note読んでるシャニマスオタク、絶対これ好きでしょ。 ~「違国日記」編~
やっぱりさぁ……。
作品に通底してる大きなテーマの一つが「他者理解」だよね。
「あなたの気持ちはあなただけのもので、決して分かることはない」ってことを前提にした上で、知りたいと思い続けながら隣で生きる、その当たり前に向き合う登場人物たちに心を打たれるよね。
その相互理解のために言葉を使うわけだけど、言葉で伝えられることにはどうしたって限界があって。それでも、それでもって言葉を探して共に生きようとする、それしかできないけどそれ自体が一つの希望だったりするよね。
別の角度でいうと「子どもに対する大人の在り方」もハッとさせられるよね。
子どもを侮らずに、1人の対等な人間として接する。
そうやって大人たちもちゃんと影響を受けて変わってくのが素晴らしい関係性だよね。
そしてなによりも、彼女。
彼女の衝動的な行動ですよ。
後で後悔するって分かっていても、黙っていられない。
人生を変えてしまうとしても、曲げられない信念がある。
青く静かに燃えるような激情にやられちゃうんだよね。
さて皆さん。
まーたオタクがダラダラとシャニマスの良さを語ってらぁ
って思いましたか?
てぃがうのです!!!!!!
冒頭で語ったものは、実はすべて"ある作品"の感想だったのです!!!!!!!!!!!!!!!
その作品とは漫画「違国日記」(タイトルでネタバレしているから叙述トリックが成立していない)
人見知りの小説家・槙生と両親を亡くした高校生・朝が共に暮らすお話。
今年実写映画が放映され、アニメ化も決まっている有名作です。
この作品の広報でよく用いられる「人生の本棚に入った」という感想は本当に言い得て妙で、私もこの漫画を収納するために人生の本棚を設置しました。
一方で私は、人生の鉱山からフェザージュエルを削り出してシャニマスに費やしている人間でもあるわけですが。
(↑熱中症になりながら撮影して、メガシャキを飲みながら夜通し編集した動画)
ふと気づいたわけです。
「シャニマス」と「違国日記」で、同じ琴線がビンビンに震えているなと。
というわけで、このnoteはシャニマス好きを対象に「違国日記」を徹底的にオススメする記事になります。
とはいえ一口にシャニマス好きといっても様々な楽しみ方があると思うので、適性を測るためにチェックシート的なものを作ってみました。
以下のうち、自分にあてはまるものを数えてみてください。
いかがでしたか?
このチェックシートに1つでも当てはまった人は
今すぐ「違国日記」を読んでください。
さて、いよいよシャニマスPである私が「違国日記」に感じる魅力を具体的に語っていきたいのですが、私の胡乱な感想によってネタバレをしてしまうのは本意ではないため、以下の目次に沿って、漫画の進捗に応じてこのnoteを読み進めていただけたら幸いです。
なお、あえて「違国日記」とシャニマスで共鳴する部分をあげて紹介しますが、作風も世界観も当然異なるので、ぜひ単体の作品として楽しんでほしいのが本音です。
まあでも、なぜこの2つの作品に感動したのかを考えた結果、私はシャニマスの世界をもっと好きになれたので、皆さんにもぜひ「違国日記」に出会ってほしいと思っています。
なにより、「違国日記」の物語を必要としている人にちゃんと届くための一助になれれば幸いです。
皆さんの使っている漫画アプリなどでも3話くらいまでは無料で読めそうなので、最初の一区切りにしました。
まいりましょう。
(※断片的なスクショ画像なので大きなネタバレにはならないですが、コミュのネタバレを一部含むので、項目の前に引用するものを都度書いておきます)
① page.3(3話)まで読んだ貴方へ
page.1は同居生活がしばらく経った後のとある一日の描写だったので、2人の出会いから描かれるのは2話分しかありませんが、それでも槙生がどんな人間かはある程度分かったんじゃないかと思います。
印象的なシーンはなんといってもここですよね。
このシーンを読むたびに、樋口円香のG.R.A.D.を思い出してしまうわけです。
誤解のないように先に言っておくと、円香と槙生の性格や人間性が似てるとは全く思っていません。円香は槙生と違って社交辞令も言えるし。
ただ、魂の気高さみたいな部分に通ずる部分が非常にあると思っています。
あと、やたらフェアであることに拘るとこも少し似ています。
自身の気高い魂に対して潔癖で、それゆえに融通が利かないみたいな人間に自分は惹かれてしまうんだと思います。
さて、ここまで「違国日記」を読んでなにかしら感じるものがあった人は、どうかそのままこの作品を読み進めてください。後悔はしないはずです。
ちなみに、この時点で既に「チエルアルコ」の匂いを感じた人もいるんじゃないでしょうか。
次は3巻まで読んだ後でお会いしましょう。
② page.15(3巻ラスト)まで読んだ貴方へ
チエルアルコの話すると思った?
