朝、凪

 そろそろ水でも飲もうか。
 陽が落ちる前からちびちびと飲み続けた、二人だけのささやか過ぎる宴に君が終わりを告げた。
 片付いた部屋のクローゼットを勝手に開けて、君は男物のコートを引っ張り出した。
 寒いというよりは、冷たい朝だった。
 君は膝下まであるコートの裾をテンポよく揺らしながら歩く。
 曇った空を見上げて、呼吸のたびに白く濁る自分の体温を、僕はまるで数年ぶりに降り出した雪のように愛しく見つめる。
「おぬし、呼吸しておりますな」と君は言う。
「しておりますとも」と僕は自信をもって答える。
 君はちょっとかすれた声で笑ってから、広がった白い息を飲み込むように、胸いっぱいにひんやりとした空気を吸い込む。
「学校の並木、あるでしょ?」
 君はコートのポケットに両手を突っ込んでうつむきながら喋る。
「その並木にね、今日、ちょっと襲われそうになってさ」
「誰にだって?」
「並木だよ。銀杏の並木」
「ばかだな」
 僕がちらっと笑うと、君は本気で怒り出す。手をポケットに入れたままでも、身軽に蹴りを繰り出してくる。
「詳しく聞かせてよ」
 君は得意な顔になる。
「今日ね、午後一の授業が半分くらい過ぎた頃にようやく学校に着いたんだけれど、風が強くてね、帽子を飛ばされたの」
「それから?」
「あっ、と思って振り返ったら、急に枯葉がいっぱい、本当にびっくりするほどたくさん、私に向かって飛んできた」
「それから」
「枯葉の渦にのまれそうになった。台風みたいだったわ。とにかく急いで逃げて、並木から出たら、ぴたりと風がやんだのよ」
 君は懐かしそうだ。もはや遠い過去のことのように、うっとりと話す。
 僕は煙草に火を点ける。紙が燃えていく音、なくなっていく音が聞こえる。このくらい静かだと、君の心にも触れられそうな気がする。
「帽子は並木に盗られたよ」
「君が無事でよかったよ」
「本当にそう思っているのでしょうか?」
「君がいなくなったら、こうして朝まで酒を飲める相手がいなくなっちまう」
 シャッターの下りたタバコ屋の角を曲がって、まだ細い路地。地図で見るとここら辺一帯は碁盤の目のように道が敷かれている。それをジグザグに歩いていく。
 煙を嫌がって、君はついに声も届かないほど離れてしまう。振り返りながら、僕は進行方向に背を向けて歩く。
「早死にするぞーっ」
 しんとした家々の間の道を、その声はいろんなところにぶつかりながら届いてくる。僕は笑うだけで答えない。煙草も消さない。根元まで吸えば、火は勝手におさまってくれる。
 ジーンズのポケットに吸殻を入れたら、ようやく君も近くに寄ってくる気になるが、とても距離が離れているので、走ってやって来る。
「匂いがする」
 煙草を持っていた方の僕のシャツの袖を、君は自分の鼻に引き寄せて目を細めた。それからその袖を噛む。前歯から奥歯までがっちりと噛み合わせて、頭の先からつま先までが鋼のように堅くなるまで力を込める。
「シャツについた匂いだとむしょうに懐かしいのは何でなのさ」
「そんなに力むとまた涙が出るよ」
 言ったそばから、もう目をこすっている。出ない涙も、これだけ力めば染み出してしまうだろうに。
 コートの襟についている、付け外しのできるフードを君はできるだけ深くかぶった。そんなダサいものは外してしまえ、と持ち主にはよく言っていたようだけど、もし素直に聞き入れられていたら、きっと君の思うようには涙を隠せなかった。
 君に限らず、誰でもそうだ。自分の正しさがいつも誰かにとって、そして自分にとってすら正しくない時は多くある。知らないうちに、誰かの気ままな行動が自分を救ってくれている。一度は気に入らなかった相手の答えが、気づかないところで、うまく作用してくれている。世界とはそういうもので、独りよがりではいられない、騒がしい場所なのだ。
 だから君は朝を待つのかもしれない。借りてきたビデオを観ながら、提出日を守るため律儀に課題レポートを処理しながら、本のページをめくるのに没頭しながら、つかの間、一人でいられる時間を求めて。
