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台本を超えたドキュメンタリー――「マッスル6」インサイドリポート『マッスル坂井が上野勇希の代役を透明人間にした理由』(鈴木健.txt)

「この前、DDTの25周年興行があったばかりですけど、ここに来てDDTの歴史も急速に変わっている。ある意味、僕はDDTの保守派だと思っていて、プロレス界では革新派のDDTにおける保守派。今回、東京女子、DDTの両国国技館のすぐあとっていうのは無理だと思ったんです。そこから10日も開けず、後楽園もはさみつつできるわけないと思ったけど、逆に近かったからDDTの25周年を別の角度から表現しなければいけないと思ったのは確かでした。今年は新日本と全日本の50周年イヤーということでいろんな奇跡が起きていて、それこそマルチバースの扉が開いている状態じゃないですか」

3月29~31日の日程を眺めたマッスル坂井は「まっする6」を“DDT25周年のアナザーバージョン”と位置づけた。3・20両国ではポイズン澤田JULIEをはじめとするレジェンド軍が出場したのをはじめ、各試合の中で歴史を感じさせるシーンが体現された。

まっするも藤岡典一(わずか30秒ほどの出番のためだけに岡崎から日帰りでやってきた)、ペドロ高石、マンモス半田や酒井一圭HG(映像のみ)というように、カタカタマッスル時代のOBを登場させたが、それにとどまらず当時のさまざまな表現方法も復活。今回、ストーリーの軸となった「K-I GRAND PRIX」は鶴見亜門が初登場した2005年5月のマッスル4、リングを4分割し4つの試合を同時におこなうのは同年8月のマッスル5。

かつては代名詞的な手法と見られていたスローモーションも差別化を図るべくまっするでは封印されてきたが、今回は導入。泣いて馬謖を斬るやロングリバー黄河に踏み潰されて終わる試合も、マッスル時代の遺産である。

かつて生み出した表現方法を復活させることで、歴史を振り返られるのもまっするならでは。現世代の選手たちがそれに着手すれば、過去のものも現在形に生まれ変わる。

「今回は準備の段階で楽しかったんですよ。みんなでわいわい言いながらトーナメントの組み合わせを作ってルールを考えて、稲田徹さんのナレーションをプレビューするたびにみんなで大爆笑して。このトーナメント表だけで3000円はとれますねとか言いながらやっていたんです。それで前日のリハーサルを終えてホテルに帰ってきて、風呂に入って明日に向けてもう一回準備したものをおさらいしていたら、上野から連絡が来た。

その瞬間は『終わった…』と思ったけど、すぐ『大丈夫かな』に変わって。昔の自分だったら大して準備も終わっていない状態だっただろうし、イラついていたから中止にできるってホッとしたと思うんです。だけど今回に関しては、本当に時間がない中でもできる状態に持っていけていたから、もうビックリしちゃって…」

3日間5公演の主役を上野勇希にすると坂井が決めたのは理由がある。まっするにおいても器用でセンスがあり、仲間内だけでなく観客も信頼を置いている。5連戦というハードなシチュエーションであり、本体のDDTでも竹下幸之介の海外遠征を受けてよりやるべきことが増すこのタイミングで、彼を盛り上げたいとも思った。

そこへリアルな物語が乗っかれば、見る者へ伝わる作品となるはず。台本を書く前の時点で、そう直感が働いたと坂井は言う。ところが、3日間の中心となる人間が思わぬ事態に見舞われた。

「僕は普段から寝る前に熱を計っているんですけど、だいたい36.8~37.2℃なんですよ。それがいつも通り計ったら、37.4℃で『おや?』となって。練習で疲れているのかと思っていたら37.8℃になって、これは連絡せなあかん!と。次に計ったら38.0℃になったので、ああ無理やと思って文面考えて、39.2℃になった時点で『終わった…』と。これ、どんだけ迷惑かかるんやろう、でも台本を変えるのであれば少しでも早い方がいいと思い、すぐに坂井さんと今林さんとグループLINEを作って報告しました。

考えれば考えるほど、濃厚接触者もいたし興行できなくなる!と頭がいっぱいになって。とにかく腰が痛かったんです。#7119(救急安心センター事業)に電話してどうしたらいいか聞きながら、次の日の朝起きて下がっていたらいいなと思ったら39.4℃…むしろ上がっていました」(上野)

