見出し画像

#4 晴れ女だった母が逝った。


 わたしは、日本人なので、ご愁傷さまです、と声かけられるよりも、I am sorry for your loss. と、第二言語である英語で言われる方が、やっぱり言語とわたしの距離が母国語よりもあるので、反応にワンクッションを置けるなぁと、母が亡くなったことを報告するたびに思う。


11年ほど、多系統萎縮症という日本語で書いてもわけがわからない難病の母を家族で自宅介護していて、いつか来ると思っていたけど、そのいつかが4日前にきてしまった。とうとう、母を手放す日がきてしまった。

逝ってほしくなかったけど、もう息が苦しそうな母をわたしたちが引き止めるのも、辛くて。ただただ、見守るしかなくて。

最期は涙ぐちゃぐちゃになりながら、お疲れ様と、ありがとうしか言えなくて。
こんなすばらしい女性から産まれて、育ててもらったわたしはいつも常に幸せだったんだろうと、心から思う。ありがとうしかない。

母の通夜と葬式の日はもともとは大雨の予報だったのに、雨が降らなくて。お葬式まで終わってからの、長崎は今までに経験したことがないような大雨です。

そんな、夜からまたこのnoteで日記を書いていこうと。母の介護にあてていた時間がぽっかりあくので。何か、書きたい。そんな思いがふつふつと湧いてくる。


とりあえずやってみらんね!(とりあえず、やってみなさい)

が、まだ話せるときは口癖な、母でした。


わたしも、やりたいことはやってみるけんねー!

そんなDay 1 でした。



上の文は2020年私が2020年7月4日に、天国へ旅立った母の葬儀を終えた数日後に書いたものです。

書いたまま公開していなかった。

下書きのままnoteにひっそりと残っていました。
年末だからか、韓国ドラマの「39歳」を見終わったばかりだからか、なぜかこの下書きを見つけ、公開してみようと思います。

なんだか、タイムカプセルを開けるような感覚です。
母を亡くしたばかりの私と対面した、そんな気分です。

3年たって、毎日さびしいわけではない。
でも、時々、ものすごく会いたくなる。

そして30代は全部、母の自宅介護で過ごしました。
私はダブル介護者がいたので負担は一人で介護を担う人に比べたら軽いものでしたが、
なんだか社会から取り残されたような、そんな感覚に陥っていました。

コロナ禍がきっかけで、「うちの子供たちに日本語レッスンをしてみませんか?」と声をかけられて日本語レッスンを始めて、日本語教育検定試験を受験したり、フリーランスの日本語教師までなったり、仲間もできたり、何があるかわかりませんね。

ちょうど教え始めて2ヶ月して母が旅立ちましたが、母がちゃんと待ってくれてたような気がします。

そして、この3年前も、「何か、書きたい」と書いていたんですね。びっくり。書きたいんだけど、「何か」がわからないので、止まってしまう。

と、言いつつも出てくるのは

ケアラーとしての経験も書きたい。
日本語レッスンのことも書きたい。
文法のことも書きたい。
韓国旅行についても書きたい。
日韓のことについて生徒さんとディスカッションしていることについても書きたい。
私自身の言語学習についても書きたい!

自分の「書きたい」という気持ちのために、書きます^^

今日は #毎日note   の3日目でした。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?