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OJC自伝「いまさら私を紹介します」

はじめに~私はこんなタイプ~

note始めてから結構経っており、今更ですが、改めて自己紹介させていただきます。以前、ある人(タムさん)が「長めの自己紹介が読みたい、長いのが読みたい、1万字くらいのが読みたい、長いのが読みたい!!」とこっそり呟いているのをみたので、今回、長めに「OJC」という人間と半生を紹介していきたいと思います。これを読めば、私がどんな人間なのか、大体わかるでしょう。そして読み終わったら、こう思うかもしれません。「余計、わからなくなった…。」それはそれで正しい反応だから問題ありません。(全文無料で読めます)

自分を律して行動できるタイプの人からすれば、私はだらしなく見えるでしょうし、自由奔放なタイプの人から見れば、私は型にはまっているように見えるでしょう。私は自身の多面性をちょいちょい見せたり隠したりしながら生きていますから、観測する人のタイプによって、私は変化していきます。

私は、場や相手によって、自身を変えながら生きるタイプの人間です。どうすれば自分や相手にとって、その関係性がより良い方向に進めるかどうかを考えて振る舞います。ただ器用貧乏な面があるので、ある一定のレベル以上のものは生み出せない、そんな中途半端な人間でもあります。このように書くと自虐みたいに思えるかもしれませんが、これは自虐ではありません。現状、ある一定のレベル以上を生み出せなくても、その場や、その相手が、それを軽々と超えるものを生み出してくれる。その刹那、私はとてつもない快感を覚える、そんな人間です。その快感のために利他主義を装う利己的な人間なのです。

様々な場面で「面白そうな事」に全力を尽くす傾向があります。おもにネタ、学び、忘年会ですね、全力で動いて、全力で学んで、全力で飲みます。そのおかげで職場で「強く説教された事」は他のスタッフよりも段違いに多いのです。結構やらかしてます。でも、そのやらかしも、中途半端です。シャンパンをシャワーにしちゃったり、他部署の余興に乱入したりとかそんな程度です。そんな中途半端にふざけた社会人の私ですが、「幹部からの信頼」が強いようです(幹部から聴取)。この辺りは普段、コミュニケーションが上手く取れる位置にいる事が強みなのかな、と思います。この位置に存在できることは「運がいい」、本当にそう思います。しかしながら、飲みの席でのことが無ければ、もっと強く信頼されてたんだろうな、と、常々猛省しております。

基本的に面倒くさがりで、飽き性です。その為、面倒くさくならずに効率よくできる方法や、できるだけサボりながら達成できる工夫や、飽きないように楽しめるような仕組みづくり及びマインドセットなんかを、試行錯誤しながら作っていくことを好みます。すべては、私がどれくらい楽に、サボりながら、それを遂行できるか。私の戦略のほとんどは私のためであり、設定されているエンドユーザーは私です。それが偶々、職場だったり、リハビリテーションに転用できるものだったなら儲けもんです。利己主義に基づく行動が、他者の利益になる瞬間、私の梨汁がブシャーします。

感情や経験を表現するものが好きです。言語表現であったり、ボディランゲージであったりダンスだったり音楽だったり、グッとくるもの、キュンとするもの、マターリできるもの色々な表現が好きです。色々な表現に触れることで、多くの感情が生まれたり消えたりします。見渡せば、この世は好きなもので溢れており、日々それらと交わって幸せを感じててぇなぁ、って思います。ベースとバスドラで激しく奏でるサウンドに合わせてヘッドバンクするのもいいし、パーカッションやクラップでBPM70くらいのビートで刻んで、そこにゆるくのせたラップを聴きながら、ソファに座って、コーヒー飲んで、チルするのもいいなと思います。様々な表現は人生に彩をつけたり、色を抜いてくれたり、そんな素敵なものであると捉えています。何かを読んで学びを得たり、何かを聞いて不安が消えたり、何かを見て通報しそうになったり。日常の様々な場面で、様々な表現と触れ合うことができますので、基本的にラッキーです。

さて、私のタイプ紹介はこんなところで〆ておきまして、ここからは、私の記憶を振り返りながら私を紹介させていただきます。途中、話が脱線する事もありますし、「絶対、嘘だろ?」という事も書いていきます。信じるか信じないかは、アナタ次第です!!