鶴見亜門こと今林久弥は上野から最初の連絡が来るよりも少し前の23時の段階でバタンキューとなっていたため、朝にそのLINEを見て飛び起きた。出役の一人であるこちらに「緊急事態です」と伝わったのは、初日の朝9時34分。検査結果が陽性の場合は、3・27後楽園で同じ試合に出場した竹下、遠藤哲哉が濃厚接触に該当するため、全公演を中止させるという旨だった。

集合時間である正午に北沢タウンホールへ着くと、なんとも言い難い雰囲気となっていた。陽性だったら限られた時間の中で重ねてきた稽古も吹っ飛ぶ。陰性であっても、主役である上野を抜きにしてやれるのか。

いや、それ以上に選手たちの頭を覆っていたのは上野自身の無念さだった。出られなくなったり、興行中止になったりした場合、誰よりも悔しいのは本人。だから、誰一人として「中止になったら、やってきたことが全部無駄になっちゃう」などとは口にしない。

自分がやってきたことよりもまず、仲間の上野の気持ちだった。とはいえ、39℃を超える高熱とあればコロナの可能性は高い。みな“覚悟”はしていた。

「PCR検査にいったのは12時15分頃でした。匂いも味もする。でも腰とお腹が痛くて、高熱…これはもしかすると胃腸炎かなと都合よく思って、陰性なら自分だけ休んでいける、陽性なら中止と聞いていたので『頼むから胃腸炎であってくれ!』って願いながら結果を待ちました。

15分で結果が出る検査なのに、20分経っても出ない。ようやく結果を知らされるさい、見るからに深刻そうなんでダメかと思ったら『陰性です』と言われて。その後の問診を止めて今林さんに陰性ですって連絡したら『そうか、やっぱり陽性か』って言われて。いやいや、陰性でしたって」

検査結果を報告した時点で、上野はようやくホッとできた。まだ高熱の状態なのに、その症状が吹っ飛んだかのようだった。連絡を受けた今林は12時38分、タウンホール内に響き渡る舞台仕込みの通る声で「陰性でした!」と告げた。選手・関係者からは、安堵のどよめきが起こった。

この時点で、坂井の中には透明人間を代役とすることが決まっていた。別の誰かに主役を振るのは事実上不可能であり、上野と時間を共有してきた残ったメンバーとの関係性に賭けるしかないと腹をくくった。

「代役を立てると、その代役が頑張ったって評価されるでしょ。僕が見てほしいのはまっするのメンバーみんなだから。その時、上野の対角線上に立っている人間も評価されて輝くべきだと思ったので、代役のアイデアは僕の中にはなかった。そもそも上野を盛り上げるためという前提があったし、日替わりメインイベンターが輝くには、相手は上野だろう。だから上野の代わりはない。ならば透明人間だっていうのはすぐ浮かびました。台本を見直したら全然いけるし、それがむしろDDTらしいじゃないかって」

マッスル時代の表現方法を復刻させる場において、透明人間という男色ディーノを起源とするDDTが培ってきた存在が窮地を救う――台本には記されていなかった想定外のドラマが、そこに加わったのである。

その後、結果が出るまでは待機していた竹下と遠藤も会場入り。緊急オファーにもかかわらず透明人間も光の速さでやってきて、公演当日のぶっつけ稽古に臨んだ。

上野及び高久辛飛光の出場する試合は、1つではない。トーナメントにおける対戦相手の平田一喜と渡瀬瑞基、初日の日替わりメインイベンター・勝俣瞬馬は、急きょ透明人間と闘うことになる。

平田(ヤング・ササダンゴ・マシン)は透明人間だけでなく、無機物との対戦も待っていた。こちらも日替わりで、ごんぎつねの絵本、ボクシンググローブ(打撃が得意と思いきや関節技も)、パイプイス、コールドスプレー、ホウキ(クリーンファイトに終始)と、並み居る難敵相手にいずれも好勝負を繰り広げたのはさすがだった。