残念、まどかほでした。
【斜陽】の樋口円香と小宮果穂のやりとりが至宝なのは言うまでもないことですが(まだ読んでないひとはどうにかしてどうにかしてください)、
果穂が「おねえさんの匂い」を感じてるとき、私は「槙生の匂い」を感じていました。
ここで樋口と槙生に共通するのは、「子ども相手だから」と態度を変えたり侮ったりしない姿勢です。
難しいことばを「年下/子どもだから」という理由で説明を怠らず、言葉の意味を丁寧に教えたり、間違いを間違いと指摘したりといった、すこし不器用で誠実な態度とか。
「子ども相手だから」と態度を変えないせいで怒ってると誤解されたりとか。
円香本人はこう言っていますが、果穂を一人の人間として侮らずに対等に接する姿勢は放クラのおねえさんたちの関わり方と本質的に同じだと思います。
「子どもだからという理由で侮らない」というのは「違国日記」の大きなテーマであると共に、放クラの関係性においても重要な要素でしょう。
果穂の悩みや疑問を決して矮小化せずに、膝を突き合わせて建設的な議論をしてくれる放クラのおねえさん達はあるべき大人の姿を示していると思います。
例を挙げればキリがないですが、正確かつ平易な言語化ができるちょこ先輩の素晴らしさったらないですよね。
この「他人の気持ちには干渉できない」というシビアな現実から逃げずに接する姿勢もまた「違国日記」で繰り返し描かれます。
さてさて。
ここまできて続きを読みたいと思ってくれる人にこれ以上の御託は無用だと思っていますが、せっかくなので気が向いたらこのnoteに戻ってきてください。
また シャニマスの話 しましょうね。
③ page.35(7巻ラスト)まで読んだ貴方へ
5巻のラスト、本当に好きなんです。
朝の求める「言葉での繋がり」を得られなかった(=槙生が与えなかった)にもかかわらず、「物語」によって間接的に心が通じる瞬間があって、それによって「両親の死」を初めて受け止めることができるのがすごく美しくて。
ここまで読んだらわざわざ言うまでもないですが、言葉を持つからこそ言葉の限界を知っている槙生と、言葉を持たないからこそ言葉にしてほしい朝という対照的な二人であるといえるでしょう。
持っているたくさんの言葉で本心を必死に隠しながら、隣に立ってくれる誠実な成人男性を「言葉では何とも言える」と警戒し拒絶するアイドルがどこかにいたような気がしますが、結局彼女も言葉の限界を身に染みて分かってしまっているんでしょう。
それはそうと。
物語が進むにつれ、朝が周りの人たちと関わることによる社会との接続が少しずつ描かれていきます。
「世界中で自分に関係のないことなんてない」。
現時点の朝には理解できないこのセリフは、社会の中で無数の隣人とともに生きる上で重要なキーワードでしょう。
「無数の隣人」といえば、、、もちろん「はこぶものたち」ですね。
少女小説家として物語を紡いできた槙生は「誰かのためになんか書かない」と断言します。
ではなぜ小説を書き続けるのか?彼女にとって「物語」とは?といった命題に関しては読み進めて確かめてほしいところですが、少なくともここで朝に語ったことに偽りはないでしょう。
「誰かのために」という理念の危うさは、まさに「はこぶものたち」で描かれていました。
「自分に変えることができるのは半径30㎝の世界のみ」という現実を受け止めながら、それでも誰かを思うことを諦めない。
イルミネーションスターズの眩しさを再確認したところで、いよいよLast pageまで読み進めましょう。
④ Last pageまで読んだ貴方へ
「違国日記」を最後まで読んでくれて、そしてこのnoteに戻ってきてくれてありがとうございます。
どうでしたか?
