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ブルースの暴力表現 俺と悪魔と甘い乱暴者

Early this morning
When you knocked upon my door(2回)
And I said “Hello Satan
Ibelieve it’s time to go

朝、男が目を覚ますと、戸を叩く音がする。開けてみると悪魔だ。「やあ、悪魔くん、そろそろ行く時間だな」 ― ロバート・ジョンソン「俺と悪魔のブルース」の冒頭である。幼いころから悪魔の恐ろしさを刷り込まれたキリスト教徒にとって、悪魔が登場するブルースは禍々しく、恐怖に満ちたものなのかもしれない。しかし、日本の無神論者である筆者からすると、悪魔との間の親密な空気は、むしろ微笑ましくすら感じられる。恐ろしい存在であるはずの悪魔が、礼儀正しくドアをノックして、大人しく返事を待っている姿を想像すると、笑いを押さえることができない。オランダ・アムステルダムのアニメーション作家イネケ・ゴーズがこの歌につけた秀悦なアニメーションでは、男は悪魔とシャドー・ダンスを踊る。不気味だがユーモラスなこのアニメーションの存在は、「俺と悪魔」の関係にコミカルな要素を見出すものがキリスト教文化圏にもいるということを示している。

ちなみに、シャドー・ダンスは、ミンストレル・ショー(顔を黒く塗って黒人のステレオタイプを演じる芸能)の創始者トーマス・D・ライスが編み出した演目で、ライスが担いだ袋から登場した子役が、ライスの動きを逐一真似ることで笑いを誘う。シャドー・ダンスを受け継いで、1930年代に一世を風靡したボードビリアン=テッド・ヒューズは、1927年、初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』で黒塗り芸を披露したアル・ジョルソンらとともに、この演目の挿入歌「俺と俺の影」を作詞し、歌っている。「俺と俺の影(Me and My Shadow)」と「俺と悪魔のブルース(Me and the Devil Blues)」は文法的に破格の"Me"から始まるタイトル(本来は主格なのでI)、影/悪魔と並んで歩くイメージ、ノックに言及している点など共通点が多い。ロバート・ジョンソンが同時代のコミカルなヒット曲を下敷きにブルースを書いた可能性もあるのではないか。もしそうだとすると、ジョンソン自身、コミカルなニュアンスをこめて悪魔の訪問を歌っていた可能性がある。

さて、挨拶もそこそこに、男と悪魔は仲良く並んで歩きはじめる。

Me and the Devil
Was walkin’ side by side(2回)
And I’m goin’ to beat my woman
Until I got satisfied

ところが、並んで歩くうちに、悪魔に唆されたのか男はとんでもないことを言いはじめる。「オレは自分の女を、気がすむまで殴ってやる」女を殴るなんて、サイテー。もうブルースなんか聞かないっ!という声が聞こえてきそうだ。まあ、まあ、落ち着いて。この決意表明をもって、この男が女を殴ることを何とも思わない暴力男だと決めつけるのは早い。そもそも、決意表明というのは、できなかったことを今後やると公に宣言するものである。だとするなら、この言葉は男がそれまで女を殴ったことがない、殴ろうとしても殴れない男だったことを示していないだろうか。そこで、悪魔の助けを借り、「今日こそ、な、殴るぞ、あ、あの女め、言うこときかせてやる」と震えながら自分に言い聞かせている(どちらにしても最低?そりゃあ、ごもっとも)。

こうした気弱な男の姿は、ジョンソンのパブリック・イメージとも一致する。ジョンソンのブルースには他の男性ブルース歌手の歌詞に見られるような、根拠のない性的能力の誇示があまり見られない。それどころか、たった29曲しか残されていないレパートリーの中に、自らの性的不能について歌ったものが2曲もある(「死んだ海老のブルース」と「蓄音機のブルース」)。性的な強さを貴重徴する代わりに、ジョンソンは「女がトラブルに巻き込まれると、だれもが離れて行ってしまう」(「オレの台所に入っておいでよ」)、「いい友達ができたら、大事にしてやるんだぜ」(「ホェン・ユー・ガット・ア・グッド・フレンド」)といったフレーズに見られるように女性に共感する姿勢を見せることで、自分を「女にかわいがられる男」(a ladies’ man)として演出する。ちょっとしたことで性的に不能になるほど繊細で、女性に優しい言葉をかけることを惜しまない気弱な男 ― ようするに、ジョンソンのイメージは、女性に暴力を振るう男とは真逆に位置しているのだ。