※このnoteは、その時々に聴いていた音楽を聴きながら書いています。その時々に好きだった音楽を思い出しながら書いていきます。私自身とともに、私の音楽遍歴まで分かる、OJCファンには堪らない内容となっております。

生誕から幼少期編~武田と織田と山梨と~

甲州征伐により武田家が滅亡、織田信忠に恵林寺を焼き討ちされ、さらにその後、本能寺の変が起こったと記録されている天正10年(1582年)から、ちょうど402年後の昭和59年(1984年)に織田家が色々散らかしてくれた山梨県(昔の甲斐)で生まれました。当時の私は、今と比べて、とても小さく(体重じは現在の1/20程度)、人と話す事もままならぬ、そんなコミュ障でした。ちなみに生まれた時から、左肩に大きな痣がありました。その痣が私の人生に影響を与えるなんて、当時の私には、想像できませんでした。このころよく聴いていた曲は、当時流行りの歌謡曲やクラシックでした。クラシックは多分「木星」や「アルルの女」です。今でも聴くと気分が落ち着きます。

なんやかんやありまして私が2歳になったころ、左肩の痣を消すために、手術を受けることになりました。私は医師の説明を聞いているとき、手術というものに怯えることなく、医師が蓄えた立派な髭をじーっとみていたようです。この手術によって左肩にできた術創が、私の人生に影響を与えるなんて、当時の私には思いもよらぬことでした。なんでこの先生の髪の毛や髭は白いのか、という事ばかり考えていました。他の先生は、髪が黒いし、髭もない。この医師は何を考えているんだ!!けしからん!!!と思っていました。このころは多分、吉幾三や村下孝蔵を聴いています。「酒よ」と「初恋」は今でも持ちネタです。

そんな私もついに5歳(年中)になりました。父の日に書いた、父の似顔絵、髭剃り後の若干青くなっているさまを、黒のクレヨンで大量の点を書くことで表現しました。出来上がったものをみた園児達が口をそろえて「わー、泥棒みたーい」と、わけの分からないディスを入れてきます。「あ?泥棒?これのどこがルパンやねん」と心の中で思いながら「そのディスは的外れだぜ、よく見な、センスに溢れた絵!」とアンサーを返したところ幼児は泣きだしました。しかし、私の絵をよく見てみると、ほっかむりに風呂敷を背負った日本の伝統タイプの泥棒そのものでした。ちなみに、父に渡したところ悲しそうな表情で失笑してました。ごめんよ、ぱぱん。

そして5歳の時にビッグイベントがもうひとつありました。左肩の再手術です。植皮した術創を成長に合わせて形成しなおさないといけないのでした。「おいおい、また手術かよ!全くやんなっちまうよ。俺はまだキッズだぜ?そうだろ??ドクター!!」と訴えましたが聞き入れてくれませんでした。その入院の中で車椅子に乗った少年(中学生?)と出会いました。彼とはゲームボーイで「レッドアーリマー」や「マリオランド」で遊んだ記憶ばかりが鮮明に残っています。「レッドアーリマー」は5歳児には難しいです。基本的に5歳児は何もできません。しんちゃんレベルはほぼありえず、マサオくんレベルにすら達していない方々がほとんどであります。5歳児に幻想を抱かないでいただきたい。さて話を戻します。彼の立ち居振る舞いは、私の障害の考え方に強い影響を与えてくれました。両下肢に広範囲の術創、上手く曲げ伸ばしできない膝と足首。私みたいな生意気な5歳児に対し、明るい振る舞い。今思い返すと、私が見てきた凄い人の中で、「トップ30」に入れてよいレベルの方です。たかだか5歳児が不安なく入院生活を送れたのは彼のおかげです。名前も顔も覚えてないけど素敵な方でした。ありがとう。いい思い出です。この頃聞いていた曲は、きっとプリプリ、サザン、この頃の音楽は曖昧。よく覚えてません。

小学生編~みんなで感じた、登り棒~

小学生ともなるとだいぶお喋りが上手になりました。「おㄘんㄘ○ドーン」とか「かーんちっ!せ(自主規制)」とか何となく意味もわからないのに、「語感が良き」とか「股間がニョキ」とか、そんな理由で使ってしまう可愛らしい少年に育ちました。