最後に上野と対戦する日替わりメインイベンターは、完全に1対1で透明人間とのプロレスを成立させ、なおかつ公演のクライマックスを全うしなければならなかった。中でも初日の対戦相手・勝俣のプレッシャーたるや相当なものがあったはずだが、公演決行となるや逆にみんなの士気が高まったため、それが伝播し「上野がいなくても、よりすごいものを見せてやる」との覚悟をまとっていた。

結果、勝俣はその場にいる全員が上野の存在をしかと体感できるような試合をやってのけた。一切の違和感もなく、お互いの感情が伝わるような攻防を見せたのだ。

あまりの見事さに初日から感動し、泣いた坂井が「なんでこんなことができるんですか?」と聞くと、勝俣は「プロレスラーだからです!」と答え、観客と仲間たちから喝采を浴びた。比べる必要はないが、仮に純然たる演劇だったら当日透明人間を代役にして成り立つかどうか。

これによって、2日目からの日替わりメインイベンターはハードルが上がると同時に、よりすごいものを見せてやるとの気概が高まる。2日目昼の吉村直巳は透明人間を相手にしっかりとノーチラス対決を描き、夜のMAOは電流爆破バットデスマッチという飛び道具を出すことで、闘いの幅を広げた。

これに触発された3日目昼の樋口和貞が、場外ジャイアントスイングで振り回すと上野が北沢タウンホールの壁に突き刺さり、大きな(透明)穴が開く。そして天井高くまで放り上げてのノド輪落としで持ち手がついた仏像に突き刺し、透明人間を成仏させた。

回を重ねるごとに、まっするでなければ見られない試合となっていく。こうした仲間たちの奮闘ぶりを、上野はツイッターで追っていた。

「僕が謝りすぎると、これから同じような事態になった人が辛くなるので…この行き場のないものが、謝って許してもらうこともできない。そう思っていたら陰性だったので、自分が出られるかどうかなんてどうでもよくなりました。RAM(RIDER)さんも音楽を作ってくれて、映像も作ってくれて、演技もみんなで作って、それらがなくならなかっただけでも。

自分の代役が透明人間と聞いた時は、とにかくみんながすごいとしか思わなくて。そこでもやっぱり自分が出たかったなんてまるで思わなかったです。体調管理の部分で不甲斐なかったから欠場しているのに、仲間もお客さんも僕をいるものとして…概念じゃないですか、もはや。概念として見られるようになれたのが嬉しかった。こんな僕を概念として表現してくれるみんなが嬉しくて。僕というものを見つけ出してくれないと、僕を表せないんで、そこはみんなの能力がすごすぎて、今回はもらってばかりでした」

選手一人ひとりの上野に対する思い入れが、存在を現出させた――そうとしか考えられなかった。そして受け手側である観客も同じ姿勢となった。その意味では、極めて純化された空間だった。

そもそも、DDTに透明人間という文化が根づいておらずなんの予備知識もなかったら、選手たちも対応できなかったかもしれない。ここにも25年積み重ねが生かされていた。

「打順がよかったですね。勝俣が最初っていうのがね。3分ぐらいでいいのに13分ぐらいやってすごくハードルをあげた。吉村、MAOがどうすんだよ?ってなって、それがいい形につながってね。今回に関しては、プロレスの神様が本当にいました!」(坂井)

医師からは、熱が下がり体調がよくなれば試合へ出場してもいいと言われた上野。2日目の夕方ぐらいから落ち着いてきて、最終日の朝にはすっかりよくなっていたが、2公演はキツいのではという判断から千穐楽のみ滑り込みで出場することに。樋口によって成仏させられた透明人間と、昼夜の間の休憩時間中にバトンタッチした。

「いきなり今日からまっするに出てくれと言われた時は、さすがに驚きました。しかもDDTの主力を担う上野さんの役であり、すべてメインイベントと聞いて、いくら透明人間の自分でも無理だと思いました。私に上野さんの代わりなど務まるはずがない。でも、初日に勝俣さんと肌を合わせて気づいたんです。相手の上野さんに対する思いがこちらに伝われば、あとはそれを形にして返せばいいんだって。だから、もしも皆さんの目に上野勇希の姿が見えたのだとしたら、それは私が演じたのではなく、みんなの気持ちによってさせられたのです。

