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嫉妬心から解放されるには

手の平で水をかく私の目の前を、女の子がクロールで泳いでいる。この人は確か、学年が一つ上のSさんだ。私よりずっと身長が低くて、足や手がぷくっとしていて可愛らしい。突然、胸の奥が熱く燃え出して、気づいたときには手が伸びていた。はっと息を呑む。私、Sさんの足をつねろうとしていた…。

これが私の嫉妬にまつわる一番古い記憶だ。夏休み、小学校のプールでの出来事。それ以来、嫉妬という感情は「怖い」「醜い」ものだ、と思ってきた。それは、自分勝手な感情で何の罪もない他者を傷つけようとした自分を怖いと感じたからに他ならない。

このはじめての嫉妬からこれまでを振り返ると、長らく私はものすごく嫉妬深い人間だったように思う。過去形なのは、ここ10年ほどで、自分の中に巣食っていたものをやっと解放したように感じているからだ。この10年を振り返ることで、私が嫉妬から徐々に解放されていった軌跡をたどりたい。

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あるとき、「君はもうレールから降りたのだから。」と先生は言った。頭をガツンと殴られた気がした。私へのもどかしさと苛立ちと呆れとがない交ぜになった、あのときの先生の顔つきと語調を今もはっきりと覚えている。

当時私は、現役で合格した国立大学で体調を崩し、休学・留年した後、なんとか卒業したものの、定職に就かずに帰郷。うまくいっているように見える他人への嫉妬でがんじがらめになっていた。それを見かねた両親が、地元大学で教鞭を取っていた先生を紹介してくれたのだった。

どのような経緯で先生があの言葉を発したのか、もう忘れてしまったけれど、あの言葉をもらうまで、私はまだどこかで、大企業に就職して安定した人生を送って、という幻想を追い求めていたのだと思う。長い間、それこそが私の信じた唯一の道だったのかもしれない。

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その後、私は自分なりに足元を見、ハローワークに通い、地元企業に就職を決めた。正社員として、はじめてのちゃんとした就職だった。

振り返ると、私はいつも誰かの顔色をうかがって生きてきた。それは両親で、学校の先生で、上司だった。その人に認められることが「正解」だと無自覚に思っていた。

はじめての就職先でもそれは変わらなかった。どうしたら認めてもらえるのか、どうしたら評価されるのか、どうしたら給料が上がるのか、そればかり考えていた。それが満たされないと、同じ会社に勤めていた当時の配偶者にすら嫉妬した。それほど当時の私にとってはそれがすべてだった。めちゃくちゃかっこ悪いけど、それが私の裸の姿だった。

それはいつもしんどかった。誰かの期待を想定し、それに合わせようと自分を振り回し、そこからはみ出そうになると自分を嫌悪した。苦しかった。

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入社して数ヶ月が過ぎた頃、一冊の本を読んだ。それはとある小説家が書いた走ることについてのエッセイだった。他の内容はほとんど忘れてしまったけれど、今でも強烈に私の身にしみついて忘れない内容がある。それは「基準を自分に置く」ということだ。

この苦しみから抜け出すにはこれしかない、と直感的に思った。それ以来、それを意識するようになった。評価の基準を周り、つまり会社や上司に委ねるのではなく、自分の中に設定し、それをクリアすることで達成感を得ようとした。

だけど、それはなかなか難しかった。環境を変えずに自分だけ変わろうとするのはなかなかに厳しいものだった。

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入社して三年目の夏。私は配偶者と生活を共にしていた家を出た。幼い息子と二人、実家に身を寄せ、そこにも長くはいられずに友人宅に泊まり、最終的にはホテルに暮らした。調停をして冬には離婚が成立した。

翌春、会社を退職した。先は見えなかった。不安はあったが、それを見る余裕はなかった。ただ息子と日々楽しく生きていければそれでいい、と思っていた。他には何もいらなかった。

私にとって、本当に大事なものは何か、ようやくはっきりしたのがこのときだった。

休学、留年、就職の決まらない数年間、会社生活、結婚生活、離婚、退職。10年の間に起きたこれらの出来事は、私に余計なものを手放させてくれた。

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この10年を経て、私は他人に嫉妬することがぐんと減った。一つには、他人と比べようがなくなったからだと思う。一般的なレールというものがこの世にあるとするならば、そこから逸れに逸れて生きてきた。その中で、他人と比べたって無意味だし、いいことがないと体感したのだと思う。

もう一つ、それでも嫉妬に駆られたときに、自分に課していることがある。それは、「何に嫉妬しているのか、それはなぜなのか」を考えることだ。

たとえば、最近人に嫉妬を感じたことについて書きたい。それは文章を書くことについてだった。そのとき私は自分の文章に自信がなく、どんなに書いてもうまく書けない気がしていた。

そんなとき、身近にいる友人の書くものに嫉妬した。彼女の言葉は彼女のものであり、独自の世界観を持っているように私は感じた。そう思ったら彼女の持つ性質の一つ一つが嫉妬の対象となった。しかし、私はそこで自分に待ったをかけた。

何を、なぜ、私は彼女に嫉妬しているのか、それを自分に問うていくと、根底にある自分への自信のなさが浮き彫りになった。なんだ、私は自分に自信がないことを人への妬みとしてすり替えてしまいそうだったのか、と気づいた。

そうすると、私は私だ、と思えた。私には私の人生がある。だから彼女に書けて私に書けないものがあるように、私に見えて彼女に見えないものだってある、と思えた。そこまで思い、もう一度自分の気持ちを感じてみると、嫉妬の感情がずいぶん薄まっていた。

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嫉妬はものすごく大きなエネルギーを持っている。この世界に生きる人で、嫉妬に苦しんだことのない人は、おそらくほとんどいないのではないだろうか。それほど、嫉妬というものは、人が生きる上で誰しもに立ちはだかる大きな困難の一つだと私は思う。

嫉妬に狂う私は、自尊心の高さと自己肯定感の低さのはざまで、自己を保とうと必死だった。誰かに嫉妬し、その誰かを傷つけたり貶めたりしたいという感情に駆られるのは、自分を否定したくないという気持ちが強いあまりに、代わりに相手を下げようとしているのではないか。しかし仮にそのための行動に出たとしても、自分の苦しさは変わらない。私たちが本当に向き合うべきなのは、いつも私たち自身だ。

だから、私たちは今日も愚直に、苦しみに耐えながら、自分と向き合い、自問し、答えを探して、人と交わり生きていくしかない、と私は思う。そんな日々を積み重ねていくことで、逆に私たちは少しずつ苦しみから解放されていくはずだ。

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