学校生活では、大体のものを上の下くらいのレベルでこなせる人材でした。しかし下の中くらいのレベルでしかできないものもありました。それは書字と図工。綺麗に見せるとか、綺麗なものを作る、といった工程は今でも苦手であります。書き方とか、道具の使い方を教わってないのに、何故、みんな綺麗に作れるのか不思議でした。必死に考えて製作しても、図工の評価は「創造力△」、こんな時は誰だってこう思いますよね。

「なんて日だ!」

そういえば、小学4年の時に3回目の左肩の手術がありました。ここでの体験は私の人生に大きく影響を与えるであろう。この時の私はそのようなマセた事を考えていました。その入院は「小児病棟」でした。前回5歳児の時は、大人の病棟だったので子供がほとんどいませんでした。しかし今回は子供がいっぱいいます。歳が近い女子もいます。これはロマンティックが止まらないぜ!と考えていました。ここから私の青春が始まるのだ。誰しもが憧れる入院ロマンスの始まりだ。と私は舞い上がっていました。

結論から言うとロマンティックは始まりませんでした。当時の小児病棟って複数回、または定期的に入院してくる子供たちが多かったようで、一見さんは私くらいなものでした。みんな顔見知りな感じで、めちゃくちゃ仲良いんですよね。可愛い子もいて、可愛い子は既にカッコイイって常連様と仲が良いんです。結構ジェラります。可愛い子とお近付きになりたい。この病棟において、そんな下品なこと考えているボーイは私くらいでしょう。そんな病棟でしたが、私の将来をほぼ決定づける出会いがありました。「リハビリテーション」との出会いです。私と同じ病室の少年2人、そして、病棟でそこそこ話すようになった女子2人、この方たちが受けていたもの。それが「リハビリテーション」だったのです。私は幼いながらも「リハビリテーションのお医者さんってすごいな。病気をこうやって治すんだ!」と色々勘違いしていました。

当時の私は10歳です。10歳は感動すると、こう考えます。「リハビリテーションのお医者さんに、俺はなる!!(ドン!!!)」

この頃聴いていた音楽は、嘉門達夫や、たま、ですね。斬新な切り口で綴られたリリックは「まさにヤバすぎるスキルだ!」と当時の私は考えていました。

中学生編~バレーボールは目の保養~

実は私、小学5年からバレーボールを始めてまして、部活は当然バレーボールでした。思考停止で入った男子バレー部ですが、女子バレー部と共同でコートを使うことが不満でした。わてらのほうが結果出してるんやで。キャッキャウフフしながら部活やってる子らとは違うんやで。そう思ってはいても、女子バレー部の上部体幹のバウンスは素晴らしい。「やはり、けしからん。練習に集中できないじゃないか」と不満を募らせておりました。

そして中学1年の時、最後の手術を行いました。当時の私はもう中学生です。色々なことが分かってきています。同じ病棟の女性と親しくなったり、深夜になれば見回りの看護(自主規制)。まぁ変な話は置いておきましょう。それにしても漫画と違って清拭って自分でするんですね。残念。この入院の時は、「暇だなー」くらいしか考えてなかったと思います。あとポケモン赤と魔導物語をやりこんでました。

中学での僕を紹介するとしたら、何故か学級委員に選出され、何故か学年委員長をやらされましたね。初めて会った先生に「お前ならできる」というよく分からない念押しをされたことを今でも鮮明に覚えています。(貴方は、私の何を知ってるっていうの??)と、ちょっと拗らせたキャラクターの気持ちになれました。

中学の時は、このように大人たちの言うことに疑問を呈することって多いと思います。「やればできる」とか「それが普通」とか「酒と煙草は20歳になってから」とか。そんな疑問を持ちながら、私は徐々に中二病への階段を進んで行きます。中学2年で黒夢にハマりPIERROTにハマり……ここまでは良いのです。何を思ったか、この後、マリリン・マンソンにハマりだしました。歌詞の意味は分かりません。中学生ですもの。しかし独特なサウンドと、曲の中で変わる声質。「これは、とっても、やばたにえん」そう思いました。