 時々、主のいなくなった部屋で酒を飲みながら、たった数時間、世界から忘れ去られるために朝を待つ。でも本当は一人も心細くて、そのために僕がいる。
 世界から完全にはぐれてしまわぬよう、何回かに一度は僕を巻き込んで、安心して静謐な朝に身を沈める。息を止めて、水の中に潜るように。息が続かなくなったら僕が引っ張り出す。そういうことなのだろう。損な役回りといえば確かにそうだが、おそらく君が僕の手を煩わせることはない。
 恐れているのだ。君はこの世界に生きているから君であって、別の場所ではそうじゃない。君を君と認めている価値観があるから、君は君でいられる。喉から手が出るほど孤独もほしいが、同じくらい、今の自分を手放すのももったいないと感じている。僕には分かる。君だって人間だから、隠してはいてもそれなりに欲張りな性根があるにはある。それが魅力でもあるのだけど。
「泣きやんだかな?」
 君はフードを思い切り後ろに払いのけて顔を見せた。
「泣いてないし」
「また昔を思い出したんだろう。いいよ、君のそういうのはもう慣れっこだ」
「泣いてないもの。よく見なってば」
 君は強いまなざしで顔をそむけた僕の正面に回り込む。僕は目をそらし、君はむきになって視界へ入り込んでくる。顔を左右に振って焦点を定めないようにすると、君も全身で左右に動き、何とか自分が泣いていなかったという証拠、涙の跡もなければ目も腫れていないところを見せようとする。
 激しい動きについ吹き出す。君もつられて笑い出す。自分の動きが急に恥ずかしくなったようだ。
「泣いてないでしょ?」
「今はね」
 急に君が飛び上がったかと思ったら、着地のついでにがしっと両足を同時に踏まれる。思わずうめく。君はしりもちをつく。ついでにあぐらをかいて、痛がる僕を眺める。
「そんな技、プロレスラーでも使わないよ」
「プロレスラーじゃないもの」
「そうなんだけどさ」
「捨て身の技ってやつよ」
 僕は苦笑ついでにため息をつく。手を差し出し、君を立ち上がらせる。冷たくて心地のよい手だ。変に温かい手よりもずっと信頼できる。
「早く水を買いに行こう」
「忘れてたわ。あんたが余計なことばかり言うから」
「大丈夫。朝はまだもう少し静かだよ」
「でも急ごう」
 君は僕をおいてダッと駆け出した。薄いカーテンがかかったように色を曖昧ににじませる朝の白を切り裂いていく。漆黒のコートをなびかせて、冷たく済んだ光の中に身を投じる。息だけが、とぎれとぎれに空へ浮かんでなかなか消えず、道しるべとなって僕も走らせる。
 路地を抜けて大通りへと出る。そこでは車の往来もそこそこ賑わいがある。
 東の空は、朱色に染まり始めている。
「朝が来ている」
 ぼそりと呟いて、僕が追い越したのも気づかずに君はガードレールにもたれる。
 僕は歩道橋の階段を上り始める。視界の先で、空が海のように広がりを持ち始める。
「空が天国に見えるよ。あんた、天国へ行くみたいに見える」
 まだ一段目に足をかけたばかりの君が、口の右端だけ上げた。
 空へと伸び、そして唐突に途切れるようにそびえるその階段が、この世界で唯一、茫漠たる天国と地続きであるような気がするのだろう。それは幼稚なほどセンチメンタルな思いだった。僕は構わず行こうとする。
「待って。あんたまで、行かないで」
 ぐいとシャツの裾をつかまれる。
 君は一瞬だけ笑顔のように見える、寂しそうな顔をする。
 僕はまた煙草に火を点ける。今度は君が遠く離れることはなかった。
「シャツ、放せよ」
「いいのよ。それより水、早く買いに行くの」
 この君の声が、最初の一滴となった。水面に広がる波紋のように、光がわぁっと歓声を上げて、空一面に広がった。
 君は眩しそうにうつむき、歩き出す。

fin

2009年に書きました。
21歳、大学4年生の時です。
この頃、たくさんの短編を書いてました。
「死」というものを見つめ、忍ばせたものがとても多かった気がします。

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