帰路

 街路は底冷えするようで、白い蛍光灯のひかりさえ冷たく感じられた。帰路の途中、最寄駅から坂を下り、大通りを渡って、小道に入ったところだった。まだ冬というには早い時期だったし、北風が強く吹いてるわけでもなかったけれど、私は足元から忍び寄ってくる冷気から逃れるように足をはやめた。視界のうちのいちばん先だけを見つめ、道の間をそびえるように立つ住宅に目を向けることもしなかった。きんもくせいの匂いや湿度の高いシャボンの香りに意識をもっていかれそうになるのを懸命にこらえ、どうにか足を踏み出し続けた。いくつかの通りを渡り、いくつかの角を曲がった。そのたびに、煮物の醤油が煮詰まった匂いや濡れた土の匂い、煙草の香りなどが私を捉えるように鼻をよぎっていった。歩く速度が落ちているのはわかっていたが、これ以上速度を出すこともできず、右足を出したら左足、そうしてまた右足とただその動作ひとつひとつを実直におこなっていった。意識しなければ、足はいまにも止まってしまいそうだった。後ろを振り返ろうなんて勇気は私にはなかった。いまでは私はなににも安心できなくなっていた。なにがいけなかったのだろう、と汗をぬぐいながら思った。考えごとをする余裕なんてなかった。しかし、それは気づけば頭に浮かんでくるのだった。いつもの通り仕事を終えて帰っていた、ただそれだけだった。自宅まであともう少しというところまで来て、私は困惑した。いま目の前にある角を曲がればよいのか、もうひとつ先のブロックの角を曲がればよいのかわからなくなった。それも右に曲がればいいのか、それとも左なのか、自宅の外観を浮かべたり、今日駅に向かう際に使ったはずの道を記憶をたどろうとしたけれど思い出せなかった。いつも、あまりにも自然い、スムーズに駅まで行って、そうして駅から帰ってくる動作をこなしすぎて、私の意識からそれは抜け落ちてしまっているのだった。いや、そうではないはずと思い直す。私は先ほどまで、足早に道路を進みながら自宅までのルートを思い浮かべていた。なら、私は先ほどのどこかでそれを落としてきてしまったのだった。煮物を煮ていたあの家の前だろうか、それともシャボンの香るアパートの裏か、どこでもありそうな気がしたし、どこでもないような気がした。と、スマホが鳴った。そうだ、マップを見ればいいと思ったときには、それを天啓のように感じた。その天啓の元となった通知に目をやると、恋人から「今日なんじに帰ってくる?」というメッセージだった。そうだ、恋人に電話をして、道案内をしてもらえばいい、そう思って私は恋人に電話をかける。「もしもし」恋人の平板な声がする。「あ、私だけど」「ああ」と恋人の声の温度が上がったように感じた。「いま、どこにいるの? 残業? 今日さ、暑いから冷麺はどうかなって」「いいね。私もいま暑くて」「じゃあ、用意しとくね。着くまでどのくらいかかりそう? 遅いなら先食べちゃうけど」「ううん、もうすぐ着くよ。たぶん。そのはずだから、準備も一緒にする。っていうかね、そうじゃなくて、ちょっと変なこと言うけど、いいかな」「うん」「帰り道がわかんなくなっちゃって」「どういうこと」「いや、冗談じゃないの。でも、なんかわかんなくなって。ねえ、いまここにいて」私は視界に映る情報をすべて恋人に伝える。「ああ、そこか。もうすぐじゃん」恋人があきれたように笑う。「「ほんとごめん、道案内してくれる?」「もちろん。じゃあさ、とりあえずね、振り返って」「え?」「だから、振り返って」「それは、後ろに?」「そう」「なんで」「なんでも」「いや、それは」恋人の電話口から、金属音がした。「なんの音?」「ああ。鍋出したんだよ。麺ゆでなきゃだから。で、振り返った?」「いや、それはなんというか、できない、というかしちゃいけない気がするんだよね」「なんで?」