大体、この辺りから好きな勉強と嫌いな勉強が別れてきました。中学では数学、国語、は好き。社会は先生が嫌い。英語は、どっちでも良い。理科は分野によっては得意、美術は頑張って作っても評点は「2」。毎回「_(┐「ε:)_ズコー」って思ってました。このように既に「好きな物だけ勉強する」という偏った土台が構築されていました。しかし受動的の学ぶのではなく好きなものを学ぶ姿勢は、現在の「気になることはドンドン学ぶ」というスタンスの基になっているような気もします。好奇心の赴くままに行動するというベースも作られていた、と思います。

高校編~この三年間にめっちゃ感謝してんだ~

高校の三年間は私の人生の中で一番濃い時間であったと思います。スクールカーストは中の中、しかし学級委員はやらされる。マリリン・マンソンfeat EMINEMの楽曲を聴いてHIPHOPにはまりまくる。あだ名はラディン。アリゾナでホームステイ(3週間)。Limp Bizkitやslipknotも聴いたりする。ちな、高校時代は童貞ボーイである。

こんな感じで過ごしていたわけですが、事件が起こります。

私は、小学生の頃から「リハビリテーションのお医者さん」を目指していました。いわゆるリハビリテーション科医です。高一の頃は医学部へ進学するための色々な読み物を読んでいました。北関東の医学部なら頑張って浪人すれば行ける気がする、とすら思っていました。センター8割程度でしたし、現実的だなという思いがありました。しかし、私が思い描いていたリハビリテーションのお医者さんは、「リハビリテーション室で患者さんとリハビリテーションを行っているお医者さん」でした。そんな私は高2の秋に衝撃の事実を知る事になります。

「○山くーん、それはちょっと違うんだな」という担任の一言で、私は全てを知りました。

患者さんとリハビリテーションを行っていたのは、リハビリテーション科医ではなく、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士といった資格を持つ方々だと知ったのです。(当時の担任に告知されました)

え?医師を目指さなくていいの?浪人覚悟しなくていいの??

私は舞い上がりました。「ぴえん🥺超えて→ぱおん🐘🥺そう、おㄘんㄘ○だー( ´థ౪థ)ノ」そう思いました。だって……医師を目指すより、ずっと楽なんです……今まで無駄に難しい道(しかも目的地の違う道)を歩いていたのです。肩の荷が降りました……「ありがとうございます。私もっとサボります!!」そう心に誓いました。担任の失敗は「私に楽をさせたこと」です。高校生が目指す先が楽だと知ってしまえば、どうなるか予想がつくでしょう。元来面倒くさがりな私は、もう、そんなに頑張らなくてもいいんだよ、とお墨付きを貰えたのです。これはチャンスです。水を得た魚です。ここから私の怠惰な生活が始まったと言っても過言ではありません。

その後、最低限の勉強(志望校の試験科目、平均8割取れる程度)を行いながら、ヒップでホップする生活を送っていました。この辺りで友達とラップをしたり、某有名HIPHOPサイト(バスタストリ○ト)でリリック上げたり、チャットしたりしていました。その頃は「番犬」というラッパーのリリックが好きでした。ラップを始めた僕ですが、まだ童貞ボーイです。BーboyならぬD-boyです。この辺りから、日本語って面白いなーと思い始めます。わりと読む事が好きだったので、B-boyを語り、顔が濃いくせに、小説や、遺伝子など科学の本、死生観や人生観の本などを読んだりしてました。この辺りで、私の行動のベースが出来上がってきたかな、と思います。興味のあることはドンドン学び体験する。惹かれない、つまらないものは見ない。視界に入っても感知しない。彼女ですか?いないんじゃない!!作らないんだ!!と強がる普通の高校生でした。

とにかく、この3年間はgrateful daysです。カバンは持って帰ってきましたが、ネクタイは置きっぱなしてきました。

大学編~夜は寝床で運動会~

大学生ともなると皆、大人になっていきます。わりと田舎にある大学へ通っていたので、そこの学生はアパートを借りている方が大半です。アパートに一人暮らしをしている方が多く、さらに他の大学との交流はほとんどない場所です。そう、つまり至る所で、運動会が開催されるわけです。(個人の感想です)