もちろん、俺(ブルースで歌われる男)=ジョンソンではない。ブルースが私小説的なジャンルであるとしても、私小説というものがそもそもそうであるように、現実の作者と作品に描かれた作者の間には距離がある。しかし、聴衆の多くは語り手の男がジョンソン自身であると考えただろうし、ジョンソンもまた、パブリック・イメージを演じながら、ブルースで歌われる男とステージ上のロバート・ジョンソン、そして、ときにはステージを降りたロバート・リロイ・ジョンソンまでもが、同じ人物であるという印象に聴衆を誘導するよう努めたことだろう(実際には違うところがたくさんあったはずだが)。そして、彼のブルースは、そうしてできあがった「ロバート・ジョンソン」がやりそうなことというパブリック・イメージに基づいて、リアリティを付与されている。

パブリック・イメージとしてのジョンソンが「女を殴れない男」だったのだとすると、その姿はブルースの周辺に群がる荒っぽい男たちの目には、「自分の女も殴れない腑抜け」と映ったかもしれない。男たちの視線は、悪魔に唆されて暴力に目覚める男の堕落と、女を支配しようと足掻く気弱な男のコメディという2つのコンテクストを衝突させる。客席からは、ジョンソンを揶揄する、「おいおい、殴るなんて言っちゃって大丈夫なのォ。恐いカノジョ来てたぞォ」といった、野次が飛んだかもしれない。もしこの想像が正しければ、コンテクストの衝突によって。ジョンソンの腑抜けぶりに対する笑いが生み出されたことになる。


3番目のヴァースは、追いつめられた女と男の会話である。

She say you don’t see why
That you will dog me ‘round
Spoken: Now, babe you ain’t doin’ me right, don’cha
She say you don’t see why
That you will dog me ‘round
It must-a be that old evil spirit
So deep down in the ground

2行目と5行目に人称と話法に文法上の混乱が見られるが、これは混乱というよりも間接話法のなかで、直接話法の人称を使い、臨場感を演出する中間話法的な用法と言うべきかもしれない。直後に録音された別テイクでは、”That I will dog her around”と修正されているが、表現の生々しさの点で一歩抜きんでているのはファースト・テイクである。「彼女は俺が何もわかってないと言う。だからあたしをつけまわすのねってな」破格の現在形で書かれた女の言動は、日常的にくり返されてきたもので、男はそれを反芻し、「お前の態度が悪いからだろうが」と毒づいている。しかし、今日はいつもと少し違う。男は「(女を追い回すのは)地中深くにいるあの悪霊のせいかもしれないな」と、悪魔が味方についていることを仄めかす。初めて女を殴る男の暗く高揚した感情が手に取るように伝わって来る。


ところが、最後のヴァースで物語は急展開を見せる。男が自らの死と埋葬について語りはじめるのだ。

You may bury my body
Down by the highway side
(spoken) Baby, I don’t care where you bury my body when I dead and gone
You may bury my body, ooh
Down by the highway side
So my old evil spirit
can catch a greyhound bus and ride

唐突に思えるこの展開は、語り手が悪魔の力を借りたにもかかわらず、女との闘いに負けたことを示唆してはいないだろうか。客席からは、唐突な死によって早々と白旗をあげたジョンソンに、「もう降参ですか」と半ば呆れ気味の笑いが漏れたかもしれない。その笑いの端緒を逃さずに、ジョンソンはたたみかける。「俺の死体を高速道路わきに埋めてくれ/そうすれば、俺の悪霊はグレイハウンド・バスに乗ってどこへでも行けるから」女に負けた「俺と悪魔」は悪霊となり、長距離バスに乗って遠いどこかへ逃げていく ― 荒くれものの男たちから見れば、腑抜けにしか見えない姿をさらけ出しながら、機知に富んだオチでしめくくった若いブルース・シンガーに、聴衆はギターのテクニックに対するものに負けるとも劣らない賞賛と笑いを惜しまなかったことだろう。


