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才能と呼ばれるものは、場所や時代に大きく依存する気がする。

藤井聡太さんが八冠になったというニュースをやってました。私は将棋の世界のことをよく知らないのでその凄さが分からないんですが、これだけ世の中が騒いでいるということは凄いことなんだと思います。

一方で、藤井さんは「将棋に勝つ」ということに、脳を最適化出来た幸運もあったんだと思いました。世の中にあるメジャーな将棋の王座の全てで勝ってしまうということは、「将棋で勝つ」という事に誰よりも秀でているという事になります。

いや、当たり前のことを勿体ぶって言いたい訳ではないんです。今の将棋のマスは9×9の81マスの中で戦う勝負になっていますが、もしこれが10×10の100マスを使って戦う勝負だったら、藤井さんよりもそれに最適化出来た人がいたかも知れないと思ったんです。あるいは、横が5マスで縦が40マスという盤面だとしても、またそれに最適化出来る人は違う人なのかも知れないと思ったんです。

そういう意味で、才能と呼ばれるものは、場所や時代を含めたその時の状況によって大きく変わる気がします。

前からよく言うんですが、もし生まれつき相撲の才能を持った人がマダガスカルで生まれたとしても、その人が横綱になる事は無いんです。大きな体とチカラがあるかも知れないけれど、マダガスカルで生まれたことで、トラックの運転手になるかも知れないし、漁師になるかも知れないのです。でも、日本の角界で横綱になって毎日のようにスポーツ新聞の一面を飾る人生にはならないんです。ゴールデンタイムのバラエティ番組に出て、お笑い芸人と絡むことも無いんです。20年間横綱で居続けられる才能があったとしてもです。

もし日本やモンゴルで生まれていたら、角界で大成功を収めていたかも知れないのに、マダガスカルで生まれたことで、自分にその様な才能があるなどと知ること無い人生になるのです。もしかしたら「お前は体は大きいけど平凡なやつだな。」と言われて終わる人生なのかも知れないんです。

そういう意味で、才能って場所や時代にものすごく依存するものだと思うんです。

もしかしたら、ボールの直径が5cmでバットの長さが45cmだったら、大谷翔平選手も大きな成功を収めなかったかも知れません。今の野球のサイズとルールにメチャクチャ最適化することが出来たから、スターと呼ばれるようになれたんだと思います。

逆にいまどこかの工場で平凡に働いている人が、実は5cmのボールと45cmのバットでやる競技のものすごい才能を秘めている可能性だってあるんです。たまたまそういう競技が無いことで、その人の才能は開花せず、スターとも呼ばれず、大金を手にすることも無いだけなんです。

そう考えていくと、世の中のあらゆるものがそうなんだと思います。才能とか成功とかそういう世界の話じゃなくても、ほんのちょっと世の中のカタチが違うだけで、その人がいる境遇が大きく変わる気がします。

例えば、人口の99%が車イスを使って移動する社会だとしたら、世の中の全てが車イスでの移動に最適化されてるはずなんです。その世界は、歩いてる人にとってはとても住みづらい世界です。その世界では歩いている人がマイノリティで、「歩いてる人差別」があるかも知れません。現実はその逆です。歩いてる人に最適化してしまっているので、車イスの人にとってはとても住みづらい世界になっています。

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