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2020年とノクチル、そしてMUSIC DAWN

昨日公開されたシャニマス過去ライブの見どころまとめで、MUSIC DAWNでのノクチルの「いつだって僕らは」を久しぶりに見てこれってこんなに良かったっけ?と感動を覚えたのでその感想と、あるときふと考えたMUSIC DAWNの「無観客」が示す、ノクチルと「2020年」の絶妙な関係性についてを備忘録としてまとめたい。

「抑圧」の2020年

2020年という年を振り返るとき、真っ先にに出てくるのは新型コロナウイルス感染症によるパンデミックであろう。突如として現れた謎の感染症は瞬く間に世界中に拡がり、そして世界の秩序をも一変させた。特に3~5月の緊急事態宣言下の街の雰囲気は、まるで今まで見てきたパンデミック映画が現実のものになったかのような空気であった。

またこのコロナウイルスは、感染拡大防止による学校の一斉休校やインターハイの中止といった「青春の剥奪」をもたらした。自分語りにはなるが、私自身もその世代の一人であり、インターハイが中止になるというニュースを聞いた時には本当に悔しくて泣いた。そして「所詮、自分たちの自由なんて大人の手にかかれば簡単に奪われてしまうんだな」という無力感に襲われて、一時期は何にもできなかったことを覚えている。

「自由」「私達らしさ」のノクチル

そして、2020年はシャニマスにおいて新ユニット「ノクチル」が登場した年でもある。私はノクチル実装当時はほとんどシャニマスに触れていなかったので、その当時のことはあまり分からないためあまり踏み入った議論は出来ないが、このノクチルというユニットが現れたのが、2019年でも、2021年でもない、コロナによっていろんなことが変容し、多くの青春が不完全燃焼に終わったであろう「2020年」であるうということに何か不思議なものを感じてしまう。

ノクチルは青春であり、自由である。それが端的に表されたのが、2020年6月に実装されたイベントシナリオ「天塵」ではないだろうか。イベント内において彼女達4人は、出演する歌番組の制作者側からの「口パク」の指示を破り、結果的にはその後は関係者から干されてしまう。しかし、裏を返してみると、確かに彼女達は「大人」に負けずに「自由」「私達らしさ」を貫き通したのだ。このことは、リアルの世界において、多くの中高生たちが大人という存在に屈して青春や自由を奪われていく風潮に対する、痛烈なカウンターパンチとなっている。

MUSIC DAWNの「抑圧」と「自由」の融合

そして、この「青春の圧」の2020年と、「青春の自由」のノクチルが複雑に絡み合い、そしてこれ以上ない形で表現されたのが2020年10月、11月に無観客で行われたライブ、「MUSIC DAWN」における「いつだって僕らは」ではないだろうか。
無観客という状況なのにも関わらずで繰り広げれる圧倒的な、そして彼女達にしかできないパフォーマンス、そしてそれを眺める画面の外の私達という構図は、まるで「天塵」のラストシーンのこれ以上にない再現であると同時に、その「無観客」を生み出した2020年の「抑圧」と、その2020年に対抗するかのようなノクチルによる絶妙な共演である。
「抑圧」と「自由」、対照的なはずのこの二つが組み合わさった、まさしく『言葉』を失うようなステージ、そんなステージがMUSIC DAWNの「いつだって僕らは」なのではないだろうか。

まさに"これ"

終わりに

ノクチルとパンデミックの年としての2020年、そしてそれがもたらしたMUSIC DAWNの「いつだって僕らは」の美しさについていろいろと考えてみた。この意見は結局個人の主観に寄っている部分がほとんどあるため、納得できない部分や、異議を申し立てたい部分も多いだろう。ただ、その中でも現実の社会を拝借して比較することによって、ノクチルというユニットに、新たな可能性をもたらす事が出ていれば幸いである。