私は最終巻はもうずっと泣きながら読んでいました。特に最終話が美しすぎて……。
(※最終話はあえて画像では引用しません)
まず、言葉を持つ槙生と言葉を持たない朝、「違う国」の住人の2人が、「違う国」のまま感情を発露し、ついに言葉で交わらないままお互いの愛を確かめる瞬間……美しすぎる。
そして、電車内のシーン。
槙生にとって最大の呪いである姉の言葉も借りて、朝への思いを綴った詩。
決して「朝のため」に書いていない「自分のための祈りの詩」が、朝に届くだけでなく、えみりや朝の同級生たち、あるいは名も知らぬ読者の心に刻まれるのが、「言葉」を真摯に描き続けたこの作品の締めくくりとしてあまりに美しすぎる。
さて、改めてこの作品のテーマを考えたときに、最終話直前のこのシーンがとても重要だと思っています。
他人と共に生きる困難さを人一倍感じながらも、「それでも、それでも」と諦めずに言葉を探し続ける槙生。
シャニマスもまた、「他社理解」という切り口で考えたときに、言葉の限界を思い知りながら「それでも」ともがき続けることが基本姿勢になっていると思います。
「絆光記」がまさにそういう話でしたね。
イルミネのコミュで顕著に描かれるため引用が偏りますが、どのアイドルやユニットをとっても、基本思想として変わらない部分だと思います。
そして、もうひとつ「シャニマス」の大きなテーマとして「祈り」があると個人的には思っています。
これも、槙生が朝への祈りを詩にしたためたように、「誰かのためではなく、ただ自分のために、それでも誰かのことを切実に思って出来ること」は結局「祈り」以外にないからでしょう。
私もシャニマスで読めていないコミュも多々ありますし、履修に偏りがあるので、人によっては全く違う共通点を見出すこともあるだろうと思います。
ぜひ皆さんの感想も聞かせてください。
だって私は、シャニマスと違国日記と、そしてあなた自身の話が聞きたくて、このnoteを書いたのですから。
さて、最後に。
唐突かつ偏った思想を一つ投下します。
私は、樋口円香担当としてこう思います。
樋口円香には槇生のような大人になってほしい。
再三言っている通り、円香と槙生は全然違う人格であることは前提の上です。
槙生の人生に「呪い」としてこびりつく姉の存在。
しかし、その呪いがあったからこそ槙生は小説家になれたのかもしれないし、朝の人生を巡り巡って救うような言葉を手に入れることができたのではないでしょうか。
ところで、樋口円香にとっての「呪い」といえば、(「アイドル」だという説は置いておいて)あれしかないでしょう。
美しいものに苦しめられる樋口円香を見て、シャニマスP諸兄姉は「呪縛から解放されてほしい」と思っている人も多いようですよね。
パラコレ円香の"水色のネイル"に息の根を止められてる人も多かったようですし。
でも、個人的にはあんな呪いが完全に解けるはずがないと思ってまして。
だからこそ、呪いを飼い慣らしながら自分の人生を生きていく樋口円香が見たいわけですよ。
それができているなら、ネイルがどうとか指輪がどうとかは些細な話なわけですよ。(それはそれとしてパラコレの内容は納得いってないが)
呪いとともに生きていく覚悟を決めた人にしかない美しさがきっとあるし、そんな大人だけが、同じような呪いに苦しむ誰かにかけられる言葉がたくさんあるはずなので。
(2024/10/06追記)
作品からの引用で「呪い」という表現を使いましたが、円香の彼女への感情に対して私はポジティブな受け止め方をしているので誤解のなきよう。
「それを すてるなんて とんでもない!」ですよ、あの感情は。
あれがなくては樋口円香は樋口円香たりえないと思うし、樋口円香自身にしかない美しさはそこから生まれるはずなので(参照:【翅がみえた】福丸小糸)。
今はまだ連れ添い方が分かってないだけ。いつか描かれるのが楽しみですね。
(追記終わり)
アイドルじゃなくてもいいから、
彼女が自分の美しさに気づくまでは"表現"を続けてほしい。
そんな祈りをそっと置いてこのnoteを閉じようと思います。
ではまた。
(蛇足)
実写映画ですが、私ももちろん見まして。
11巻の濃密な物語を2時間の実写映画に再解釈するというスーパー無理難題に、ものすごく真摯にむきあった素敵な作品だったと思います。
個人的には漫画を読んだ後に興味が湧いたら、別の違国日記を見るつもりで鑑賞するのをオススメします。
きっとこっちの世界の槙生も朝も好きになると思います。
インスパイアソング(なぜか映画内で流れない)も素晴らしいのでセットでぜひ。
それはそれとして、映画関連で1個書き残しておきたいことがありまして。
この構図、めっちゃ【奏・奏・綺・羅】。
これも誰かの隣で生きることを優しい筆致で描いているコミュなので素敵な偶然だなと思い、大した気づきではないんですが、せっかくなので書き残しておきました。
ほんとに終わり。
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