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ざんねんなオトナ

ずっと前から、私思っていたのは、
「この国(日本)には、オトナがいないんじゃないの?」
ということでした。

奇しくも2006年に、「大人がいない」という本を、清水義範さんが上梓され、
「ああ、そうだったんだ」
と、ちゃんと日本を見ていた方がいたことに安心もしたものです。

今日、MSNで見つけた記事に、
コロナ禍の子どもの目に映る「ざんねんすぎるおとな」の生態 http://a.msn.com/01/ja-jp/BB13QLuj?ocid=se
というのがありました。

「自粛警察」とか「自粛ポリス」とか呼ばれる方々の行動は、朝ドラなんかでも出てくる、戦時中の婦人会連中とかの、
「欲しがりません、勝つまでは」
的な、
「私がちゃんとやってんのに、お前もちゃんとやれよ」
風の見せかけ道徳観に見えてしょうがないのです。

私はとっても現実的というか、(自分だけでしょうが)健全な欲望を持っている人間だと思っていますので、彼らの行動を見ると、
「あんな事をして、どんないい事があるの?」
と思ってしまいます。

店の入口に張り紙をしたり、人に対してどなったり、公園を見回ったり、本当にご苦労さまなことですが、それをやって本人はどんな得をしているのでしょうか?
「何の得もないのに、指1本でも動かすのってばからしい」
という、極めて現実的な思いは、
「この非常事態に」
持ってはいけないものなのでしょうか。

大人かどうかっていうのは、人のプライバシー、もちろん自分のプライバシーというものにも、きっちりとした境界線なり、けじめなりを持っていられるということも、あるんじゃないかと思うわけです。

というのも、へその緒でつながっていた胎児のとき、自分は母親と一体でした。つまり、境界線などありませんでした。
それが、へその緒を切られ、少なくとも物理的には別個の個体として存在するようになり、とはいえ心情的には脱母親というわけにもすぐにはできず、それがエディプスコンプレックスとかになってくるのでしょう。

で、自分と他人って、あくまでまったく別個のもので、そんなものにいちいち干渉したり判断したり裁いたりするのって、やっぱり完全に自分と社会というか他人というか、もっと言えば母親とも分離できていない証拠じゃないかと思うんですね。

さらにあまり嬉しくないのが、日本の人々って、なんか、
「自分が幸せになる」
ことより、
「他人が不幸になる」
ことの方がうれしいというか、それを認識するために血道を上げるというか、そんな気がしてなりません。

例えば、不倫。
私、芸能人が不倫するのって、はっきり言うと好意的に見てしまうくらいで、
「おっ、そこに来たか」
とか、思えるほどで、でもちょっと残念なのは、
「共演がきっかけで」
とか、
「パーティに顔を出したのがご縁で」
とか、
「それって一般人と変わらないなあ」
と思うときくらいです。

芸能人や有名人が不倫したって、私が1円の損をするわけでもないので、バッシングしたり、怒りのツイートをしたりする理由は、まったくありません。
だから、炎上とか言いますけど、一体どこで炎上しているのか分かりませんし、炎上させている人がいるとしたら、よっぽど時間がある人たちなんでしょうね、と思ってしまいます。

という私は、「ざんねんなオトナ」なんでしょうか………。



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