老いをもってロックを引きずれ

あれほどスタイリッシュだったジュリー(沢田研二)が見る影もなく太って、おっさんというか、おじいちゃんのようになっていることに失望する人がいる。スターに何を望むかは人それぞれなので、それはそれで構わないのだが、それをもってジュリーはもうロックじゃないとかいう人がいるとしたら、それは違うと思う。

スタイリッシュなファッションとか体型とか物言いとかいうものは、ロックというよりも芸能的な側面なんであって、そういった芸能的なものから生まれながらも、そこに収まりきらない、リアルな部分こそがロックなのだ。といって、ぼくは芸能的なものを否定しようというのではない。芸能がなければロックはステージにあげることができない。リアルはリアルなままに終わって、そこから絵空事のエンターテインメントが立ち上がることはないのだ。ロックは絵空事を必要としている。

しかし、年齢を重ねると、リアルな衰えた身体から絵空事を作り上げるのに過大な労力を要することになる。それを避けるいちばん手っ取り早い方法は、若くして死ぬことだ。年老いてからの可能性を放棄して、若き日のカリスマ性のなかに身をうずめることだ。しかし、奇しくも同じ27歳で死んだジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、ジム・モリソン(のちにそこに過去と未来からロバート・ジョンソンとカート・コベインが加わる)は死にたくて死んだわけではない。確かなことは、彼らも、ジョーも力石も、あんなところで死ぬべきではなかったということだ。

あしたのジョーなんか嫌いだ
太って結婚してしまった
西のほうが俺は好きだ
燃え尽きて灰になっちまうような奴なんか
オレは嫌いだ
              三上寛「あしたのジョーなんか嫌いだ」

一方、生き残ったものたちは、老いとどう向き合ってきただろうか。ミック・ジャガーのようにジム通いを続けて絵空事を護るもの。その横でリアルなおじちゃんのブルースを添えるキース・リチャーズのようにのように静かに老いを受け入れるもの。ジュリーは老体を晒して後者の道を選んだ。その一方で、ステージにタイガースのメンバーを呼び寄せ、青春デンデケデケデケ的な初期衝動に立ち戻ることによって、つくりこまれたエンターテイメントに収まりきらない自分をステージの上に再構築した。これ以上にロックな年の取り方があるだろうか。

いいじゃないですか。27歳で死んだ連中が引きずることのできなかったロックを引きずり続けているのは、太ったジュリーだ。老いは確実にやってくる。かつてあれほどきびきびと動けたはずの肉体が、ミケランジェロの自画像のような残像となって踊る意思を妨げる。それでもじわじわと動こうとする静かな抵抗こそが、絵空事芸能を現実と結びつける。シンプルに言えば、それは「生きる」ということだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?