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まっする4東京公演レビュー(鈴木健.txt) クドカン作品で描かれるものをプロレスで… ローデス家の伝統文化とアントンの積み重ね

忘れかけていた真っ当な娯楽を提供した「まっする4」

2020年の「まっする」は、スーパー・ササダンゴ・マシンが世の中の情勢に対しどう向き合っているかの発露が作品となった一年だったように思う。それは「マッスル」の時代からの延長線上にある姿勢と言えた。

その時点で描きたいものを忠実に表現する。ササダンゴの個人的な引っかかりが題材となって見る側にも届き、思いを共有することで支持されてきた。コロナ禍に見舞われる中で何をすべきか、どんなものを提供したいか形となったのが11・9後楽園だった。

時代性を描いて、そこにひとつの答えを見いだせたのであればもうそれ以上はない。もしも前回、ササダンゴの中に“やりきった感”が芽生えていたとしたら、ちゃんと自分が向き合ったテーマを全うした結果がその気持ちである。

そこで2つの選択肢が右と左を向く。ひとつは同じように時代や世の中の流れを見据えた上で、それに関する答えを求めるか。もうひとつは別の方向性を見立ててそちらに舵を取るか。

本人が意識したかどうか定かではないが、今回の「まっする4」は後者に映った。ザックリと言うなら、娯楽というありのままの姿に振り切った印象だったからだ。

もちろん見る人それぞれの思い入れによっていくらでも感情へ突き刺さるものになるのだが、作り手側からはそこを色濃く主張するのではなく、あくまでも受け手に委ねる。2020年にみんなが味わったあの閉塞感を引きずっていたらいい加減、疲れてしまう。

だから重いテーマよりも明快に楽しめるものを提供するのが、このタイミングでやるべきこと…本部席に座っているだけで必要以上に伝わってきた存在感の中には、そんなササダンゴの現時点における“気分”が混ざり込んでいた気がした。

本来、娯楽は日常の嫌なことや辛い思いを忘れるためのものとして、大衆の中に根づいたものだった。だが昨年は、コロナと切り離して成立させるのが困難な状況にあった。

日常を忘れるべきものの中で描かれるド直球の日常。それは、本来の娯楽とは違う姿だ。もちろん、その中で表現できるものや人々の心を揺さぶることもあるが、2021年はコロナ時代の先へ進まなければならない。

ならば、これから人類がコロナと戦う上で本当に必要となってくるのはポジティブでいられるための何か。娯楽によって得られる楽しさは、前向きな姿勢につながるだろう。

真っ当な娯楽としてのまっする。そのための器は、昨年一年で実は作り上げられていた。2.9次元ミュージカル、いちいち刺さるプロレスネタ、ササダンゴ自身の持ち札である煽りパワポ…娯楽を娯楽として提示するための素材が、熟成されてきたのだ。

あとは芯となるものを見立てて、それを描いていけばいい。ここ最近でササダンゴに引っかかった題材と言えば、それはもう『俺の家の話』しかあるまい。

宮藤官九郎脚本のテレビドラマは、あたかもササダンゴ自身の境遇を描いたかのような作品。本人ならずとも「これ、坂井精機の話とちゃうんか?」と思って不思議ではないぐらいの相似形である。

重要なのはそれを単にパロディー化するのではなく、いかにまっするの俎上にあげて料理するか。プロレス的な膨らまし方をすることでモノマネではなく、アナザー作品に仕立て上げなければ娯楽とはならない。

第6話に自分たちをパロった「潤 沢」が登場するや、番組内で披露された『秘すれば花』をカヴァーするべく各方面の調整に動き、2日後にはレコーディングとビデオ撮りをおこないその翌日にYouTubeへアップした純烈も、ただ乗っかるのではなくさらなるエンターテインメント作品に昇華させた上で“お返し”した。やはりマッスルOBがリーダーを務めるグループはわかっていたし、それを可能にする情熱と行動力があった。

はた目から見ると「もともとある題材を膨らませるだけなんだからラクだろ」と映るかもしれぬが、やるからには逆にプレッシャーである。『俺の家の話』という素材そのものがおいしいのに、料理した結果がまずかったら目も当てられまい。