私は、といえば、振られる、振られる、付き合う?振られる....。まぁ、最終的に50:50(フィフティ フィフティ)の戦績でした。Dの意思は、そこに置いてきました。欲しければ、探してください、くれてやります。

大学時代は効率的にサボりながら進級、国試に受かる程度に学びながら日々を過ごしていました。高校では生物がとても好きだったので、生理学は楽しく学ばせていただいておりました。この頃は、大学の専門的な勉強よりも、麻雀や音楽に時間を割いていました。麻雀は当時「ハン○ーム」というサイトで通算10000半荘こなしました。そんな中、「科学する麻雀」という1冊の本に出会います。それまで、牌効率だとか、デジタルだとか、「早いリーチは1,4索」だとか、それぞれの打ち手が、それぞれ好き勝手に、「麻雀の打ち方」を本に記していました。読み物としては、それでも良いと思います。しかし「んー?」と疑問に思うものがあるのも事実。そんな本が圧倒的に多い中、「科学する麻雀」です。麻雀の様々な場面が「科学」されてます。大学卒業の際に知り合いに貸したまま、返ってこなくなってしまったので、冬の賞与で買い直します。書いてたら、また読みたくなりました。気になる方は買って読んでみてください。

理学○法士の養成校に通っている編なのに、麻雀の話かい!とツッコミが入りそうなので音楽の話もします。

大学2年の時に念願であった「ターンテーブル」と「ミキサー」を買いました。べスタックスです。当時はテクニクスとベスタックスが2強で、テクニクスが主人公、ベスタックスがライバルという位置付けでした。ひとつ注意しておきます。アナログのターンテーブルです。これでレコード集めて回してヒャッハーできる。そう思い始めたDJですが、結局、家飲みで活躍するだけで終わりました。とっても楽しかったです。

20歳を過ぎれば、お酒を飲める。ということで毎月2-3回のペースで、クラブへ赴きました。主に宇○宮へ行っておりました。そこでDJの選曲や、MCの煽り方、フロアでのノリ方。同年代とのアバンチュール、異性のマブダチ。多くの学びと経験をいただきました。その頃の○都宮は24でやってる居酒屋などないので、クラブをハシゴ、夜が明けたらジョナサ○でモーニングが定番でした。運が良ければ、演者さんとモーニングできたので、色々お話させていただくことも出来ました。これのおかげで、私の行動力のベースが出来上がっていたかもしれません。

ちょこっと、理学○法士養成校の話をするなら、実習の時、バイザーが喫煙者だったことで、コミュニケーションばっちりでした。「喫煙所だとよく喋るじゃない?それが喫煙所以外でも出来ればいいんだよ」評価実習のバイザーの一言です。目からウロコです。「確かに!!」と心に刻みました。実習で教わったことの中で今でも使えているのは、そのコミュニケーション法くらいです。すいません。

そして、全ての実習を終え、国試1ヶ月前まで、合格点に達していなかったため、軟禁され、無事合格し、卒業することができました。その間に、いろいろなロマンティックがありましたが、その辺は割愛させていただきます。マイロマンティックの詳細はmixiの日記でも読んでもらえればいいと思います。リンクは貼らないので、気になったら勝手に探してください。ちなみにmixiにも詳しくは書いてないです。すいません。

理学療法士編~1本いっとく?それぞれのHIPHOP~

そして、2007年。恵林寺焼き討ちから、ちょうど425年経った2007年です。私は理学療法士となりました。恵林寺と聴いて、「あれ?なんか聞いた事ある。」と思った方はいらっしゃいますか?正解です。「生誕~幼少期」でちょこっと出てきました。「何の話だ?」と思った方は、始めから読み直しましょう。暇なときに読み返しましょう。好きなんですよ。恵林寺。桜の時期になると、本堂から見えるんですよ、しだれ桜が。薄暗い本堂から、明るい桜を眺めると心が癒されます。私は、そういう素敵な感性を持っています。

また、脱線しました。理学療法士の話です。多分理学療法士の皆様の大半は経験されていると思うんですけどね。1年目の「何でもできるし俺!」みたいな無敵感。実際は、何にもできなんですけどね。国家試験に通ってきて、すべての知識は手に入れた!みたいな感覚なんでしょうね。「ハイハイ、黙って勉強しまちょーねー」と今なら思います。2年目くらいでやっと気づきましたね。「あれ?わかんない事多くね?マジヤバ大統領じゃん」