公演を重ねるごとにとんでもない試合になっていったのは肉体的にキツかったですけど(苦笑)、最後に樋口さんの手によって成仏させられる形で本物の上野さんにつなげられたのは、私にとっても万感の思いです。10年前のDDT15周年大会、私は男色ディーノさんと日本武道館で闘いました。今となってはそれを知るファンの方も少なくなったと思われますけど、私もDDT25年の歴史に刻まれたことを誇りに思っていました。そんな私を信じて起用してくれて、3日目の昼には拍手までいただけて…透明でもちゃんと見てくれたんだなと思うと……ようやく、ようやく私もDDTの一員になれた気がしたんです」

千穐楽のメイン、生身の上野と竹下が闘う光景を透明人間はタウンホールの天井から見下ろしていた。実況席に座っていた自分の目のあたりに、ポツポツと涙のようなものが落ちてきたので気づいた。ゴングが鳴らされる前の時点で、竹下も必殺技男子のメンバーから送られたパーソナルな言葉に目を拭っている。

竹下がアメリカへいくギリギリのところで実現した上野とのプロレスによる対話。昨年12月のD王GP優勝戦とは明らかに違う、重い重いエルボーにこめられた言葉使い。

その結末は5公演のメインで唯一勝敗がつかぬまま暗転し、エンドロールへとつながった。阪本順治監督作品『どついたるねん』の赤井英和と大和武士によるラストシーンのようだった。

もしも3日間が延期となったら、その時点で竹下はいなかった。つまり今回、描こうと目論んだものはお蔵入りとなる。2020年5月、コロナの影響がなければ坂井が台本を担当した純烈の明治座公演は、作品として世に出されたはずだった。

この時はそこでやろうとしたアイデアをその後のまっするで生かせたが、やはり明治座という由緒ある会場における公演を自分の手でクリエイトできなかったのは心残りだったはず。加えて、坂井にとっての“シモキタ3連戦”はマッスル時代のトラウマがある。台本が書けず、3日目にその追い詰められた心理描写をありのまま舞台にあげた生みの苦しみ…だから今回のまっする6は、それを払拭するための闘いも内包されていたのだ。

「まっするが3日間吹っ飛ぶどころか、竹下がみんなとお別れできないうちにアメリカへいくことになるから、初日前夜の段階で僕の中ではゼロか100でした。でも、そういう題材を選んだのは自分だし、DDTの流れとリンクさせて、みんなの人間性とキャラクターにもリンクさせたんだから。そういう意味でも今回のまっするは、フィクションじゃなかったんです。

本当なら、千穐楽だけ間に合うといった物語を僕が台本で書けるようにならないといけないんですよね。興行が無事開催できたこと、うまくいったこと、すごくお客さんの心に残ったこと、回を追うごとによりすごいものになって、最後に驚かされるものを作るという毎日が続いたのは…よかったです。カタカナマッスルでやりたかったけど自分たちでは間に合わずできなかったもの、その足りなかった部分が今、DDTの選手たちと一緒にやることで埋まった感じがします」

まっするの仲間たちによって払しょくしたマッスル時代の呪縛。それが、18年目の光景であり、また「これもDDTの25年だと思います」(坂井)。

スタート当初はハッスルのパロディーであり「全然マッスルじゃねえじゃん、ド文化系じゃん」というツッコミ待ちのようなものだった。それが今では、本当の筋肉男子たちが担うようになった。垂直落下式ブレーンバスターの持ち上げから落とすところまでをスローモーションでやってのけた竹下…まっする=リアルマッスルを知らしめた数秒間の“瞬間”だった。

「あのみんなが見せたスローモーションこそが、本当に肉体を使った表現=マッスルでしたね。まさか18年経って、こんな素晴らしい公演を作れるとは思わなくて、エンドロールを見てこの最後のクレジットに“作・演出 マッスル坂井”と入るのがマジでおこがましいと思いました。天才たちとできてよかったです。竹下、上野、樋口、吉村、勝俣…すごい才能と一緒に仕事ができて『この人、まっするに出ていたんだよ』という言われ方で、まっするの名は残るんだと思います」

マイナスを選手たちの底力でプラスに転化させた3日間――DDTの真骨頂を具現化できた意味でも、まっする6は坂井の言う通りもうひとつの25周年だった。

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