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「スウィート・ホーム・シカゴ」の謎 あなたはなぜシカゴに行くの①

「スウィート・ホーム・シカゴ」と言えば、ロバート・ジョンソンが作詞・作曲した、セッションなどでトリを飾ることも多いブルースのスタンダードである。ココモ・アーノルドの「オールド・オリジナル・ココモ・ブルースなどいくつかの元ネタはあるにしても、それらのなかに「スウィート・ホーム・シカゴ」ほど多くのカバーを生んだものが他にないという事実が、この曲の持つ馴染みやすさ、普遍性を示している。ジョンソンは過去の音楽的遺産を、どこにも深くのめり込むことなく、さらりと消化して、都会的な感覚で仕上げるのが得意な人で、そのあたりの才気がこの曲のスタンダード化に大きく寄与しているのだと思う。

シカゴはスウィート・ホームなのか

音楽的には上記の通りなのだが、歌詞に目を移してみると、考えれば考えるほど、謎だらけの暗号文のような内容である。まず、そもそも、なぜシカゴなのか。元歌となったココモ・アーノルドの「オールド・オリジナル・ココモ・ブルース」(1934年)の「ココモ」がシカゴを指していた、という流れはあるにしても、ミシシッピ州ヘイゼルハースト出身のロバート・ジョンソンであってみれば、「スウィート・ホーム・ヘイゼルハースト」とは言わないまでも、ミシシッピ州の州都ジャクソンや、テネシー州メンフィスなど南部の都市を歌いこんだほうがよくはなかったか。なぜ、シカゴ?

アメリカ史に詳しい方からは、そりゃあ、南部から北部へ黒人の大移動があったからでしょう(知ってるくせに)という声が上がりそうだ。1910年代から40年代にかけて、ジム・クロウ法(人種差別法)やリンチの増加と言った過酷な南部の状況を逃れて、多くのアフリカ系アメリカ人が自由と仕事を求め、北部の都市に移住した。しかし、そうして移住した北部の都市は、彼らにとって「スウィート・ホーム」と呼ぶべき場所だったのだろうか。南部で夢見たような理想の土地ではなかったことはおくとしても、「ホーム」と呼ぶには移住からの時間が短すぎるのではないか。3代続いてはじめて江戸っ子というじゃねえか、べらぼうめ。

このことがあまり問題にならないのは、ロバート・ジョンソンが亡くなった後で、シカゴがまさにブルースの町になったからではないかと思う。40年代以降、チェス・レコードなどの独立系レーベルを中心に、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフら南部から移住したブルース・マンが持ち込んだ泥臭いデルタ・ブルースを電気化して、シカゴ・ブルースが出来上がっていく過程は、ブルース・ファンなら知らないものはいないだろう。まさしく、ブルースの故郷シカゴ・・・しかし、それはロバート・ジョンソンが亡くなった後のこと。マディのわずか2歳年上にすぎないジョンソンが生きていたら、エレキを手にどんな音を出していたか、早すぎる死が悔やまれる・・・ということはさておくとして、この歌ができたころ、戦前のシカゴはどうだったか。

もちろん、ブルースはあった。ビッグ・ビル・ブルーンジー、サニー・ボーイ・ウィリアムソンI、ルーズベルト・サイクスといった優秀なミュージシャンもいた。しかし、その多くがシカゴで活躍する前に、すでに名をあげていた実力者で、シカゴに来る前は図書館録音しかなかったマディとはわけが違う。別の言い方をすれば、彼らがシカゴで活動する必然性は、大都市で音楽の需要があったことと、ブルーバードという薄利多売のレコード会社があったことに尽きる。シカゴ独自のブルースが生まれたわけではなく、当時のシカゴで生産されたようなシティ・ブルースはどこの都市にもあった。シカゴはとくに「ブルースの故郷」なわけではなかったのである。

それではなぜ、シカゴが、スウィート・ホームなのか?

そもそも、北部の大都市シカゴはスウィート・ホームと呼ぶにふさわしい場所なのだろうか。英語で、場所を表す言葉にいつの間にかdownという言葉がくっついてくることがある。ダーーーウン・イン・ミシシッピなんていうのが典型例。ときどき学生に「このdownは何ですか」と聞かれると(申し遅れましたが、大学の非常勤講師をしております)、なかなかめんどくさい。辞書を引くと、downは「南へ」とあるが、これで南下ということかと納得してはいけない。「地方へ」「田舎へ」という意味もあって、どちらかというとこちらに近い。それも、政治経済の中心にいる側が、周縁に対してチョット見下して使う。あるいは周縁から中心に出てきたものが、遠い故郷を振り返って使う。日本語だと「くんだり」とか、「思えば遠くへきたもんだ」とか、ちょっと違うか。ともかく、その距離感を出すためか、だーーーーうん・いん、と妙に伸ばすことが多い気がする(これは南部方言ののったりした間もあるかもしれない)。


スウィート・ホームというのは、このdownの感覚に近いものがあるのではないか。経済や政治の中心地である都会の喧騒から離れた、懐かしの我が家。日本でも「埴生の宿」として知られる「ホ-ム・スウィート・ホーム」(1823年)がまさにそうだ。これは、もともと『ミラノのメイド、クラリ』というミュージカルの挿入歌だった。「公爵に見初められたメイド=クラリは、公爵の従妹と称してお屋敷で暮らし始めるが、公爵に結婚する意志がないことを知り、実家に帰るものの、家名を汚したとして父に叱られる。公爵はクラリを本当に愛していることに気づき、彼女の後を追い、ハッピーエンド」という18世紀中ごろから19世紀にかけて流行った、サミュエル・リチャードソン『パメラ』(1740年)なんかの感傷小説のミュージカル版。お屋敷で公爵に愛されることもなく、孤独な日々を送るクラリが故郷を思って歌うのがこの歌、ということらしい。

つまり、こういうのがスウィート・ホーム。人間的でない孤独な生活から逃げかえるべき、貧しく慎ましい場所。「ホーム・スウィート・ホーム」の邦題「埴生の宿」も赤土でできた質素な小屋のことで、同じことを言っている。摩天楼の立ち並ぶ大都会シカゴとはいかにも似つかわしくない。ところが、「スウィート・ホーム・シカゴ」の原形となったココモ・アーノルドのブルースでも、「11の明かりが灯る町」=ココモ(アーノルドによるとシカゴのこと。シカゴ大火の原因がランタンであるとされたことから、電力整備が進められた)に、「スウィート・ホーム」がつけられている。この時点で何か意味の転倒があったと考えなければならない。それは何だろうか?(続く)


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