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マクトゥーブ مكتوب それは書かれている

 ある日、手に入れたばかりのカードを1枚めくってみると「記憶/魂の計画/運命と宿命」と書かれていた。添えられた説明書きにはこうある。

 「あなたがこのカードを引いたなら、あなたが、宿命ではなく運命の人生を歩むことを選んだからなのでしょう。」

 わたしはこの言葉の羅列をすぐには飲み込めないでいた。これまで運命と宿命の違いを考えてみたこともなかったから。

 辞書を引いてみると、運命は人為を超えた巡り合わせ、宿命は生まれながらに定められた変更不可能な資質とあった。

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 アラビア語の単語「マクトゥーブ」は、しばしば「運命」と訳されている。英語やフランス語でも「destiny/destin」と訳され、小説「アルケミスト」や映画「スラムドッグ$ミリオネア」でも象徴的に引用されている言葉。

 この国に来たばかりのころ、なぜモロッコで暮らすことにしたのか?としばしば聞かれて答えあぐねていると、必ずと言っていいほどこう返ってきた。

 「それがマクトゥーブだからよ」

 純粋に「あなたはモロッコに来る運命だった」と読める言葉の行間には、実はもっと深い潜在的とも言える暗示があると思う。なぜならマクトゥーブは、文法的にはそもそも「it’s written/c’est écrit(書かれた)」なのだから。

 「destiny」や「destin」が「destination(目的地)」をイメージさせる動的で(良くも悪くも)未来に進んでいくような印象の言葉であるのに対して、マクトゥーブという音の響きの中にあるのは「神の手によって書かれた人生」という、すでにあらかじめ予定され決定されているようなニュアンス。

 「あなたが来るっていうことは、最初から書かれていたのよ。」

 そのころのわたしは、そう言われてみればきっとそうなのだろうというくらいに、タイミングのまにまに成りゆきまかせに生きていた。



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 冒頭のカードのフレーズを読んで以来、ある考えが頭を離れない。マクトゥーブというアラビア語は、もしかしたら運命ではなくって、むしろ宿命と訳されるべきなのかしら?


 日本語で「運命」という時、それは選択次第で自分の手で変えることができるという含みを持たせる余地があるけれども、アラビア語の「マクトゥーブ」はどこかそうではない感じがある。不可抗力の出来事。

 「マクトゥーブ」を「宿命」と捉えてみると、にわかに色々なことが見えてくるように思えた。モロッコ人はどこか、人生に起こるあらゆることのすべてを受け入れているように見えるから。クルシー・ズィーン(万事良し)、マーシャーアッラー(神の思し召し)という言葉の力を借りて。

 わたしには彼らの死生観や日常の中の言動が、どことなく刹那的で厭世的のように思えることがある。
(逆に何か良いことが起こるとしたら、それは降って湧いたような奇跡であるべきなのだ。)

 一見して底抜けに楽観主義のようにも見える屈託のない笑顔や日常にあふれる冗談は、ひょっとしたら、そう言ったすべてを甘受した上での人生哲学なのかしら?と。

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 そんなことに思いを巡らせていた矢先に舞い降りてきたヒント、映画館でめぐり逢った作品「Mica」。モロッコ系でフランスの国籍を持つイスマエル・フェローキ監督による、あるモロッコ人少年の物語。

 地方部の貧しい家庭に生まれた少年は、家計を助けるためにスーク(市場)でミカ(ビニール袋)を売り歩いている。そして同時に「ミカ」は彼の愛称でもある。

 ある日、大都市・カラブランカからやってきた老年の男性に連れられて、丁稚奉公さながら出稼ぎに出ることになった。

 「彼らの家族は彼が働くのを必要としている。それが神が彼のために書いたことだ。」

 雇い主の口から語られるこのセリフに添えられたフランス語字幕は、「c’est son destin(それは彼の運命だ)」。それに対するあるキーパーソンの返答は「ならば彼の運命を変えなければ」。

(この人物はフランス語を話す設定になっていて、マクトゥーブという言葉は口にしない。宗教上や映画界における事情からなのかアラビア語のセリフを控えたのかも知れない。)


 そして、彼の運命はそこにとどまることはなかった。

 貧しい出自という宿命から飛び出して、少年は自らの手で人生の最初の一歩を切り拓いていく。あらかじめ書かれていたと思われたマクトゥーブを、自分自身のペンで書き替えるかのように。

 あるいは、彼のために書かれていた今ひとつのマクトゥーブ;稀な資質を見出していくことで。


 劇中、檻の中の鳥や大空を舞う渡鳥のイメージが、ところどころで象徴的に散りばめられている。

 先日、いつもは通らない道を選んでみたら、少し迷子のようになった。すると、これまで見たことのない光景に遭遇した。大陸を渡る直前のコウノトリの群れ。この時、わたしも少年ミカと同じ何かを読み取ったように思う。




 母語としてアラビア語を話すモロッコ生まれの監督が描く「マクトゥーブ」の物語。

 マクトゥーブを宿命と取るか運命と取るかは己次第、あえて冒頭の言葉に立ち戻ってみるならば、自身の魂の計画をしっかりと読み取れるかどうか。

 この作品のおかげで異なった角度からの視座を得て、カードに書かれていた神秘的な言葉の謎解きに少し近づいた気がしている。



映画「Mica」 エンディングテーマ

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