しかし、ササダンゴには…いや、プロレスには能楽の世界が舞台であるあのドラマを絶妙に味つけできるレガシーが存在した。バイオニックエルボーという伝統文化を生み出したローデス家である。

アメリカンプロレスならではの“一芸”を誇る宗家ダスティ・ローデスだが、息子のダスティン(ゴールダスト)とCodyは偉大過ぎる父の存在と闘う宿命にあった。同じことをやっていては超えられないからバイオニックエルボーは(一時的に使うことはあっても)継承せず、それぞれまったく違うアテテュードで自分なりのプロレスを模索する。

『俺の家の話』の主人公・観山寿一(長瀬智也)と寿限無(桐谷健太)は腹違いの兄弟であり、ダスティンとCodyの母も違う。何より、その2人が継承しなかったバイオニックエルボーの価値を現代プロレスの中で守ろうとするプロレスラーがササダンゴの身近にいた。

アメリカンプロレスの中でさえ絶滅しかけていたこの技を、アントンは自身のアイデンティティーとして使い続けてきた。そんなプロレスラーだからこそ、ローデス家の宗家たり得る。

そんな宗家の元を離れ、ミュージシャンの道へ進んだRAM RIDERが危篤の知らせを受けて25年ぶりに実家へ戻り、父のあとを継ぐべくプロレスラーを目指してバイオニックエルボーの反復練習を繰り返す。車イスに乗り、西田敏行演じる宗家・観山寿三郎をオマージュするアントン。だが、その間合いやちょっとした仕草はどうしても遺伝子を継いでいる。まるで実父・渡辺哲が演じているかのような錯覚へ陥るところに、生々しいリアルが在った。

父と息子の関係性、伝統を守り続けることの意義、さらには笑いのあとに来る感情へ訴える描写(緩和と緊張)…クドカン作品の中で描かれる要素にプロレス的手法を絡ませ、この日のまっするは一話完結のドラマを見ているかのようなグルーヴ感で進行していった。

アントンとRAM RIDERが父子タッグを組み、ヒールと化した竹下幸之介&“デビルジョーカー”の本性をあらわにするDJニラと対戦するのが最後の試合。それぞれの役どころを演じつつも、いくつものリアルが現出する空間となった。

アントンと竹下がパンチで会話する。かつては師・ディック東郷と同じ場面を展開したアントンがハッピーモーテルで時を共有した後輩・竹下を相手にし、それを再現するシーンは来るものがあった。

2014年3月20日、さいたまスーパーアリーナのHARASHIMA戦で追い込まれた時、バイオニックエルボーをセコンド・アントンの眼前で出した竹下の姿も蘇る。そして、RAM RIDERと父子による“ダスティ”の共演。

この光景を、ダスティ・ローデスが見ていたらなんと言うだろう。その時だけ都合よく拝借するのではなく、幾重もの年月をかけて継承してきたアントンの隣で、ダスティンやCodyの代わりにRAM RIDERが連続エルボーを繰り出しているのだ。

西田敏行と長瀬智也による能の舞いが、リング上で形を変えて現出。そして、ひとつの公演を通じ引っ張られてきたバイオニックエルボーが決まったのは、最後の最後である1度だけ。必殺技は必殺技――それがアントンとササダンゴの、リアル宗家に対する礼であるのは言うまでもない。

体を張って試合をおこなったRAM RIDERさんにも敬服したが、これもドラマの中でプロレスラー役を演じる長瀬さんと重なる。このまっする4という作品は、胸を張ってクドカンさんに見せられるものになったと思う。

昨年は、何を見ても現実から抜けきれなかった。それがこの日は、久々に娯楽をライブで体感できた手応えがあった。これからもまっするは、それでいいのだと思う。そして、ササダンゴの中にこの器を使って訴えたい題材ができたら、シフトチェンジすればいい。

公演終了後、純烈リーダー・酒井一圭さんに報告すると見たかったという第一声のあと、こんな言葉が続いた。「『俺の家の話』を題材にするならさ、純烈もまっするで描いてくれよ! マッスル(坂井)ならやりかねないと思っていたのになあ」

一圭さん、そこは「秘すれば花」ですよ――。

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