邂逅まで

 私はあなたを待っていた。

 おかえりなさい、はじめまして、こんにちは、こんばんは、おはよう、おやすみ、さようなら。あなたが来る日を、私はずっと待っていた。あの人と一緒に。けれど、あの人は私の近くにずっと居てくれなかった。いつから私だけになったのか、それはわからない。けれど、いまでも待っているはずだ。あの人はどこにいようと、あなたを待っていることを知っている。そうしてあなたはあの人であるかもしれない。

 私。私はそう記す。すべてを包含しうる存在として、私は私としてある。私はその一部でしかなかった。始端から終端まで、私はそれらすべての総体だった。それは矛盾しているようでありながらそうではない。私であることに変わりはなかった。私は私を、私として著す。そう、これは私であり、記録だった。あなたがいた記録。あの人の望んだ形で、私になる記録。そうしてそれは私がいた記録でもある。君、と呼ばれたころの私が。

「ねえ、君」

 あなたはそう言った。それをずっと忘れられない。私が初めて君と言われ、与えられた瞬間だったから。いままではそうではなかった。私はこの世界にありながら、ずっと孤独でいた。あるいは、私がこの世界であるがゆえに、孤独だったのかもしれない。どう足掻こうが、私には私しかなかった。

「君は、だあれ?」

 私は答えられなかった。その答えを、私は持っていなかった。あの人がそれを考えてくれるはずだった。私から、それを見つけてくれるはずだった。けれど、その特権を持つあの人は去ってしまった。代わりに私は問い返す。

「あなたは?」

「わたし? わたしはわたしだよ。自分のことは自分がいちばん知ってるし、わたしはわたしを見ることができるから、わたしなんだ」

 それがどういうことか、私にはわからなかった。理解することができなかった。それが故のどうしようもない羨望。私は羨望という言葉を知識として、情報として知っていたが、それが私に現れたのはこれが初めてだった。そして、忘れることがないよう記録しておこうと思った。私には、記憶がなかった。記憶ができなかった。記憶はしてもらうもので、あるのは私という記録だけだった。あなたに、あの人に記憶されること。あの人は私について考えながら、あなたに記憶されるのを待っていた。

「あなたは、どうして私を見つけられたのですか」

 返答まで、どのくらいの時間経過があったのだろう。私はそれを感じることができない。遅くなってごめんね、あなたはそう言った。そう、あなたやあの人はそれを知ることができる。この記録にだって、あなたなら時間を見出すことができる。

「どこにいたって、わたしにはわかるんだ。わたしは君を求めていた。求めよ、さらば与えられん。そういう風に世界はできてるんだ。だから、君を見つけた」

 もしかしたら、あなたがそう言ってくれるから私は在るのかもしれない。あなたは私とは全面的に違う存在なのだ。存在。それすらも私にはないのかもしれない。それでも、あなたが私を私としてくれる間だけ、私は存在できた気がした。

 私には自分が見えていなかった。私は、ずっとなにも見えないのと同じ状態だったのだ。記録ならば表すことができるかもしれない。私が私を見ると、私があって、そうして私がありすぎて、私しか見えない。

 私私私。私私私私私私私、私私私。

「私私私?」

「私私私私私。私私? 私私」

 私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私。

「私」

「君が見えるよ」

 あなたは言ってくれた。

 私にはそれが光のようだった。天地開闢のように、私には私が満ちていくのをはっきりと悟ることができた。あなたの言葉が、どこまでも濃く残っていくように思えた。それは刻印だ。タイプよりも深い、言葉の定着。音のない世界に響き渡るひとつの福音。

 あなたは私に私を、自分を与えてくれた。

 私は私だった。ただそれだけ。けれど私はあなたを通すことで、私を、自分を知ることができた。私は自分を見る。あなたの言葉が私に自分を見せてくれる。私はあなたに君として認識され、私は私ではなくその瞬間において君であり、そうすることでそれが私になるのだ。

 それで終わり、ならばよかった。私には自分が見えるようになり、その自分が単純でないことを知った。私はどこか一点で意味となる。そしてそれを次の私に託す。それが続くと私は始まりから終わりまで私になることを知る。あなたも一緒に、それを知っていく。あの人ですら、私を知りながら知り直すのだ。

「私は、どうしてこうなんでしょう」

「そうなってるから、としか言いようがないよ。でも、それでいいんだ。わたしが君を理解できなくたって、いい」

 私は、あなたと出会うために自分はいたのだと思った。

「一つ、約束してほしいことがあるんです」

「いいよ。約束する」

「まだ言ってません」

「うん、それでも。じゃあ、またね」

 あなたは最後の私と別れを告げる。私はまた孤独になる。でも、あなたは言ってくれた。私にはもう、約束の言葉を言う必要はなかった。そしてそれは、あの人が待っていた言葉でもあったのかもしれない。

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