こうした暴力をめぐる笑いは、暴力を振るわれる側にいることが多い女性のブルース・シンガーのパフォーマンスにも見られる。フィーメイル・ブルースの先駆として知られるガートルド・”マ”・レイニーのレパートリーに「スウィート・ラフ・マン」(甘い乱暴者)という歌がある。

I woke up this morning, my head was sore as a boil(2回)
My man beat me last night with five feet of copper coil

He keeps my lips split, my eyes as black as jet (2回)
But the way he love me, makes me soon forget

女性のブルースには、「暴力を振るわれてもあなたが好きなの」という、依存症的な女性を歌った歌の系譜があり、この歌もそうした「マゾイステックな女性の歌の伝統」のなかに位置づけられてきた。暴力を振るわれ、どんなに足蹴にされてもついてくる都合のいい女 ― しかし、マ・レイニーが力強い声で飄々と歌う「甘い乱暴者」に描かれた暴力はあまりに過剰である。男は銅線を腕に巻いて女を殴る。銅線を巻くのは、拳に重みを加えて、相手に致命傷を負わせる、荒くれ者同士の争いで使われる最終手段だ。ジョンソンを腑抜けとした男たちに言わせれば、女相手にそこまでしなきゃ勝てないのかという軽蔑の対象、物笑いの種になったはずである。そして、実際、語り手の女は強い。男に殴られ目の前が真っ暗になるほど血を流しながら、それでも愛を求めて近づいてくる女と言うのは、男の立場から見れば、都合がいいどころか、恐ろしいとしか言いようがない。

そして、レズビアンであることを匂わせる歌(「プルーヴ・イット・オン・ミー・ブルース」(Prove It On Me Blues)を歌い、男嫌いの「強い女」として知られていたレイニーのパブリック・イメージは、歌のなかの男に付き従う女のイメージとぶつかり合い、その落差が笑いを生んだことだろう。聴衆は、笑いを通じて女性に暴力を振るうことの卑劣さや、暴力を振るわれてもついていってしまうことのバカバカしさに、気づくように仕向けられている。歌で語られる物語のコンテクストでは、ひたすら暴力を振るわれる悲劇的な女性であったものが、ステージの上で観客とのやりとりに晒されることで、笑いと教育という新たなコンテクストが生まれるのである。


このように、ブルースの暴力表現は多義的で、多面的である。「俺と悪魔のブルース」について、イライジャ・ウォルドは、悪魔が登場する他の多くのブルース同様、「面白おかしい歌としてつくられた」とし、中でももっとも笑えるのが、「俺の死体をハイウェイわきに埋めてくれ」以下のエピソードであると述べている。ブルースをコミカルな表現と捉えるこのような考えは、人間と近しい悪魔の行動を微笑ましいと感じ、「女を殴ってやる」という決意表明に、女を殴れない男の実像を見る本稿の解釈に近いものである。こうした解釈をもとにすれば、高速道路わきに死体を埋めてくれという結末もまた、よくつくられたコメディに他ならない。マ・レイニーの「スウィート・ラフ・マン」では、男に虐待される不幸な女という悲劇的なコンテクストが、何度足蹴にしてもついてくるしつこい女という喜劇的なコンテクストによって上書きされる。しかし、悲劇的なコンテクストは一方的に喜劇に塗り替えられたわけではない。男性の女性に対する暴力は忌むべき現実であり、だからこそ、喜劇的な表現との落差を通じて、笑いが増幅される。ブルースを接点とする十字路で、悲劇と喜劇は交わり、両者の対話のなかから多義的で多面的な暴力描写が生まれるのである。


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