理学療法士ってね。簡単に言えば「必要な方に、必要なリハビリテーションを提供する」そんな仕事なんですね。ある日突然気づくわけです。

「あれ?今やっているのって、リハビリテーションか?」そう考えたとき、こんな疑問が湧いてきました

職場に入ってまず教わったのは「ストレッチ」や「リラクゼーション」だ。生活動作や運動の指導方法なんかは教わっていない。あれ?でも何でみんなは、やってるの?なんで、できるんだろう?

そんな疑問を考え続けて、私が24歳にして、やっと気づいた事が2つありました。

①社会人が教えてもらえる事は最低限のレベルの事である。
②分からないことは、教えを乞わねば、教えてもらえない。

確かに、仕事をする上で最低限これだけは押さえて欲しいところは、しっかりと教わりました。そのあとは自分で持ってる知識や技術を用いて仕事をするのである。それでも出来ない部分は、自分で学ぶか、教えを乞うて教えてもらわねばならない。だって私が「何を知らない」のか、それを他者が把握できるわけがないのだから。「何ができるのか」も適切なコミュニケーションがなければ、把握する事は困難でありましょう。社会人になって13年経過した今だから、強くそう思えます。「できるできない」「知ってる知らない」この辺りのすり合わせは、新人スタッフとこまめに行うようにします。私が教育担当として職場に立てているのは、若かりし頃の気づきが大きいですね。

その気づきから私は変わりました。積極的の学び、意欲的に経験し、攻撃的に飲み続けました。学びとは、文献や本を読んだり、セミナーに行くことだけではありません。日々の出会い、経験からも多くの事を学べます。1人の患者のリハビリテーションを丁寧に行う。これだけで多くの学びが得られるのです。

この頃は色々なビジネス書や啓発本を読んでいました。「仮説思考」や「数学的思考法」、「ロジカルシンキング」、「ラテラルシンキング」、「地頭力」……地頭力は、良く覚えていないです。なんか、思考に関するものが多いですね。今気づきました。

これらの経験は、問題解決や目標設定、さらにリハビリテーションの展開に多分に生かされております。こういう経験ができたことも運がいいなぁ、と思います。

また、ここ1年半ほど(2020年11月現在)、Twitterで多くの方とお話させていただきました。多くのセラピストや高IQ界隈の方々、インフルエンサーやTwitterガチ勢の方々。たくさんの方と関わり、たくさんの学びをいただきました。色々な方々と関わる度に、視点が増えていきます。ある事象において、見方や感じ方が増えていく程、私がリハビリテーションを展開する時に、より患者へ近づけると考えております。今後も私と皆様のためになれるよう尽力させていただきますので、よろしくお願いいたします。(理学療法士編は2pac ,Snoop dog,など聴きながら書いておりました)

終わりに~読んでいただき、ありがとうございます~

いかがでしたでしょうか。OJCという人間がよく分かりましたでしょうか。

多分、多くの人は、よく分からない。と思います。大丈夫です。その反応であってます。

最後に私をまとめます。

基本的に面倒くさがりで、人間と日本語と音楽が大好きです。考えることも好きです。キャラクターは千変万化であります。「OJCはこんな人間だ!」と思った瞬間、違うキャラクターとなっているでしょう。「よく分からない」とか「底が見えない」、これらはよく言われます。私のキャラクターなんて、私でも把握していないのに、他者に把握されるなんて悔しいじゃないですか。負けられない戦いがここにあります。

こういった多面性は、誰しもが持っているものかもしれません。自分や知人のことが理解できない、そう思った時、その理解できない部分を受容できると、もっと人生が楽しくなるかもしれませんね。

最後に1度格好よく自己紹介します。私は、自身と他者の幸せのために、知を探求する、どこにでもいるリハ職です。

では、長々とお読みいただきありがとうございます。これで全文ですが、面白かったら購入していただいても結構でございます。めちゃくちゃ元気が出ます。

何か言いたいことがあればTwitterの方へどうぞ\(๑´ω`๑)/

↓Twitterアカウント

@OJC3000


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