今日のブルース㉔レッド・ネルソン「泣いて母を呼ぶブルース」(1936年)再訪

ブルースは悲しいだけの歌ではない。そこには必ずそれをひっくり返す笑いがあるーある意味じゃまっけな、そんな信念に後押しされて、頼まれもしないのにこのコラムを書いてきた。ところが、このコラムでとり上げながら、その肝心のところが、どうも納得がいかないまま、放置してきたブルースがある。レッド・ネルソンの歌う「泣く母のブルース」である。

愛しい母ちゃんは死んで神の栄光の元に おやじはとうに行方知れず
愛しい母ちゃんは死んで神の栄光の元に おやじはとうに行方知れず
もう一度母ちゃんに会うには、汚い生き方を変えなきゃなんねえ

オレの悩みをだれも知らねえ オレと神さま以外は
オレの悩みをだれも知らねえ オレと神さま以外は
愛してくれる優しい女もいたが 今じゃオレを汚れた犬のように扱う

墓石が枕 墓場がオレのベッドだ
墓石が枕 墓場がオレのベッドだ
空がオレの毛布で 青い月がオレの敷布だ

深夜遅く黒猫がはい回り、夜明けまで悪夢が支配する
深夜遅く黒猫がはい周り、夜明けまで悪夢が支配する
女を愛したって、他の男に奪われるんじゃ意味がない

泣くのはやめろよ 涙を拭きな
泣くのはやめろよ 涙を拭きな
オレとこの世にいられないなら、母さん、そろそろ行く時間のはずだ

前回とりあげたときには、「~ing」の形が現在分詞にも動名詞にもとれる英語の欠点を逆手にとって、「泣いている母のブルース」「母ちゃ~んと泣くブルース」のどちらの意味にも取れる多義的な表現になっていることを明らかにした。ところが、そうなると、母も涙、子も涙の大衆演劇になってしまい、ブルースとはちょっと違うし、曲調が軽快なブギであることともしっくりこない。結局、悲しい歌詞とブギの軽快さのギャップにブルースとしての笑いがあるのだろうと結論したのだが・・・だとしたら、ずいぶん大味な笑いだ。

しかし、そうではなかったのだ。考えてもごらんなさい。放蕩の限りを尽くした男が母の死ひとつでメソメソと改心するわけがない。仮にも、ダーティ・レッドと呼ばれた男である。墓石を枕、墓場を寝床にというのは、死んだ母を思って、とか、母さんオレもそのうち行くからね、などという殊勝な気持ちの表れではない。むしろ、大切な人の死を踏み越えて生きていこう、オレは死なねえぞ、という強靭な生命の発露だ。


墓場や墓石の禍々しいイメージは、青空が毛布で、青い月がシーツ、というところで、のびのびと宙に放たれる。(山之口獏の詩に高田渡が曲をつけて歌った「生活の柄」の一節「歩き疲れては夜空と陸との間にもぐりこんで」を連想する)若いころ、よく終電を逃し、公園で夜を明かしたが、そこで見た明け方の空はまさに青空と青い月が顔をそろえる、夜と昼の混じり合った世界だった。そして、そこで死は生に、放蕩は生きる逞しさに転換する。

更生しかかっていた悪党ネルソンは復活し、母親に涙を拭くように言いふくめて、アウトローとして孤独に旅立つのだ。この歌に泣けるところがあるとしたら、ここだ。同時に、こいつ、ぜんぜん反省してね~と笑えるところでもある。後悔はするけど、反省はしない。これがブルースだ。

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