電話口からは断続的に金属音が響き続ける。大きさは一定で、しかし張り詰めたように高く耳障りな音だった。「別にそれはいいじゃん。ね、とりあえずさ、家に帰りたいから。もう疲れちゃって」「でも、まだ後ろを見てないんでしょう?」「そうだけど」「見ろ」「え」「見ろ!」語気が途端に荒くなり、まるで恋人の声じゃないみたいだった。私はスマホを耳に当てたまま走り出す。その間も電話口からは「見ろ!」と金属音が交互に響いていた。いっそ電話を切ってしまおうかと思ったが、でも、なぜかそれはできなかった。いま電話を切ってしまえば、私はどこにもつながらなくなってしまうような気がした。電話口から響き続ける音たちはずっと変わらず響いている。と、そこにキャッチの音が鳴る。立ち止まって画面を見れば、友人からだった。私は即座にそちらに接続を切り替えた。「あ、いま大丈夫?」「うん、どうしたの」私は息を切らしながらなんとか言葉を押し出した。「あのさあ、あたし、いま電車で寝てて、で、あやうく乗り過ごすーって思ったところで起きたんだけどね、」「うん」深呼吸して息を整える。気のせいか、金属音が遠くから聞こえたような気がした。「で、乗り過ごしそうになったのが、あんたの夢見てて。なんかね、あんたが急いで歩いてる、みたいな夢で。で、電話しはじめたかと思ったら、急に走り出して。そんとき、あんたの後ろで大きな音がしたの。なんだったんだろあれ、なんかおっきい金属の塊が落ちるみたいな、そんな感じの音で。事故でもあったみたいに大きくて。で、それで目覚ましたんだけど」「そう、なんだ。私は大丈夫。事故ってないし、元気だよ」「あ、そう、ならいいんだけど。なんかこれって虫の知らせかなーって思っちゃってさ」「そっか、わざわざありがとうね。でも、大丈夫だよ。うん」「大丈夫じゃないっしょ」「え、なんで?」「あんたのほう、夢で見た金属の音するもん。電話かけたときよりいまのほうが近くなってる。逃げたほうがいいんじゃない。なんかわかんないけど、やばい気がするし」耳を澄ませば、たしかに聞こえた。友人から電話がかかってきたときよりも、それは近づいていた。「わかった。もう家の近くだからね、恋人に迎えに来てもらうよ」「あんたに恋人なんていないでしょ」「いるよ」「でも、昨日会ったときには半年前に別れてからずっといないって言ってたじゃん」私は思い返して、そうして、私には恋人がいないことを思い出した。じゃあ、あれは誰だったんだろう。必死に私に後ろを振り向かせようとしていたあれは。「どうしよう。そうだった。ねえ、どうしよう」どこで間違えてしまったんだろう。いろんな道を渡って、いろんな角を曲がった。どこかで間違えた。でも、それがどこかはずっとわからなかった。「とりあえず、今日なにしたか言ってみ」「うん。起きて、仕事行って、帰ってきて、で駅から帰る途中で道がわかんなくなった。でも、特別変わったことはしてないよ」「いや、なんかしたよ。だから変なんだよ」「でも、昨日から読んでた漫画を読み終えてそれで、使ってたブックカバーが昨日からなのにすぐ破れて、レビュー書いて。それぐらいだよ」「それだ」「え?」「いますぐそのレビュー消しな」「なんで」「いいから」「わかった」私はその場で星1をつけたレビューを消した。と、その瞬間、街灯が一段階明るくなった気がした。「消した」「どう?」「なんか帰れそう」「ほらね、なんかそういうことってあるんだよ。よくわかんないけど、そういうところから接続しちゃうんだよね。負の感情っていうか」「そっか。なんかわかんないけど、ありがとう」そう言って、私は電話を切った。そうしてかすかに聞こえる金属音が遠ざかっていくのを感じながら、あたりを見渡し、後ろを振り返った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?