見出し画像

対人ストレスが減ったことに気づいた話

さいきん、おどろくほどおだやかな心地で過ごせていて、対人ストレスが減ったのだと気づいた。

こんなに他人のことで悩まず過ごす時間は、保育園児以来じゃないかと思うほど。
目の前のことがたのしい。
おだやかすぎて不思議なかんじ。
こんなに平和でいいのだろうか。

コロナ以降、人と会うのに自分の意志が必要になったというか。いろいろハードルができたというか。新しく人に会う機会が減ったというか。
それにより、自然と人間関係が整理されたというか、人との距離が調整されたというか。今がたまたまそういうタイミングなのか。それとも、この位の頻度で人に会うのが自分にはちょうどいいのか。

以前は、自分の意思より機会を優先していたように思う。
思わぬ出会いや出来事が起きて面白かった反面、良かれ悪かれ多少の負荷もあり。その負荷のおかげで得られたものもあったと思うけど、それなりのストレスにもなっていたんだなと。

昔から、望んでいない好まれ方をすることがあり。
好意がストーカーぽくなるとか。
信頼や友情が依存ぽくなるとか。
いつの時代も、そういう人が身近に一人はいたように思う。

こちらが想定している一定のラインを当たり前に超えてくるというか。
その想いが一方的というか。
強い感情を向けられるけど、自分は透明人間になったような違和感というか。

そういう人間の性質や歪さを 100% 面白がれる性格でもなく。
人を包み込めるキャパや優しさを持ち合わせているでもなく。
処世術に長けているわけでもなく。
自分に問題があるのだろうか、と思ったり。

日常生活で出会うので、いつの時も、そういう負荷が常にあった気がする。

人が抱く強い感情への苦手意識ばかり大きくなりながら、対峙するときは冷静であることに努めていた。
モヤモヤしても、その人のいいところを見て、そういう部分で相殺と思おうとしていた。
そういう人たちと接することなく、社会で生活することはできないと思っていたからだと思う。

今になって思えば、がんばって、我慢して、鈍化させて、消耗していたのかなと思う。

ここ最近、そういうがんばりをせずに生活ができている気がする。

当たり前だけど、嫌なことは嫌って言っていいんだよなぁ。
鈍化とポジティブ変換を使って、自分の心を守っていた部分もあるように思う。
目の前の人にはなるべく優しくありたいと思っていたのだと思う。それは相手のためだけじゃなく、自分の理想だったり望みだったりする部分もある。

なんだかニュートラルな今、無理してそんなことしなくていいんだと思った。

こんなにおだやかなのだなと、
素直にいきたいねぇ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?