではないかと思います。
誰かに恋をしたり、憧れたり、夢を見たりするような、丸くころころとした若いたましい。そこに蓋をする。若いと感じられていた時期に自らの手で幕を引くようです。
歌集に収められた作品の順番で言えば、このあと、ひらがなのみどりは出てきません。
本当のところは分からないけれど、ある程度、年代順に並べられていたとして、この歌を境にたぎるような若い生命は詠まれなくなっていく。
ある一時期、自分の中に存在した感覚が消えて、新しい時期に突入したことがなんだかとてもよく分かるようです。
これは作者が、その時、その場所で、その自分で詠んだからに他ならないからだと思います。
たしかに<みどり>という感覚があって、そのことを歌にした。ということです。
しかし歳を重ねたり、学校を卒業したり、生活が変わっていくことでその感覚は消えていった。
自分は勉強不足で、第57回角川短歌賞を受賞された時の選考座談会や様々な方の評論もまだ読まないうちにこの文章を書いてます。すでに指摘されたり否定されたりしているのか、あるいはまだ誰も言及していないのかもわかっていません。恥ずかしい限りです。
ですが、僕にとっては<みどり>という感覚を自分の中につかみ、そして消えていった、というこのライブ感を味わえたことが、『ひかりを渡る舟』に出会ったこと、立花開さんの歌を読めたことの最大の宝物のように感じます。
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